その唇に、キスさせて

水守真子

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その唇に

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 どれくらい前だったろうか……。

 その唇に見惚れたのは、藤原(ふじわら)美希(みき)が書類に顔を近づける為に、接近してきた時だった。

 その頃の美希の髪は毛先が鎖骨に届く程の長さで、髪の色は、今の栗色よりも、茶色に近かった。
 美希が顔に掛かったその髪を耳に掛けた時、否応なく目に入った、唇。
 わずかに開いた唇の上唇の山はふわりと盛り上がっていた。

 真っ直ぐより少しだけ下がった口角は、書類に集中しているせいか強張りがある。
 だが下唇は、ぽてりと盛り上がり、控えめの口紅は、その唇の瑞々しさを引き立てていた。

 ……俺は、四十過ぎのオジサンだぞ。

 自分の視線を気取られないよう、高井(たかい)雄吾(ゆうご)小さく咳払いをした。

「ここと、ここですね」

 そういって、指摘した訂正箇所を指差す藤原美希の右手の薬指には、小さな石がついた指輪があった。
 彼氏からのプレゼントかと少し落胆したが、彼氏ぐらいいるだろうと気を取り直す。

 目鼻立ちの整った顔にある、印象的な、少しだけ茶色の瞳。
 背は160くらいで、手足が長く、顔は小さい。

 仕事は淡々と冷静にこなし、社内の信頼は厚かった。
 美希はぱっと見、美人に見えない、美人といった所だろうか。

 飄々と過ごし、誰にも媚びない性格は、その美しさを隠しているように見えた。
 
「わかりました。今すぐ訂正してきます」
「よろしく」

 小洒落たフレームの眼鏡で誤魔化してはいるが、今や書類を見るには必需品となった老眼鏡を、雄吾は取った。
 眉間を抑えて、疚(やま)しさを隠す。

 美希が去っていく。オフィスの椅子の背もたれの間をハイヒールで闊歩する後姿。
 歩く度にタイトスカートに浮かび上がる臀部が目に入ると、唇が脳裏に蘇り思った。
 
 ……そっちの唇はどうなのだろうか。

 真昼間(まっぴるま)から、卑猥(ひわい)すぎる想像をしてしまい、雄吾は口を掌でこすった。



 雄吾が結婚をしていないのは、婚期を逃したからだ。
 仕事で多忙を極めていたら彼女に振られ、その内に出会いが減り、いつの間にか周りには既婚者が増えていた。

 特に問題を感じることも無かった。同僚が子供の話をするのを聞いても、仕事が終わった後に、妻と子供のケアをするのかと同情さえしていた。

 だが、その子供たちが乳幼児から小学生に上がり始める頃、雄吾の心の寂しさが宿り始める。
 彼らは乳幼児の子育てという大変さを、子供の成長の楽しむ事で乗り越えていたのだ。

 子供が大きくなり、コミュニケーションがしっかり取れるようになる年頃になると、彼らが共に過ごしている話が眩しく思えた。

 飲み会で、そんな愚痴ともつかぬ世間話に、すっと入ってきたのが、藤原(ふじわら)美希(みき)だった。

『あ、それ、わかります。子供が小さいと大変だなーとしか思えなかったけど、大きくなってくると楽しそーってなりますよね』

 美希はそう言いながら、手酌(てしゃく)で徳利(とっくり)から猪口(ちょこ)へと酒を注ぎ足し、くいっと煽った。

 赤く塗った指先で抓(つま)む、熱燗(あつかん)が入った徳利。
 落ちた口紅の下に顔を出した素の唇が触れる、安そうな白色の猪口。

 ちらりと唇を舐めた珊瑚珠色の舌を見て、なぜか、裸を見たような、背徳感(はいとくかん)が広がった。

 雄吾はその時、自分が酔っているなと思った。
 女はまず、話に共感することくらい、雄吾はもう知っている。
 だが、何のてらいもなく、共感されて嬉しくないはずが無い。

 美希は三十を過ぎていたはずだ。飲み会で上司に、持論を展開するのは場違いで、酒を不味くするという事を、もう学んでいるのだろう。

 だが、仲間がいるという感覚は、雄吾の胸に既に根付いた、満たされない気持ちを和(やわ)らげた。

『わかるか。お互いに寂しいな』

 その時に見せた美希の、複雑に笑んだ表情を訝(いぶか)しく思い、ちらりと右手の薬指を見た。
 あの後、何度も見た、指輪が無い。
 そういえば、美希がいやに仕事のミスをする時期があった。

 ……別れた、かな。

 雄吾は、焼酎のグラスの縁(ふち)を親指と人差し指で持ち上げると、中の氷を揺するように、カランと、グラスを傾けた。

 もう若くないという気持ちが、常に燻(くすぶ)っている。俺は若いと言い張る気力も無い。
 淡々と、生きていきたい。
 そう思いながらも、美希が猪口(ちょこ)を煽る美しい横顔を、何度も盗み見る事を止めることは出来なかった。



 上司が女性の部下に触れる事は、セクハラ案件だ。
 女に触れたくらいで、職を失うリスクを犯したくない。
 だから、狭い資料室で美希の姿を見た時は、出ようかと思った。

 資料室、と言っても、窓も無い部屋の四方に鉄のラックを配置し、過去の伝票類も一緒に保管しているだけの場所だ。
 中央には総務が捨てるに捨てられなかったと思われる、古い茶色の長机が二卓、長い辺をくっつけて置いてある。

 その周りに四脚のパイプ椅子が置いてあった。
 簡単な会議もできるようにと、場所を有効活用している……という言い訳だろう。
 だが、その机と椅子のせいで、通るのにストレスを感じる狭さになっていた。

 部署によってラックが割り当てられており、美希と同じ部署の雄吾は、同じ場所に用事があることになる。
 美希はドアが開いた音で、人が入って来た事には当然気づいたようだが、振り返りもせずに「お疲れ様です」と言った。

 背伸びをして、資料ファイルの背表紙の下に中指を差し入れて、どうにか引きずって出そうとしているようだった。

 タイトスカートがずり上がって、太ももがかなり見えている。
 ストッキングの光沢が、ちらちらと反射しているように感じた。

 目を逸らせずに、こんなものを見せ付けられる、こちらの身にもなってくれと思った。

 雄吾は美希が自分に好意の欠片も抱いていないことを知っている。
 少し前、残業をしていると部下の黒田に飲みに誘われた。
 割り勘要員かと苦笑したのだが、黒田の後ろで、美希が顔を渋らせていたのが見えた。

 露骨だなぁと思ったが、それくらいで傷つくお年頃でもない。
 だが、やはり胸に冷たい風が吹き込む、やるせなさはある。

 軽く、久々に、近くで唇を拝ませて頂こうと参加したが、浮かれて、酒が進み、何を喋ったかも覚えていない。

 翌日、美希に失礼が無かったかと聞いたが、非難の視線を向けられた。
 ああ、何かやってしまったんだなと思った。

 これ以上、『何か』を重ねるわけにはいかない。
 だが、会議まで時間が迫っており、引き返して美希が資料室を出る時間も待つ余裕も無い。

 雄吾はため息をついた。

「椅子を使えばいいのに、何をやってるんだ」

 美希は弾かれたように振り返った。
 雄吾の姿を認めると、疲れた様子で、少しだけ緊張を纏わせた口調で言う。

「それはわかってますけど、取れそうなので」

 また背伸びをして、中指を引っ掛けて、一ミリずつ、ファイルを動かそうとしている。
 あまりにも非効率な行動が愛らしい。

 だが、自分もそこに用事がある手前、あまり時間を掛けられても困る。
 後には会議が入っているのだから。

 雄吾は近づいて、美希の後ろにぴたりと付くと、背後からそのファイルを取った。
 身長が170は超えている雄吾には造作も無いことだった。

「これでいいのか」

 背表紙のタイトルを目で読みながら、微動だにしない美希に背後からファイルを差し出す。
 受け取らない美希を怪訝そうに見た時に、髪の隙間から見える耳が、真っ赤になっているのに気づいた。

 やばい、また『何か』をやってしまった、と雄吾は焦った。
 いよいよ、セクハラ上司認定されてしまう。

「すまん、いらない世話だった」

 動揺していると、美希がくるりと振り返り、顔を赤らめたまま、くいと顎を上げて雄吾を見て言った。

「どうして、入ってきたんですか」

 雄吾は受け取ってもらえない9センチ幅のファイルを脇に抱えたまま、後ろに下がる。
 だが、机の縁(へり)にぶつかり、そこで止まってしまった。
 そして、美希の唇が間近で動いて、雄吾は釘付けになってしまう。

「会議に持って行きたい、資料があってだな」
「高井さん、課長でしょう。誰かに頼めば良いじゃないですか」
「誰かに頼むより、自分で来るのが早いと思ったんだ」

 会議まで、時間が無いんだ。
 しどろもどろと、理由を並べる。
 だが、理由も何も事実なので、言い訳しなくてはならない身の上が辛い。

 美希の魅力的な唇が動いたと思ったら、ぎゅっと唇を引き結ばれた。

 雄吾はからめとられたように、視線が唇に固定される。
 気づかれたら、大問題に発展すると焦る心とは裏腹に、雄吾は唇から目が離せない。

 本当にきれいな唇だと思う。上唇の稜線も、下唇の厚みも、口紅の色も、何もかもが完璧だ。

 美希の唇が近づいてきた。
 唇の縦皺(たてじわ)さえも、内側から押し出されたように、ふっくらと膨らんでいる。

 摘んだばかりの、さくらんぼのようだと思った。
 なぜ、近づいてきているのか。

 その疑問が頭をかすめたとき、雄吾の下唇の下の窪みに、触れるか触れないか、ずっと見つめていたものが、押し付けられた。

「……」

 弾力のある柔らかい唇が下半身を刺激したのは事実で、血が流れ込み、屹立し始めた杭がスラックスを押し上げる。
 目だけを動かして見下ろすと、美希の閉じた目を縁取った睫が震えていた。
 そのか弱いさまに、抱き締めてもっと奪い味わいたい焦燥が湧き上がる。

 だが、空気の淀んだ資料室の紙の匂い、薄暗い蛍光灯が、ここは会社だぞと、公の自分をがっちりと掴んでいた。

 棒立ちのまま硬直して、真っ白になった頭と、硬さを増していく杭をただ感じるしかなかった。
 美希の唇が離れても雄吾は動けなかった。
 美希が俯いたまま身体を離し、早足で雄吾の前から去っていくのに、声も掛けられない。

 バタンとドアが閉まる音がして、資料を抱えていた方の手で、雄吾は美希に唇を押し付けられた箇所に触れようとした。
 
 手に持っていた資料が、どがっと重い音を出して足の上に落ち、雄吾は「イデッ」と貧相な声を出す。
 ファイルが開いて、床の上に落ちた。

 止め具が外れ中身が散乱していないことに安堵して、雄吾は改めて、押し付けられた箇所に触れた。
 粘着物の感触。指に触れるとそれが付いた。グロスの感触だった。
 指でこすって、それを薄める。
 指の先端に、ラメが光った。

 ……唇、だったよな。
 
 雄吾は、指先を見つめた。

 ……脈、アリなのか。

 ふっと、落ちたファイルに目を落とすと、奇(く)しくも、雄吾が確認したい資料のファイルだった。

 その偶然に、これは機縁(きえん)だと、雄吾は唇の片端に、獲物を捉えた喜び笑みを浮かべる。

 何食わぬ顔で、オフィス内に戻ると、美希がぎくりと身体を硬直させたのが視界に入った。
 雄吾は敢えて美希の方を見ず、自分の机につき、ポストイットを取り出すと、ペンを走らせて、自分が欲しかった資料の部分に貼り付けた。

 ファイルを抱えると、自分のスケジュール帳とペンを持って席を立つ。

「藤原」

 雄吾が話し掛けると、椅子に座った美希の身体がビクッと跳ねた。
 顔は動かさずに、身体だけ雄吾に向けると「はい」と珍しく、小さな声で返事をする。

 美希の目は少し涙ぐみ、机の縁に置いている自分の手を凝視していて、視線を動かさない。
 唇は歯の間に巻き込むように噛んでいる。
 血色を失った唇に触れて、大丈夫だと言いたかった。

 雄吾は静かに穏やかに言う。

「このポストイットの場所を十枚コピーして、会議室に持ってきてくれないか」

 美希の肩がぐっと縮こまるように固まった。
 いつも淡々と仕事をこなす美希が急に儚い存在に見えた。
 その姿を見て、囲(かこ)い込みたくなった。

「……大丈夫だから」

 雄吾は、ぼそりと、美希にしか聞こえない程の大きさで伝える。

「あの」
「頼んだ」

 雄吾は美希の机の上にファイルを置くと、スーツの袖を巻くって、腕時計で時間を確認した。
 もう、会議が始まる。

『夜、飯に行かないか』

 上司から部下を誘惑するのは、さすがに気が引けていた。
 だからこそ、この機会を逃すつもりはなかった。

 ポストイットに走り書きした文字を口の中で呟くと、美希の唇の感触が蘇った。
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