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9 ケモノじゃないんだ

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 夕食後、田中が皿を洗い、洗い終えた皿をえんがふきんでふいて、食器棚に戻していく。えんはばあさんと二人暮らしが長いだけあって、家のこともひととおりできる。そういう意味では田中にストレスはない。
 えんが田中のところに転がりこんで、一か月がたとうとしていた。
 明日の飯は何にしようかなあ、と、その時田中は考えていた。
 田中一人だと肉とサプリだけになりがちな家の食事も、成長期のえんのため、バランスのとれたものを、と田中は思うのだ。
「あのさあ、俺、明日帰るわ」
「おお、そうか。ばあさん帰ってくるのか」
「いーや?」
 えんは首をすくめた。話せたのはそれだけだった。
 その夜えんは珍しく田中のベッドに来なかった。おかげでぐっすり眠ってすっきり目覚めた田中は、久々に朝ランに行くことができた。出勤の準備をしている時にふと思い出して、尋ねた。
「そういや、ばあさん帰ってこないって昨日」
 えんは髪ゴムを口にくわえ長い髪をくるくるとまとめながら、首をすくめるのみだった。
 田中はいったんドアの外に出たが、どうも気になって、また戻った。
「お前、その、アレはどうすんの」
 訝しげな顔に、田中は口ごもる。
「いや、なんでもない、気にするな」
「あー、ひょっとして結婚のこと? ナシでいいよ。別に訴えたりしないし」
「そうか」
「うん」
 えんはそっけなく答えた。
 その言い方がやけにひっかかり、遅刻してでも問い詰めるべきだったと、田中は一日後悔した。仕事が終わって急いで帰宅すると、本当にえんの荷物がなくなっていた。
 誰もいない一人の部屋でようやくのびのびできるはずが、落ちつかない。何か、えんの気に障るようなことをしたのか、その原因をああでもない、こうでもないと考える。
 心あたりだらけではあるが、うまくやっているといえばうまくやっていたのだ。その証拠にえんは最近田中を睨まなくなった。
 そこまで考え「睨まなくなった」ってなんだ、と思った。
 睨まれるというマイナスが、ゼロになっただけだ。そこにポジティブな意味を見出すなんて、とんだコミュニケーションの底辺である。
 田中はどこかで、自分がえんにとって特別で、その他大勢の者たちとは違う、と高をくくっているところがあった。シャンプーやマッサージをしてくれる優しい指に、知らぬ間に油断しきっていた。
 いろんなことを考えているうちに、えんのことが、心配でたまらなくなってくる。今頃誰もいない家に一人なのかと思うといてもたってもいられなくなってくる。
 田中は衝動的に家を飛び出して、ジグ・オークの前まで来た。窓には明かりがついていて、いったんほっとする。
 すぐには立ち去りがたく、物陰から、大きな樫の木に寄りそうように立っているボロ屋を、しばらく眺めた。
 えんに危害を加えるようなあやしいものが現れないかと周囲を見回していて、はっとなった。誰が見ても自分自身が一番怪しい。
 単に、えんが田中に飽きた。だから離れた、そう考えるのが自然だ。自分で言っていたではないか。相手が盛り上がると冷めると。そのせいで、相手を怒らせて揉め事になると。
 ひょっとしてストーカーの最初の一歩って、こんな感じなのかもしれない。奇妙な義務感と責任感、そして自分は相手にとって特別だという気持ち、執着。
 いやいや、そんなことはない。田中はばあさんから直々にえんの世話を頼まれているのだ。一緒にされてはかなわない。振られて、妄想がふくれあがり、自分買勝手な行動で相手に迷惑をかけ危害を加えるストーカーとは違う。
 あくまで「番犬」としての義務だ。田中はえんの無事を確認できたのだ、任務は終わったと自らに言い聞かせ、帰ろうとした。
 ばあさんが帰るまではえんの安全を守る。
 ばあさんが帰ってきたら自分は何食わぬ顔で、えんを引き渡し、えんとは無関係な存在になる。
 その時、窓が開いて、見たことのない顔が現れてすぐ、ひっこんだ。イヌ種の男に見えた。黒い毛が田中と似ている。
 田中の全身の毛が一気に逆立った。
 田中は一段飛ばしで階段を駆けのぼると、ドアを蹴破る勢いで、中に入る。電子音がフアンフアーンと鳴り響く。
 えんとイヌ種の男、二人が同時にこちらを見た。
 イヌ種の男は手にはさみをもっていた。考えるより先に身体が動き、手首を手刀で打撃し、凶器のはさみを叩き落した。丸腰になった相手に、体当たりする。男は田中にあっさりと取り押さえられた。
「えん、通報しろ!」
「田中違う!」
 黒い毛のイヌ種の男は「ひ~」と細い悲鳴をあげている。顔の大きさに対し思いのほか、身体が小さい。
「タグ、切ろうとしただけっすよ……」
 その声に聞き覚えがあった。
 よくよく見ると首が本来前を向いていなければならない方向と別の方向を向いている。普通、ありえない向きだ。よもや首が複雑骨折? と思ったが、「つなぎめ」が目に入り、そうではないことがわかった。
 田中は男の「顔を」ズバっとひっぱった。すると、中から見知った顔が現れた。
 それは美容師のカット練習用のイヌ種の頭部だった。タグがついたままだった。床に転がっているはさみは、確認すると先の丸っこい、子どもが使うようなかわいらしいはさみだった。
「すまん、この状況を教えてくれ。できれば時系列で」
 田中は、次田を助け起こしながら、言った。田中がもしサル種なら、顔が真っ赤になっていたに違いない。

「俺、えんちゃんにワインぶっかけました」
 次田は悪びれずに言う。
「えんちゃんが先に俺にぶどうジュースぶっかけたからだけど、やり返すとかさすがに大人げなかったです。だから謝らないと、とはずっと思ってて。……え? なんでそんなことしたか? 田中さん、それ本気で聞いてます? この傷心の俺に」
 ぺらぺらしゃべる次田とは対照的に、えんは何も言わず、ヘッドをケースに戻している。それはそのままサル種の人間がかぶることができるタイプのものだった。カットモデルがいなくてもカットの感覚が練習できるよう、そうなっている。
「で、まあカットの練習台になら俺なれるし、ってことで、お詫びのつもりで。あ、もちろんおばーさまの了承は得てますよ? え、わ、うわーーーーーーーー」
 興奮状態でしゃべっていた次田が、急に眼を見開き、叫ぶ。
「ちょ、わ、死ぬなーーーー」
 叫んでいる今この瞬間にも、えんの長い手足の残像しかとらえられなかった。次田と田中の目の前で、えんは誰にも何も告げずに、ひょいと窓の外に飛びだした。
「ギャーーーーーーーーッ」
 次田が叫ぶ中、田中はすぐさま窓に駆け寄り身を乗り出す。そうすることでぎりぎり見えた。
 えんが枝にぶらさがり、反動をつけて、太い幹のくぼみに足をかけてもう一つ上の枝に登るところの、片方の足がわずかに見えた。
「えんっ、こらっ、危ない! 戻って来い!」
 返事をしないえんに、田中は思わず窓枠に足をかけた。しかし外は、月夜で明るいといっても、見上げる大木は暗く高く恐ろしく、動けない。田中はイヌ種の多くの者同様、高いところは苦手である。高所恐怖症である。
 田中は叫ぶ。
「こら、何か言え! お前、口は何のためについてるんだ! 逃げるなっ」
 これじゃあ何もわからない。変わらない。変われない。
「えん!」
 広がる夜の暗がりの中、返事すら返さないえんに、恐怖よりも苛立ちが勝った。田中は決死の覚悟で手近な枝をガッと掴んで、一歩を踏み出す。
 下を見ると、足がすくんだ。しっぽが完全にたれ下がる。落ちたら骨折くらいですめばいいな、と思った。それにしても本気か、正気か、自分。
「田中さん、危ない、ダメですって! 後追い自殺とかだめ!」
 勘違いする次田を無視し、おそるおそる足を太い枝にのせた。田中の体重でしなりはするが、思っていたよりもしっかりと支えてくれる。それに勇気をもらって、なんとか中心部の幹にたどりつき、抱えつき固まって、上を見上げる。えんの姿はまったく見えない。
 いや、サル種も全員が全員木登りが得意なわけじゃないと、何かに書いてあった。それなら逆に、イヌ種の自分が、逆にすいすいいってもおかしくないはず。
 そんな根拠のない理屈を胸に、さらに上へと足を幹のでっぱりにかけた。同時にびゅっと突風が吹いて、大木とその枝葉が一気にざわっと田中に揺さぶりをかけてきた。
「ひ、」
(うわあ無理無理無理無理無理)
「何やってんだよ!」
 上の方からえんの驚きあきれた声がした。まさか田中が自分を追いかけてくるとは思わなかったのだ。
「なあ、進めないし戻れない!」
 えんに訴えた。固唾をのんでこちらをうかがっている気配がする。
 田中はえんを追うのを諦め、もと来た二階に戻ろうと考えた。しかしさっきの突風で完全に気持ちがくじけてしまった。前進も後退もできそうにない。
(これはやばい。やばいやつだ)
 木の幹にしがみついている手も足も疲れでしびれてきて震えだす。不自然な体勢で緊張しているため、全身がこわばりはじめる。
 ガサっと音がして、上方からえんが降りてきた。驚くほど身軽で、体重がないような動きに見惚れると同時に、はらはらする。
「おい、気をつけろ」
 自分は木にしがみついているのがやっとだというのに、そんなことを言える立場じゃないのに、思わず言ってしまった。
 えんは終始無言で、田中のいる地点を通りすぎ、そのまま地面に着地する。ひょっとして誰か助けを呼んでくれるのか、と田中が思っていると、そうではなかった。
 えんは、地上から田中に向かって両手を大きく広げた。
「!?」
 それには田中も、声すら出なかった。
 乗りだすようにして二階の窓から二人の様子を見ていた次田も、「ふぁ?」という顔をしている。
 えんはサル種の男にしては背が高い。しかしその身体はうすっぺらく、田中との体格差は歴然としている。
 なのに田中に向かって腕を広げる。
 飛び降りて来いと、せいいっぱいを全身で示しているのだ。
 そんなこと、現実でやったらお前、死ぬぞ。
 常識的に考えればわかるはずなのに、えんは、口を真一文字にむすび、とても真剣な顔をしていた。本気だった。
 田中は一瞬えんの元へ飛び降りそうになった。
「おーい、えんちゃん無理だよぉ、それ!」
 次田がえんに向かって叫ぶ。
 その声で田中は我に返った。田中は決意をする。このまま樫の木を抱きしめ、一生を終えたくない。
「下は無理だ。だけど上になら行ける気がするぞ! えん、助けてくれ」
 己を奮い立たせるように田中が吠えると、えんは早かった。二階の窓まで戻ってきて、さっきと同じように窓から出て、田中のいる場所までたどりつく。また風がびゅうとふいて、木全体がざわざわと騒いだ。
「しっかりつかまってじっとしてろ」
 えんは低い声で言うと、田中の肩に手をかけ、田中づたいに一つ上の枝にうつった。田中は木と一心同体になったつもりで足場になり、えんを助けた。
「腕はこっち、足はここにひっかけて」
 木登りには、足や手をかけるポイントがあるようで、その地図をルートを、えんは田中に丁寧に教えながら上へ上へと進む。
 田中はこれ以上格好悪いところは見せられないと、ただえんの動きだけに集中し、えんに従った。下は絶対に見ない。見たら身体が動かなくなるのがわかっていた。
 ようやくたどり着いた屋根は、想像以上に傾斜が急で、木の上よりは幾分ましだというだけの、恐ろしい場所だった。
 えんは田中が屋根の上にのぼったのを確認すると、慣れた様子でひょいひょいと屋根の上を歩き、手招きする。田中は腰をぬかしそうになりながら這っていく。木の葉やごみのふきだまりがあり、それらを取り除くと、そこには天窓があった。
「ここ、雨漏りするんだ。だから普段はふさいでる。ガタがきてるからたぶん壊せる」
 田中はえんと交代し、力づくで窓をはずした。内側にはカレンダーから切り取ったらしき適当な海の写真が貼られていた。のぞくと次田が見えた。
 次田は察して足場になりそうなテーブルを窓の下に用意している。窓は田中のような大男でもなんとか通れそうな大きさだった。
 田中は慎重に窓に足をいれる。かなりぎりぎりだが、いけそうだった。
「助かった。ここはちゃんと弁償するから」
 田中の言葉に対し、えんが何か言った気がして「え?」と聞き返す。
「ってない」
 聞きとれたのは語尾だけで、とても小さな声だったので、さらに田中は、耳をピンとさせ、聞き返す。
「……なに?」
「嘘ついた。ヤってない」
 田中がそれについて答える間もなく、引っかかっていた腰の部分がずるっとぬけて、身体半分落ちる。胸から下は建物の中で、上は外といった状態だ。何を「ヤってない」のかは、聞くまでもない。
「えん、そんなのは、それは、問題じゃないんだ」
 えんは困っていて、怒っている、泣きそうで、すねている。いろんな気持ちがつまった顔で田中を見つめ返す。
 田中は最初サル種の人の表情や感情をわからない、わかってもいまいち確信がもてずにいた。しかし今では、サルだとかイヌだとかは関係なく、全部まるごとすっかりえんの気持ちが伝わってくる。
「ともかくちゃんと話そう、今ここじゃなく、ちゃんとした地上の落ち着く場所で」
「……やだ」
「やだ、って!」
 この期に及んで抵抗するえんに、田中は思わずふきだした。さすが反抗期だ。
 笑った次の瞬間、田中の身体は落下し、テーブルの上に足から落ちた。テーブルが衝撃で壊れ、田中は壊れたテーブルの上に倒れ、大の字になって天井を見る。
 えんの顔が、小さな四角の窓にきりとられていた。月明かりの下、長い髪が風にあおられていた。
 まもなく二本の足が、にょっきりと天井に現れた。ぶらんとぶら下がった。
 田中はバッと体勢を整える。案の定予告なく、えんは田中の上に落っこちてきた。田中はえんの身体をしっかりと、全てをうけとめた。その一部始終を見ていた次田は、「ヒーローかよ」とつぶやいた。
「痛いところはないか」
 田中はえんの目をしっかり見て尋ねると、えんはこくんとうなずいた。
「良かった」
 田中はえんの髪をぐちゃぐちゃに撫でた。そのせいで、えんの長い髪はこんがらがってもしゃもしゃの鳥の巣みたいになる。
 あの夜ヤッてないことは、えんの態度や記憶の断片から、なんとなくそうじゃないかと思っていた。
 それでもあえてそれを言いたてなかったのには理由がある。
 問題は、田中自身だ。あの夜えんに対し、はっきりと不埒な気持ちがあった。実際の行為がどうこうではない。
 どの方面からみても「有罪」だ。 
 
 次田が、「あとは勝手にやってください」とげっそりした顔をして帰っていった。
「もう僕が入るスキがないくらい仲良しだって、よーくわかったんで」
 田中はそれに対し、「うん、仲は悪くねえよ」とこたえた。毛並みはぼさぼさで、身体のふしぶしは痛く、気を抜くと舌がだらりと垂れそうになるくらい疲れきっていた。
 片づけは後にして、えんも田中も妙に無口なまま、順番に風呂に入って汗と汚れを落とした。 
 田中が風呂から出てくると、えんは田中の腕をひっぱり、ベッドまで誘導して押し倒した。
「えっ、えっ、ええと?」
 田中はぶるぶると首をふったが、えんはひるまない。強引に田中をうつぶせに寝かせると、すかさず顔の下にクッションをさしこんだ。木にしがみついていたせいで、こわばった肩と腕をもみほぐす。これには田中は身を差しだして任せるしかなかった。
「だからなんでこんなにうまいんだ……」
「毎日ばばあ揉んでたら、誰だってうまくなる。ばばあ、疲れた疲れたうるせえから」
 えんは口が悪くて生意気で、反抗期だ。でも優しくて思いやりがあり、けなげだ。
 ……そういうことだ。
 知らず知らずのうちに、うつらうつらしてしまい、このままでは落ちる、という時、えんの動きがとまった。田中の上で倒れて動かなくなった。何か体重をかけるマッサージの技かと思って、しばらくそのままにしていたが、何も始まる様子はなかった。
 ぱたぱたとわざとしっぽを大きく動かしてみたが、反応がない。その身体は田中の背中の毛にすっかり沈んでいる。
 マッサージされる側がうっかり眠ってしまうことはあっても、マッサージする側が眠るなんてこと、あるのだなあと田中は驚いた。
 起こさないようゆっくりとえんの身体をずらして、抱き上げた。そしてえんの部屋に行き、ベッドにおろそうとした。
 しかしできなかった。えんが田中の胸元の毛に顔をうずめるようにし、その指は小さな赤ん坊のようにぎゅっと強く毛を握りこんでいた。
「離してくれないと帰れない」
 えんは身動きせず鼻をすする。えんが顔をうずめていた毛にしっとりと湿気を感じた。田中は、困りはてて尋ねた。
「離し……、いや、なんでぐずってるのか話してくれよ。言ってもらわないとわかんねえし」
「どうせお前はイヌ種の女しか好きにならないんだろう」
「はあ? やぶからぼうに何だ」
「前、次田が、サル種で男の俺が田中を好きになってもムダだからやめろって言ってきた。だからぶどうジュースぶっかけた。そしたらあいつ、ワインを俺に」
 マッサージや朝のスタイリングをすることで好きをアピールしてきた。部屋におしかけ、結婚を迫ったのはやりすぎだったかもしれない。でもできることはなんでもやった。
「がんばったけど、無理だった」
 ボディタッチしようが裸で迫ろうが、相手はびくともしない。こんなの心折れる。
「ぶっ」
 田中は口より先に身体が動いて、次田にジュースをぶっかけるえんを想像し、ふきだしてしまう。
 えんもたいがいだが、ワインをぶっかけ返す次田も次田である。普段、どれだけ猫かぶってたんだ。ここまで自分に人を見る目がないとなると、逆にふっきれてくる。
 田中は、手首側の柔らかい毛でえんの顔をごしごしふいた。えんはいやいやをしたが、途中からおとなしくされるがままになる。
 目の前のえんは、すっかりしょげきっている。田中はぐわわと十代の頃のように走りだしたくなった。
 えんは言い寄られて流されるままの恋愛経験はあっても、自分の方から好きになることはなく、どうしていいのかわからないのだ。
 それを思うと田中は衝動的にえんの頬を、ペロッと舐めた。
「ひゃっ」
 張りつめたものが、ぱちんとはじけたようにえんは驚き、目をまんまるにし田中を見る。その顔がかわいらしい。
 突然、バチバチバチバチと何かが目の前ではじけた。目がちかちかする。
 こんな顔だったのか。
 えんはこんな目、こんな鼻、こんな口、こんな頬をしていたのか。姿かたち、髪、耳、首筋、肩、胸、手足、まるで何か新しいなにか、更新プログラムが書き換わるように、田中の目は一気にいろんな情報を脳に伝えはじめた。
 ふと自分の手が目に入った。くまなく黒い毛で覆われている。顔をさわる。前にぐっと突き出ていて、口が大きく裂けている。
 それが当たり前だと思っていた。なのに、急に違和感としてたちあがってくる。えんがこんなにすべすべのつるんとした肌をしているのに、自分はそうではない。濡れていない鼻、小さな口、二人、同じ人間なのに、まるで見た目が違う。
 こんな感情初めてだった。
 最初サル種の人間をアンバランスだと思って、不完全な存在として見ていたはずだ。それが毎日サル種の人々に囲まれ、接しているうちに、どんどん彼らの世界に浸食された。
 田中は自分がいままで何を見てきたのだろうと思った。
 さっきから、えんがきれいでかわいくて完璧なかたちをしていて、チカチカする。戸惑いの真っただ中にいる。お前、こんな美人だったのか、詐欺だ。嘘だ、なんなの。
「田中、しっぽ」
 しっぽに手をのばす。田中の太いしっぽはもはやちぎれるのではないかと心配になるくらい、ぶんぶんとぶんまわっている。
「どうしちゃったんだよ、わわわわわ」
 えんは激しく動くしっぽの先端に手をさしのべる。えんの手にバシバシとしっぽがあたる。指摘されるまでもなく、何か熱いものが暴走寸前だった。
 田中にとっていつも不本意なしっぽの動きだが、今回は、田中本体も、付属物であるしっぽも、全会一致で「えんがかわいい」を採択している。
「話をしよう」
 けものじゃないのだ。
「好きだ」とシンプルに伝えるべきか、正直に「今好きになった」ことを白状するべきか。
 田中は、えんのもう片方の頬をベショリと舐めた。
 えんは再び「ひゃっ」と驚き、その後、田中がこれまで見たことがないようなかわいい顔でけたけたと笑った。
 折にふれて、もっと笑った方がいい、愛想よくしろ、などえんに説教してきた田中だが、これはこれで困ってしまう、と思った。
 こんな顔をされては、田中がいくら番犬として威嚇したとしても、だれもがみんなえんに夢中になり、好きになる。それは困る。とても困る。田中はえんの目を見て「あのな」と自分の気持ちを話しはじめた。

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