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そのキスに
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高井(たかい)雄吾(ゆうご)は、笑うと目尻にカラスの足跡のような皺が入る。目尻が下がり気味の目が、更に柔和に緩んで、少年のような顔になる。
身長は高くて、身体も引き締まっている。結婚していないから、たまにジムなどに通っているのかもしれない。
彼女がいるかどうかは不明。聞いても「どう見える?」とかわされるらしい。
美希(みき)にとって、高井雄吾はただの上司で、時折、女子社員から入ってくる情報以外の事を知らないし興味も無い。理不尽なことをしてこない、理想的な上司、それだけだった。
男の話題で盛り上がれるのは、二十代までだと思う。
その上司でしかない高井雄吾が、突然、視界に入ってきたのは、残業後の『一杯(いっぱい)』の席だ。
同僚の黒田(くろだ)が誘ってきたので乗ると、黒田はそのまま残業中の雄吾も誘ったのだ。あっけらかんと上司を誘う黒田の女子力が高い後姿を見ながら、正直、勘弁して、と思った。
プライベートで上司と飲みたくない。雄吾はメンドウな上司ではない。だが、美希が気を使ってしまうのだ。
誘った黒田が、電車があるんでと、本当に一杯で帰ると、美希は『明日〆る』と拳を握った。
雰囲気の良いバーに二人で残され、『私たちも帰りましょうか』と雄吾に言うと、じっと顔を見られる。
美希は何か顔に付いているのかと、身構えた。
『藤原、リラックス』
雄吾は、にかっと笑って、飲んでいたウィスキーのグラスを持ち上げた。
『きれいな顔が台無しだ』
どきりとした。
最後にきれいだと言われたのは、最後に割り切った身体の関係を持った男からだった。
女にだって性欲はある。
長く付き合った彼氏と別れた後、そう肩肘を張って居られたのは、強がりに若さという勢いがあったからだ。
男はセックスに持ち込むまでは、夢を見させてくれる。だが、コトが終わってしまえば、二人の間の空気がズレるような空しさが横たわる。
こんなもんよね。
必ず先にシャワーを使い、脱がされ放り投げられた下着を拾って履きながら、帰りの電車の心配をして、気を紛らわす。
だが、胸に散り積もる空しさが、ある日涙になり、男の前で流してしまった。あれだけ甘く口説いてきた男の顔が、面倒くさそうに歪んだのを見て思った。
もう、やめよう。
三十歳の誕生日で、元彼が会って数ヶ月の女と結婚すると聞いた日だった。
現実に自分を引き戻すため、美希は雄吾に対して、頬を無理やり引き上げ、ビジネススマイルを作った。
『ありがとうございます』
きれいじゃないです。そう、言い返したところで、場が白けるだけだ。それを望まれているのなら、さらに面倒くさい。
かといって、もういい年ですよ、なんて、軽い話もしたくない。
『酒を楽しめばいい。身体を壊したら、真っ先に止めなきゃいけなくなるのが、コレだぞ。飲めるうちに飲んでおこう』
健康話? と、美希は目をパチクリとさせる。
三十を過ぎると、飽きることなくしていた男の話は、保険と投資と身体の不調の話に変わっていく。
雄吾も四十過ぎだ。男もそういうものなのかと、意外に思った。
『飲め飲め』
酒が強い方の美希は『はぁ』と言って、グラスを持つ。
きれいという言葉が、挨拶みたいに、通り過ぎて行ったことに、胸の中にもやりとしたものが残る。
ああ、そうかと思う。
下心できれいだと言ってきた男は、執拗に『きれいだ、きれいだ』と繰り返す。この女に乗(の)れるか、そんなゲームを勝手に始める。
だが、雄吾は違った。きっと、本心で言ったのだ。
頬が赤くなってきたのを感じて、美希はグラスの中の酒を飲み干した。
『もう、三杯目です。飲んでます。明日もあるし、高井課長も飲みすぎない方が良い……』
雄吾はウィスキーをロックで飲んでいる。
酔いに目元を赤くした雄吾が、じっと美希を見ていた。
『藤原と飲むと、酒が美味い』
閉じていた唇が、半開きになった。そんな事を言われて、悪い気はしない。だが、そのまま受け止めるほど、純粋でもない。
『……誰かに、振られたんですか』
そう聞くと、雄吾は笑って首を振った。頭に掻くように手をやりながら、背を伸ばす。
『オジサンになるとね、ハレタホレタにご縁が無くなってくるんだよ』
『なら、私も一緒ですね』
『藤原は若いじゃないか』
『……今時女の30代が若いというのは、そこに販路を求める会社が、マスコミを通して流す妄言ですよ。若く見せられる術(すべ)が増えてきただけで、確実に、細胞は衰えています』
男に三十代が選ばれる時は、後腐れの無い関係を求められる時だろう。若くも無い、結婚願望を隠した、重いだけの三十代なんて、男は遊びで手も出さない。
完全に腐りきった自分が顔を出したのは、何故だろうか。もっと、可愛いことを言いたいのに。
雄吾は聞きながら、つまみのチョコレートの包装紙を捻(ねじ)り、口元に笑みを浮かべている。
『疲れてるな。仕事を振りすぎてるか』
『もっと、欲しいくらいですよ』
仕事が恋人だなんて言うつもりもない。だが、確実に生活をするための、給料が支払われる。これが安心安定でなくて、なんだというのだろう。
『あのなぁ。女は、いつまでも美しいんだぞ。その価値を見出せる男が、圧倒的に少ないだけだ。自分を貶(おとし)めるなよ』
そう妙に真面目な顔で言った雄吾の横顔を、美希は注視した。
かっこつけようとか、下心とか、そういったモノを探そうとしたのだと思う。
だが、無かった。
年齢の割にたるみの無い顎のライン、目元に入った笑い皺、清潔に整えられた髪。
ふっと優しげにたゆませた目の色が、すとんと心の中に落ちてきた。
あ、と思う。
『藤原はきれいだ。俺がもうちょっと若かったら、口説いてたな』
冗談めかして言った雄吾の前に、たぶん、五杯目のウィスキーが置かれた。
酔いのせいか、垣根を一気に越えてきた、親しげな雄吾の目に、美希は吸い込まれた。
美希はまだ三杯目だった。これくらいの酒量で酔うハズは無い。
でも、今、口説いてくれてもいいのにと、美希は唇を噛んだ。
『ああ、今日は酒が美味い』
雄吾はそう言って、笑う。
思わせぶりなことを言った癖に、雄吾は美希に指一本触れなかった。
終電前に駅まで送ってくれて、自分は全く別の路線の駅へと向かっていく。
しっかりとした足取りで帰路を急ぐ雄吾の後姿が、少し憎かった。
セックスが目的で口説いてくる男もしんどい。
だが、その気もないのに、思わせぶりな事を言ってくる男もしんどいのだと知った。
次の日、美希が寝不足気味で出社すると、雄吾がフラフラと近づいてきた。明らかに、具合が悪そうだった。
『藤原、俺の記憶が飛んでいるんだが、失礼なことを言わなかったか』
『……は?』
『黒田が帰った事も記憶が危(あや)うい』
なんだか、とても、ムカついた。
こっちは、胸がドキドキして眠れなかったのに。
何を言ったかも忘れているなんて、ひどすぎる。
……一番、女として扱っていないのは、高井さんだ。
美希は怒りの後に訪れた、悲しみの痛みに、ぎゅっと拳を握った。
*
雄吾は思わせぶりな事を言った夜のことを、覚えていないと言った。
だから、こちらも心を凍らせて、ビジネスライクに接してきた。
それなのに、雄吾はちょっとした用事で、よく自分をデスクに呼びつけ、その度に、じっと見つめてくる。
さっきも、資料を取るのを手伝ってくれたのはわかるし、ありがたい。
けれど、明らかに距離が近かった。ファイルを取るから、どくように言ってくれれば良いのに、わざわざ真後ろに立ってきた。
何がしたいのだと、つい、突っかかってしまった。
方法は、かなり、間違ったのだけれど。
美希はファイルに貼り付けられていたポストイットを見て、口を押さえた。
『夜、飯に行かないか』
……し、仕事。
ファイルの止め具を外し、当該の資料を取り出して、コピー機の前に急いだ。
雄吾に十枚をコピーして、会議室に持って来いと言われたからだ。
コピー機にセットして、部数を入力すると、スタートボタンを押した。自動的に出てくるA4の用紙を、「いち、に」と小さく数えながら見つめる。
吐き出されてきた用紙の枚数を確認すると、トントンと辺(へん)を打ちつけて、紙を揃えた。
……やっぱり、どう考えても、キスはダメだった。
職場に居づらくならないように、気丈に振舞ってきたのに、自分が台無しにした。
そこには、後悔しかない。
会議室のドアをノックしてから少しだけ開けると、顔を向けてきた背広の面々の中に、雄吾の姿を見つける。
「ああ、藤原」
眉間に皺を寄せ、腕を組んでいた雄吾が、入ってくるように言う。
キスをした時、固まっていたのとは同じ人物とは思え無いほどに、精悍(せいかん)だった。
失礼します、とドアの中に身体を滑り込ませると、会議の緊張が身を包む。
「それ、回してくれ」
「はい」
美希が一枚ずつ右回りで配っている間も会議は進んでおり、その雰囲気は悪くないとはいえ、関係ない者がいる気まずさはある。
手早く配り終え、余った用紙を手に雄吾のそばに寄り、少しだけ顔を近づけて「どうしますか」と聞く。
「貰っておく。ありがとう。後、さっきの件は大丈夫か」
……さっきの、件。
動揺を抑えるのに精一杯で、コピーの事しか聞いていなかった。
他にも何か仕事を頼まれていたのかと、美希の顔がサッと顔が青くなる。
「申し訳ありません。コピーの件と、他に何かありましたでしょうか」
雄吾の顔を見ると、目が合った。
「ポストイットに、書いていた件」
会議室には、数人の課長以上の役職が居た。声を小さくするでもない会話は、普通に人の耳に届く。その中で平然と、美希の目を見据えて、雄吾は返事を待っている。
「……大丈夫、です」
「良かった。問題があれば言ってくれ」
喉がきゅっと絞まって声が出せず、美希は黙って頷く。
雄吾は頷いたのを確認すると、すっと会議テーブルに視線を戻し、資料を手に仕事に入った。
会議室から退出して、美希は何事も無かったかのような顔で自席に戻る。
机の上にある、太い青いファイルの存在感に、嫌でも会議室での自分の所業を思い出した。
引き出しを開けて、誰の名前も書いていない、食事の誘いのポストイットを見る。
……高井さんが、わからない。
自分の中の想いの名前もわからない。
なのに、キスをしてしまった。
……とにかく、まずは、謝るしかない。
はぁっと溜息をついて、美希は引き出しを閉めた。
高井(たかい)雄吾(ゆうご)は、笑うと目尻にカラスの足跡のような皺が入る。目尻が下がり気味の目が、更に柔和に緩んで、少年のような顔になる。
身長は高くて、身体も引き締まっている。結婚していないから、たまにジムなどに通っているのかもしれない。
彼女がいるかどうかは不明。聞いても「どう見える?」とかわされるらしい。
美希(みき)にとって、高井雄吾はただの上司で、時折、女子社員から入ってくる情報以外の事を知らないし興味も無い。理不尽なことをしてこない、理想的な上司、それだけだった。
男の話題で盛り上がれるのは、二十代までだと思う。
その上司でしかない高井雄吾が、突然、視界に入ってきたのは、残業後の『一杯(いっぱい)』の席だ。
同僚の黒田(くろだ)が誘ってきたので乗ると、黒田はそのまま残業中の雄吾も誘ったのだ。あっけらかんと上司を誘う黒田の女子力が高い後姿を見ながら、正直、勘弁して、と思った。
プライベートで上司と飲みたくない。雄吾はメンドウな上司ではない。だが、美希が気を使ってしまうのだ。
誘った黒田が、電車があるんでと、本当に一杯で帰ると、美希は『明日〆る』と拳を握った。
雰囲気の良いバーに二人で残され、『私たちも帰りましょうか』と雄吾に言うと、じっと顔を見られる。
美希は何か顔に付いているのかと、身構えた。
『藤原、リラックス』
雄吾は、にかっと笑って、飲んでいたウィスキーのグラスを持ち上げた。
『きれいな顔が台無しだ』
どきりとした。
最後にきれいだと言われたのは、最後に割り切った身体の関係を持った男からだった。
女にだって性欲はある。
長く付き合った彼氏と別れた後、そう肩肘を張って居られたのは、強がりに若さという勢いがあったからだ。
男はセックスに持ち込むまでは、夢を見させてくれる。だが、コトが終わってしまえば、二人の間の空気がズレるような空しさが横たわる。
こんなもんよね。
必ず先にシャワーを使い、脱がされ放り投げられた下着を拾って履きながら、帰りの電車の心配をして、気を紛らわす。
だが、胸に散り積もる空しさが、ある日涙になり、男の前で流してしまった。あれだけ甘く口説いてきた男の顔が、面倒くさそうに歪んだのを見て思った。
もう、やめよう。
三十歳の誕生日で、元彼が会って数ヶ月の女と結婚すると聞いた日だった。
現実に自分を引き戻すため、美希は雄吾に対して、頬を無理やり引き上げ、ビジネススマイルを作った。
『ありがとうございます』
きれいじゃないです。そう、言い返したところで、場が白けるだけだ。それを望まれているのなら、さらに面倒くさい。
かといって、もういい年ですよ、なんて、軽い話もしたくない。
『酒を楽しめばいい。身体を壊したら、真っ先に止めなきゃいけなくなるのが、コレだぞ。飲めるうちに飲んでおこう』
健康話? と、美希は目をパチクリとさせる。
三十を過ぎると、飽きることなくしていた男の話は、保険と投資と身体の不調の話に変わっていく。
雄吾も四十過ぎだ。男もそういうものなのかと、意外に思った。
『飲め飲め』
酒が強い方の美希は『はぁ』と言って、グラスを持つ。
きれいという言葉が、挨拶みたいに、通り過ぎて行ったことに、胸の中にもやりとしたものが残る。
ああ、そうかと思う。
下心できれいだと言ってきた男は、執拗に『きれいだ、きれいだ』と繰り返す。この女に乗(の)れるか、そんなゲームを勝手に始める。
だが、雄吾は違った。きっと、本心で言ったのだ。
頬が赤くなってきたのを感じて、美希はグラスの中の酒を飲み干した。
『もう、三杯目です。飲んでます。明日もあるし、高井課長も飲みすぎない方が良い……』
雄吾はウィスキーをロックで飲んでいる。
酔いに目元を赤くした雄吾が、じっと美希を見ていた。
『藤原と飲むと、酒が美味い』
閉じていた唇が、半開きになった。そんな事を言われて、悪い気はしない。だが、そのまま受け止めるほど、純粋でもない。
『……誰かに、振られたんですか』
そう聞くと、雄吾は笑って首を振った。頭に掻くように手をやりながら、背を伸ばす。
『オジサンになるとね、ハレタホレタにご縁が無くなってくるんだよ』
『なら、私も一緒ですね』
『藤原は若いじゃないか』
『……今時女の30代が若いというのは、そこに販路を求める会社が、マスコミを通して流す妄言ですよ。若く見せられる術(すべ)が増えてきただけで、確実に、細胞は衰えています』
男に三十代が選ばれる時は、後腐れの無い関係を求められる時だろう。若くも無い、結婚願望を隠した、重いだけの三十代なんて、男は遊びで手も出さない。
完全に腐りきった自分が顔を出したのは、何故だろうか。もっと、可愛いことを言いたいのに。
雄吾は聞きながら、つまみのチョコレートの包装紙を捻(ねじ)り、口元に笑みを浮かべている。
『疲れてるな。仕事を振りすぎてるか』
『もっと、欲しいくらいですよ』
仕事が恋人だなんて言うつもりもない。だが、確実に生活をするための、給料が支払われる。これが安心安定でなくて、なんだというのだろう。
『あのなぁ。女は、いつまでも美しいんだぞ。その価値を見出せる男が、圧倒的に少ないだけだ。自分を貶(おとし)めるなよ』
そう妙に真面目な顔で言った雄吾の横顔を、美希は注視した。
かっこつけようとか、下心とか、そういったモノを探そうとしたのだと思う。
だが、無かった。
年齢の割にたるみの無い顎のライン、目元に入った笑い皺、清潔に整えられた髪。
ふっと優しげにたゆませた目の色が、すとんと心の中に落ちてきた。
あ、と思う。
『藤原はきれいだ。俺がもうちょっと若かったら、口説いてたな』
冗談めかして言った雄吾の前に、たぶん、五杯目のウィスキーが置かれた。
酔いのせいか、垣根を一気に越えてきた、親しげな雄吾の目に、美希は吸い込まれた。
美希はまだ三杯目だった。これくらいの酒量で酔うハズは無い。
でも、今、口説いてくれてもいいのにと、美希は唇を噛んだ。
『ああ、今日は酒が美味い』
雄吾はそう言って、笑う。
思わせぶりなことを言った癖に、雄吾は美希に指一本触れなかった。
終電前に駅まで送ってくれて、自分は全く別の路線の駅へと向かっていく。
しっかりとした足取りで帰路を急ぐ雄吾の後姿が、少し憎かった。
セックスが目的で口説いてくる男もしんどい。
だが、その気もないのに、思わせぶりな事を言ってくる男もしんどいのだと知った。
次の日、美希が寝不足気味で出社すると、雄吾がフラフラと近づいてきた。明らかに、具合が悪そうだった。
『藤原、俺の記憶が飛んでいるんだが、失礼なことを言わなかったか』
『……は?』
『黒田が帰った事も記憶が危(あや)うい』
なんだか、とても、ムカついた。
こっちは、胸がドキドキして眠れなかったのに。
何を言ったかも忘れているなんて、ひどすぎる。
……一番、女として扱っていないのは、高井さんだ。
美希は怒りの後に訪れた、悲しみの痛みに、ぎゅっと拳を握った。
*
雄吾は思わせぶりな事を言った夜のことを、覚えていないと言った。
だから、こちらも心を凍らせて、ビジネスライクに接してきた。
それなのに、雄吾はちょっとした用事で、よく自分をデスクに呼びつけ、その度に、じっと見つめてくる。
さっきも、資料を取るのを手伝ってくれたのはわかるし、ありがたい。
けれど、明らかに距離が近かった。ファイルを取るから、どくように言ってくれれば良いのに、わざわざ真後ろに立ってきた。
何がしたいのだと、つい、突っかかってしまった。
方法は、かなり、間違ったのだけれど。
美希はファイルに貼り付けられていたポストイットを見て、口を押さえた。
『夜、飯に行かないか』
……し、仕事。
ファイルの止め具を外し、当該の資料を取り出して、コピー機の前に急いだ。
雄吾に十枚をコピーして、会議室に持って来いと言われたからだ。
コピー機にセットして、部数を入力すると、スタートボタンを押した。自動的に出てくるA4の用紙を、「いち、に」と小さく数えながら見つめる。
吐き出されてきた用紙の枚数を確認すると、トントンと辺(へん)を打ちつけて、紙を揃えた。
……やっぱり、どう考えても、キスはダメだった。
職場に居づらくならないように、気丈に振舞ってきたのに、自分が台無しにした。
そこには、後悔しかない。
会議室のドアをノックしてから少しだけ開けると、顔を向けてきた背広の面々の中に、雄吾の姿を見つける。
「ああ、藤原」
眉間に皺を寄せ、腕を組んでいた雄吾が、入ってくるように言う。
キスをした時、固まっていたのとは同じ人物とは思え無いほどに、精悍(せいかん)だった。
失礼します、とドアの中に身体を滑り込ませると、会議の緊張が身を包む。
「それ、回してくれ」
「はい」
美希が一枚ずつ右回りで配っている間も会議は進んでおり、その雰囲気は悪くないとはいえ、関係ない者がいる気まずさはある。
手早く配り終え、余った用紙を手に雄吾のそばに寄り、少しだけ顔を近づけて「どうしますか」と聞く。
「貰っておく。ありがとう。後、さっきの件は大丈夫か」
……さっきの、件。
動揺を抑えるのに精一杯で、コピーの事しか聞いていなかった。
他にも何か仕事を頼まれていたのかと、美希の顔がサッと顔が青くなる。
「申し訳ありません。コピーの件と、他に何かありましたでしょうか」
雄吾の顔を見ると、目が合った。
「ポストイットに、書いていた件」
会議室には、数人の課長以上の役職が居た。声を小さくするでもない会話は、普通に人の耳に届く。その中で平然と、美希の目を見据えて、雄吾は返事を待っている。
「……大丈夫、です」
「良かった。問題があれば言ってくれ」
喉がきゅっと絞まって声が出せず、美希は黙って頷く。
雄吾は頷いたのを確認すると、すっと会議テーブルに視線を戻し、資料を手に仕事に入った。
会議室から退出して、美希は何事も無かったかのような顔で自席に戻る。
机の上にある、太い青いファイルの存在感に、嫌でも会議室での自分の所業を思い出した。
引き出しを開けて、誰の名前も書いていない、食事の誘いのポストイットを見る。
……高井さんが、わからない。
自分の中の想いの名前もわからない。
なのに、キスをしてしまった。
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