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Phase2 力の覚醒への一歩的な何か!
都へようこそ!①
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「で~す~か~ら~、私はコーラが飲みたいのですよ~」
「ユリカ様、お気を確かに」
「何ですかヴァルタ~? 用意出来ないと言うのですか~?」
「申し訳ありません、この酒場にそのような品はございません」
「無いならつくればいいのですよ~? クエン酸と~、重曹を~、水にまぜまぜして~、秘密の原液を投入するのです~」
「く、くえんさん? じゅうそう?」
「あなたはバカですね~? 教育してあげますよ~」
「お戯れを……あぁ、頭を撫でていただけるとは、何たる幸福!」
すっかり酔っ払った少女が大男に絡みつく。ヴァルターは抵抗こそ見せているものの浮かれていた。
それを傍目に、鳴り止まない腹の虫を鎮めようと羊肉の串焼きを口に運ぶ。
眠っているうちに都へと帰還し、気が付けば医療区画だという部屋に運ばれていた。いつの間に着替えさせられたのか、団員が身に纏う茶色のBDUを着ていた。身体は問題ないということを何度も伝えたが、そこで働くスタッフたちは頑なにベッドへ押し付ける。問答を続けるうちに、騒ぎを聞きつけたのか由梨花が現れ、引き取られる格好で酒場まで連れていかれた。そこには班のメンバーや他の団員たちがひしめき合い、戦闘での戦果を語る姿が多く見られた。
入団と初陣を祝いましょう──なんて声高に言っていたクセに、由梨花は酔い潰れた。未成年飲酒はダメ、絶対。というかアルコール度数がチューハイ以下のシードルでここまで酔っ払うのか、あれはリンゴジュースじゃないか。
俺は飲んでいない。絶対に。アムレット料理店でこっそり飲んでなんかいない。
「そうでした~、瑞希もちゃんと飲んでますか~? おや~? 中身が入ってないではないですか~、おかわりを注文しましょうね~」
「私にお任せ下さい。同じもので良いかな、少年?」
「はい。ありがとうございます」
甲冑を脱いだヴァルターが近くの店員に新たな注文を頼み、すぐさま替えのドリンクが運ばれてくる。発酵臭がするそれを一気に飲み干す……だが、多少体が暖かくなるだけで全く気持ちよくなることは出来ない。
ちなみにこれは酒ではない、ただ異臭がするリンゴジュースだ。
「もっと食べて下さいよ~、遠慮なんていりませんよ~、好きなだけ召し上がって下さいね~、奢りますから~、ヴァルターが~」
「お言葉ですがユリカ様、私の給金ではそこまで……」
「良いではありませんか~、教育費です~」
「は……どうか、どうかもっと教育して頂きたい!」
本来であれば、血の闘争団本部内にある食堂で夕飯を摂るハズだったが、由梨花の提案でこの酒場へやってきた。食堂はここより狭苦しく、料理もお世辞にも美味しいと言えるものではない、と溜息まじりに説明された。本部に併設されているこの酒場は半ば専有化されており、全く無関係な市民が訪れることもないらしい。天炎者であることを特別に意識することもなく、団員たちは仲間として歓迎してくれた。
『よぉ新入り! あの戦闘見てたぜ、やるじゃねえか!」
『大変だったわね、天炎者様。疲れたでしょうからこのスープを飲んで、体を癒してくれるから』
『軟弱……しかし見込みがある。精進せよ、我々と共に』
『入団してくれてありがとうございます! カッコいいな~、いつか私の班長になってくれたらいいな~』
『ユリカ様を泣かせるような事があれば、容赦はいたしませんぞ! 我等“ユリカ様ふぁんくらぶ”は徹底抗戦いたしますぞ!』
『なにをう!? 拙者たち“ノーレン様ふぁんくらぶ”も容赦はいたしません! 笑顔を真っ先に見るのは拙者たちです!』
『団長……私は、お待ちしております。振り向いてもらえなくとも……』
『兄様に迷惑を掛けないように。掛けたら爪を剥ぐ』
口々に騒ぎ立てたと思ったら、すぐに自分の席へ戻って食事を続けた。ふざけた声も聞こえたが、流石は歴戦の戦士たちだ、長い言葉は不要。察してくれたのかは分からないが、程よい喧騒となって酒場を包んでくれた。
彼らも、いつか配下の騎士となる可能性がある。天炎者の素性は理解している。
余計な詮索など必要ない。今、聞くべきことではない。ただ、そこにいればいい。
「いいですよ~、教育してあげますよ~。でも面倒ですね~……そうだ、根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝を持ってきたら色々教えてあげますよ~」
「なんとも面妖な……そのような枝、聞いたことも御座いません」
「バカですね~、ヴァルターはバカターですね~」
「は……もっと、もっとお叱り下さい!」
体面に座る少女と男がいい加減うるさく思えてきた。
この男も酔っ払っているのだろうか、それとも素面なのか。なんとも面妖な。
「東の海に~浮かんでるらしいですよ~? 泳いで探してきてくださいね~?」
「は、必ずや持って帰ります」
騎士は胸に手を当て、与えられた任務をやり遂げようと意思を固める。ヴァルターは確実に行く、そう判断して口を挟んだ。
「落ち着いて下さいヴァルターさん、そんなものありませんから。由梨花、蓬莱の玉の枝なんてあるワケないだろ、意地悪なことを教えるな」
言うと、少女は真っ赤な顔で反論した。卓上に突っ伏し、長い黒髪をだらりと垂らしたまま。
「きっとどこかにありますよ~? 異世界なんですからありますよ~?」
「どうして自信満々なんだ……」
「それとも~、ヴァルターに頼んだことを悔しがっているのですか~?」
「はあ?」
酔っ払った由梨花は、見たこともない顔でニタニタと笑う。
「安心して下さいよ瑞希~、そんなこと考えてませんから~」
考えるって……何が?
竹取物語についての話だろうか。はて、一体どんな内容だったか……確か、かぐや姫が無理難題を押し付けて、男に不幸をもたらす話だった。出題した理由は……あれ、うまく思い出せない。
「やっぱり黒がいいですよね~、分かっていましたとも~。さぁヴァルター、瑞希より先に見つけたら現代文の内容を教えてあげますよ~。まずは現代語訳からですね~」
「は! 少年、私は負けん」
「えぇ……」
酔っ払いに付き合わされるこの男が可哀想に思えてきた。今までにどれだけの無理難題を押し付けられてきたのだろう。いや、それだけの精神力がなければ配下の騎士は務まらないのだろうか。
「必ずや、ほうらいのたまのえだ? をユリカ様へ献上する! 勝負だ、少年!」
「お断りします」
「なんだと!? ユリカ様が所望されているのだ、地の果てまで行こうとも探し出さねば!」
「だから、そんなもの無いんですって」
「いいやある! 必ずある! 思い出した、この目で一度見たことがある!」
「あなたも酔っ払ってますよね!?」
なんだろう、すごく面倒くさいし暑苦しい。
「あっはっはっは、醜く争うといいのですよ~」
一番面倒くさいのはこの女か。
「そうです~、私はお姫様なのですよ~? それを証明してあげますとも~」
言うと、ふらふらと立ち上がって両手を広げ、大衆酒場へ声を届けた。
「聞きなさい、同胞よ!」
何事か──と刹那の静寂。
「闘争こそが人の本領! 理性こそが人の神髄! 同胞たちよ、存在証明の為に剣を取りましょう!」
だが、直後には歓声が巻き起こり、拍手喝采がこの場を支配した。団員たちは「ユリカ様ー!」「よ、ニッポン一!」などと合いの手を入れ、それを聞いた由梨花は得意げになる。
お姫様というのは事実なのか? ファンクラブなるものが結成されているらしいし。
「いいですね~、気分が乗ってきましたよ~? では……夏目由梨花、歌います!」
「は……?」
何を言ってるんだこのワガママ姫……そう思った時には椅子に乗り上げ、空のジョッキをマイク代わりに握りしめていた。
「タイトルは、“星屑デーモン☆シンデレラ”! ミュージック~」
本当に歌うのか、ここはスナックなんかじゃないんだぞ。いくら班長とはいえ、ここまでの勝手を許すなんて──
「スタ~……うっ」
「ユリカ様!?」
少女は舞台から崩れ落ちた。
「あぁ……儚い夢でした」
「お気を確かに!」
「私……アイドルに……」
「ユリカ様あああああ!」
駆け寄った騎士が悲痛な叫びをあげる。酒場も一時騒然となり、歌を披露するハズだった少女の身を誰もが案じていた。
『あちゃー、また倒れたか』
『段々酒癖が悪くなってきてるよな』
『そんなところも可愛いんだけどね~』
『今回は持ったほうだろ、タイトルを言えたのだって珍しいのに』
『結局、どんな歌なんだ……』
『とにかく介抱しましょ、あんなヴァルター見てられない』
『兄様は私が回収する……こら逃げないで!』
ひそひそと、そんな会話が聞こえた。
この少女が酔っ払う場面を何度も見ているのだろう……みんなお前の酔いに付き合ってくれてるだけだぞ。
「う~ん? 何事でありますか~?」
寝ぼけ眼をこすり、隣に座していたウィーザが大きな欠伸をする。
「えっと……由梨花が運ばれました」
「へえ~?」
意識がハッキリしていないのか、頭を揺らしながら返事をした。
彼女は由梨花よりも先に酔い潰れ、夢の世界へ旅立っていた。悪酔いこそしていないが、あまりにも早い意識の喪失には心配せざるを得ない。まだ酔っていない由梨花がセロトニンがどうこうという話をしていたが、まぁ、いつものことであるらしかった。
「う~ん? ヴァルター殿は~?」
「何かから逃げました」
そう言う他にない。
騎士は酔いが覚めたのか、すっかり白くなった顔で駆け出した。鬼の形相となって追いかける誰かから逃げたのだ。多分、彼の妹。
「そうでありますか~」
しかし……どうしようか。
成り行きを見守っていたが、これはマズイのではないか。
「ウィーザさん、寝起きで悪いんだけど」
「何であります~?」
聞くのは躊躇われる……いや、それでも言わなければ。
「その……金貨、何枚持ってますか?」
「へえ~?」
着の身着のままで連行されたため、少ない金貨が収められた巾着袋は所持していない。
「ここの会計……どうしましょう」
由梨花とヴァルターのどちらかが出してくれると思っていたが、そのどちらもがこの場にいない。
「そんなことでありますか~」
「結構大事な事ですよ」
呑気なウィーザに若干の苛つきを覚える。この場をどう切り抜ければいい、焦燥に駆られていた。
「私にお任せ下さい~、それなりに持っているであります~」
「本当ですか?」
ウィーザはふらふらと立ち上がり、俺の肩を掴んだ。
「でありますから~、早く帰るであります。うぅ~寒いであります~」
「そんなに飲みましたっけ?」
「う~ん、覚えてないであります~」
千鳥足の彼女を支えながら会計を済ませる。ウィーザが手にする巾着袋には、輝く金貨で満たされていた。どれだけ重いのだろう、と思考してしまうほどに。
「その……すみません。必ず返しますから」
「気にしないでいいであります~、それより寒いであります~」
店を出ると、酔っ払いが絡んできた。背中に回り込んで抱きしめられた。逃がさないように、首を絞めるように、腕を回された。
「ちょっと……やめて下さい」
「うへへへへ~あったかいであります~」
体温の低下はアルコールの作用。拡張した血管から熱が逃げ、体温が下がっていく。体温は喧騒を置き去りにした、この闇夜へ吸い込まれる。
「捨てていきますよ」
「いやであります~」
腕から香る甘い匂いが、背中に押し付けられる暖かい弾力が、不快だった。
「ウィーザさん、家はどこですか?」
「私は寮に住んでおります~、ミズキ様と同じであります~」
「寮ってどこにありましたっけ?」
「本部の後ろのほうであります~、案内するであります~」
彼女の指示通りに、ゆっくりと歩を進めた。
都に来たのも初、本部に来たのも初、知らない夜道を歩き続ける。
最低限の手荷物は出陣の際にマリー・グレイスへ預けており、俺が居住するという部屋へ届けてくれる手筈だった。寮での生活ということは、必然的に共同生活なのだろうか。
「着いたであります~」
「ここ?」
本部の裏に建造された建物。宮殿のように豪勢な本部とは打って変わり、木造であるそれは生活感に溢れていた。
「結構、小さいですね」
「寮に住む団員はそれほど多くはないのであります~、給金が多いので自宅を建てる者が多いのであります~」
「へぇ……ウィーザさんも建てたら?」
「うへへへへ~、一緒に暮らしてくれるのでありますか~?」
「酷く酔ってますね、早く寝て下さい」
「あぁん離れないで欲しいであります~」
「風呂にでも入って下さい!」
べたべたと絡み続けるウィーザを引っぺがし、入り口へ押し込む。酔っ払いの相手は嫌いだ、訳の分からないことを言うし、人の話を聞かないから。
「ミズキ様も一緒に入るであります~」
「は……?」
「この時間なら誰もいないであります~、何も問題ないであります~」
「お断りします、もう布団にでも入って寝ててください」
人気の無い寮の通路を、薄明りを頼りに彼女と俺の部屋を探す。ドアの上にはプレートが打ち付けられ、それぞれの入居者の名前が書いてあった。
「いけず~」
「いい加減にして下さい、あなたは騎士なんですから」
「その前に人間であります~、一人の乙女であります~!」
成人を超えている筈のウィーザは子供のように駄々をこねる。
それは酔いが回ったせいだ。
分かってるんだ。
でも。
「いい加減に……黙れよ!」
我慢できなかった。
ヘラヘラ笑う、その笑顔が。
「へ……ミズ──」
「様づけするな! 名前を呼ぶな! 黙ってくれよ!」
「ちょ……あの、わたし……」
「もう十分ですよね!? じゃあ俺はこれで!」
踵を返し、出入り口へ向かう。
キツイ言葉をかけてしまったが構うものか、どうせ明日には忘れている。全てはアルコールにより脳が見せた悪い夢だ、時間が経てば消えてなくなる。
「……ッ!?」
「ま、待ってほしいで……あります」
掴まれた。
しつこく纏わりつく彼女が邪魔で、もう一度罵倒を浴びせようと振り向く。
「なにか、気に障ることを言ってしまったでしょうか? 迷惑なことをしてしまったでしょうか?」
それだ。
その目だ。
それが一番、気にくわない。
「俺に……優しくなんてするな! 同情するな! ムカつくんだよ、あんたの存在が!」
涙を浮かべて懇願する、その顔が。
「孤独が強くするって言っただろ!? そうだよ、その通りだよ! 俺は一人でいないと強くなれないんだ、纏わりつくのをやめてくれよ!」
「そ、それはちが──」
「何が違う!? 今までだって一人で戦ってきたんだ、ずっと昔から、別の世界でも! 優しさなんていらない、温もりなんていらない!」
「それは──」
「あんたが心配してるのは、俺が死縛者になるかどうかだろ!? 気遣いなんて必要ない、友達を殺したって平気でいるんだから!」
「……っ!」
「首を撥ねた! 魂を壊した! この手で殺した! マリーが止めをさした、でも確実に二回も殺した! その時どんな顔してたと思う? 笑ってたんだよ俺は!」
感情が、止まらない。
これまで抱いていた、俺の全てが溢れていく。
「殺人鬼なんだよ俺は! 由梨花やノーレンとは違う、ただの快楽殺人鬼だ! そんなヤツを……哀れんだ目で見るな!」
掴んだ腕は、すでに放れていた。
無意識に振りほどいたのか、彼女が放したのかは分からない。
「俺はもう班から抜ける! お世話になりました!」
駆け出した。
夜に紛れたかった。
彼女の輝きを、曇らせたくなくて。
だがもう遅い。
言霊を放ってしまったのだ。
それは自分に返ってくる、呪いだった。
☆ ☆ ☆
川のほとりで、空を見上げた。雲一つない、綺麗な夜空を。
手が届く筈もない星たちの祝福。それが怖くて俯いた。自分がいなくなってしまうのではないか、そう思って体育座りで自分を抱きしめた。
決して、あんなこと言いたくなかった。
誰かを傷付けたくなどなかった。
でも。
「なんで……」
溢れてしまった。
内心で、どう思っていたのか。
戦場で生き残るための本能だったのだ、と言い訳する自分がいる。
お前は友を殺して生き残ったのだ、と叱咤する自分がいる。
全てはあの子の為なのだ、と否定する自分がいる。
どれが自分で、どれが俺だ? 山城瑞希という人間のことが、頭の中でぐちゃぐちゃにかき混ざっていた。
「いなくなりたい……」
それは一番恐れていたこと。
でも、なぜだろう……願ってしまう。
この悪夢から覚めなければ。この地獄から抜け出さなければ。誰も理解してくれない、孤独な世界から。
「なら……僕と一つになろう?」
誰かが、囁く。
「ね、山城君」
鼓動が、スピードを上げた。
「ここを楽園にしちゃおうよ、一緒に」
腹部に熱が集まっていく。
暖かい……君になら、きっとこの孤独を埋められる。山城瑞希を理解してくれる。それが嬉しい。いいよ、この身を切り裂いてでも──
「そんなの……イヤであります」
誰かが、囁いた。
やけに耳元で、呼吸音が聞こえるほど近くで。
「あなたの気も知らず……申し訳ないであります」
暖かい熱に包まれながら。
「でも……そんな悲しいこと、言わないで」
顔を見たくなかった。
顔を見せたくなかった。
謝りたかった。
暴言を言いたかった。
自分から遠ざけたかった。
「ここにいて欲しい。傍にいて欲しい。私がそう願うのは、あなたには重荷でしょうか」
でも、動けない。
「友人をその手に……聞いていたのに、配慮に欠けておりました。あなたはまだ、こんなに小さいのに」
ふざけるな。
また一つ、感情が溢れそうになる。
「孤独が強くする、それは事実です。私も入団出来るほどに強くなりました……ですが、ぽっかりと穴が開いてしまったのです、埋められない穴が」
それを堪えて、ただ、揺り籠に包まれた。
「それでも……みんなと過ごすうちに、少しづつではありますが、狭まっていったのです」
子供のように。
赤子のように。
「帰らないといけない場所が、できたから……」
ふざけるな。
叫びは、虚無の闇へ飲み込まれた。
「帰るべき場所が、できたから……」
そうだ。
平気だなんて、嘘だ。
当たり前じゃないか、懺悔した、後悔した、躊躇いもした。
平気な人間なんて、どこにもいないじゃないか。
「あなたにも、きっと……」
心臓の鼓動は、誰かのものと同調した。
酷く落ち着いた、清らかなリズム。
「僕がいて、良かったって……思う?」
それは幻聴だっただろうか。
誰かが、この世界に己の存在を問う。
「もちろん……」
涙は流れなかった。
それでも、心の隙間が少しだけ、埋められた気がした。
「私も──」
意識は、深い海に沈んでいった。
彼女は何と続けたのだろう。
多分、大人になれば分かるのだろう。
今はただ、安らかな波の音に包まれよう。
残響に囚われたままでも。
「ユリカ様、お気を確かに」
「何ですかヴァルタ~? 用意出来ないと言うのですか~?」
「申し訳ありません、この酒場にそのような品はございません」
「無いならつくればいいのですよ~? クエン酸と~、重曹を~、水にまぜまぜして~、秘密の原液を投入するのです~」
「く、くえんさん? じゅうそう?」
「あなたはバカですね~? 教育してあげますよ~」
「お戯れを……あぁ、頭を撫でていただけるとは、何たる幸福!」
すっかり酔っ払った少女が大男に絡みつく。ヴァルターは抵抗こそ見せているものの浮かれていた。
それを傍目に、鳴り止まない腹の虫を鎮めようと羊肉の串焼きを口に運ぶ。
眠っているうちに都へと帰還し、気が付けば医療区画だという部屋に運ばれていた。いつの間に着替えさせられたのか、団員が身に纏う茶色のBDUを着ていた。身体は問題ないということを何度も伝えたが、そこで働くスタッフたちは頑なにベッドへ押し付ける。問答を続けるうちに、騒ぎを聞きつけたのか由梨花が現れ、引き取られる格好で酒場まで連れていかれた。そこには班のメンバーや他の団員たちがひしめき合い、戦闘での戦果を語る姿が多く見られた。
入団と初陣を祝いましょう──なんて声高に言っていたクセに、由梨花は酔い潰れた。未成年飲酒はダメ、絶対。というかアルコール度数がチューハイ以下のシードルでここまで酔っ払うのか、あれはリンゴジュースじゃないか。
俺は飲んでいない。絶対に。アムレット料理店でこっそり飲んでなんかいない。
「そうでした~、瑞希もちゃんと飲んでますか~? おや~? 中身が入ってないではないですか~、おかわりを注文しましょうね~」
「私にお任せ下さい。同じもので良いかな、少年?」
「はい。ありがとうございます」
甲冑を脱いだヴァルターが近くの店員に新たな注文を頼み、すぐさま替えのドリンクが運ばれてくる。発酵臭がするそれを一気に飲み干す……だが、多少体が暖かくなるだけで全く気持ちよくなることは出来ない。
ちなみにこれは酒ではない、ただ異臭がするリンゴジュースだ。
「もっと食べて下さいよ~、遠慮なんていりませんよ~、好きなだけ召し上がって下さいね~、奢りますから~、ヴァルターが~」
「お言葉ですがユリカ様、私の給金ではそこまで……」
「良いではありませんか~、教育費です~」
「は……どうか、どうかもっと教育して頂きたい!」
本来であれば、血の闘争団本部内にある食堂で夕飯を摂るハズだったが、由梨花の提案でこの酒場へやってきた。食堂はここより狭苦しく、料理もお世辞にも美味しいと言えるものではない、と溜息まじりに説明された。本部に併設されているこの酒場は半ば専有化されており、全く無関係な市民が訪れることもないらしい。天炎者であることを特別に意識することもなく、団員たちは仲間として歓迎してくれた。
『よぉ新入り! あの戦闘見てたぜ、やるじゃねえか!」
『大変だったわね、天炎者様。疲れたでしょうからこのスープを飲んで、体を癒してくれるから』
『軟弱……しかし見込みがある。精進せよ、我々と共に』
『入団してくれてありがとうございます! カッコいいな~、いつか私の班長になってくれたらいいな~』
『ユリカ様を泣かせるような事があれば、容赦はいたしませんぞ! 我等“ユリカ様ふぁんくらぶ”は徹底抗戦いたしますぞ!』
『なにをう!? 拙者たち“ノーレン様ふぁんくらぶ”も容赦はいたしません! 笑顔を真っ先に見るのは拙者たちです!』
『団長……私は、お待ちしております。振り向いてもらえなくとも……』
『兄様に迷惑を掛けないように。掛けたら爪を剥ぐ』
口々に騒ぎ立てたと思ったら、すぐに自分の席へ戻って食事を続けた。ふざけた声も聞こえたが、流石は歴戦の戦士たちだ、長い言葉は不要。察してくれたのかは分からないが、程よい喧騒となって酒場を包んでくれた。
彼らも、いつか配下の騎士となる可能性がある。天炎者の素性は理解している。
余計な詮索など必要ない。今、聞くべきことではない。ただ、そこにいればいい。
「いいですよ~、教育してあげますよ~。でも面倒ですね~……そうだ、根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝を持ってきたら色々教えてあげますよ~」
「なんとも面妖な……そのような枝、聞いたことも御座いません」
「バカですね~、ヴァルターはバカターですね~」
「は……もっと、もっとお叱り下さい!」
体面に座る少女と男がいい加減うるさく思えてきた。
この男も酔っ払っているのだろうか、それとも素面なのか。なんとも面妖な。
「東の海に~浮かんでるらしいですよ~? 泳いで探してきてくださいね~?」
「は、必ずや持って帰ります」
騎士は胸に手を当て、与えられた任務をやり遂げようと意思を固める。ヴァルターは確実に行く、そう判断して口を挟んだ。
「落ち着いて下さいヴァルターさん、そんなものありませんから。由梨花、蓬莱の玉の枝なんてあるワケないだろ、意地悪なことを教えるな」
言うと、少女は真っ赤な顔で反論した。卓上に突っ伏し、長い黒髪をだらりと垂らしたまま。
「きっとどこかにありますよ~? 異世界なんですからありますよ~?」
「どうして自信満々なんだ……」
「それとも~、ヴァルターに頼んだことを悔しがっているのですか~?」
「はあ?」
酔っ払った由梨花は、見たこともない顔でニタニタと笑う。
「安心して下さいよ瑞希~、そんなこと考えてませんから~」
考えるって……何が?
竹取物語についての話だろうか。はて、一体どんな内容だったか……確か、かぐや姫が無理難題を押し付けて、男に不幸をもたらす話だった。出題した理由は……あれ、うまく思い出せない。
「やっぱり黒がいいですよね~、分かっていましたとも~。さぁヴァルター、瑞希より先に見つけたら現代文の内容を教えてあげますよ~。まずは現代語訳からですね~」
「は! 少年、私は負けん」
「えぇ……」
酔っ払いに付き合わされるこの男が可哀想に思えてきた。今までにどれだけの無理難題を押し付けられてきたのだろう。いや、それだけの精神力がなければ配下の騎士は務まらないのだろうか。
「必ずや、ほうらいのたまのえだ? をユリカ様へ献上する! 勝負だ、少年!」
「お断りします」
「なんだと!? ユリカ様が所望されているのだ、地の果てまで行こうとも探し出さねば!」
「だから、そんなもの無いんですって」
「いいやある! 必ずある! 思い出した、この目で一度見たことがある!」
「あなたも酔っ払ってますよね!?」
なんだろう、すごく面倒くさいし暑苦しい。
「あっはっはっは、醜く争うといいのですよ~」
一番面倒くさいのはこの女か。
「そうです~、私はお姫様なのですよ~? それを証明してあげますとも~」
言うと、ふらふらと立ち上がって両手を広げ、大衆酒場へ声を届けた。
「聞きなさい、同胞よ!」
何事か──と刹那の静寂。
「闘争こそが人の本領! 理性こそが人の神髄! 同胞たちよ、存在証明の為に剣を取りましょう!」
だが、直後には歓声が巻き起こり、拍手喝采がこの場を支配した。団員たちは「ユリカ様ー!」「よ、ニッポン一!」などと合いの手を入れ、それを聞いた由梨花は得意げになる。
お姫様というのは事実なのか? ファンクラブなるものが結成されているらしいし。
「いいですね~、気分が乗ってきましたよ~? では……夏目由梨花、歌います!」
「は……?」
何を言ってるんだこのワガママ姫……そう思った時には椅子に乗り上げ、空のジョッキをマイク代わりに握りしめていた。
「タイトルは、“星屑デーモン☆シンデレラ”! ミュージック~」
本当に歌うのか、ここはスナックなんかじゃないんだぞ。いくら班長とはいえ、ここまでの勝手を許すなんて──
「スタ~……うっ」
「ユリカ様!?」
少女は舞台から崩れ落ちた。
「あぁ……儚い夢でした」
「お気を確かに!」
「私……アイドルに……」
「ユリカ様あああああ!」
駆け寄った騎士が悲痛な叫びをあげる。酒場も一時騒然となり、歌を披露するハズだった少女の身を誰もが案じていた。
『あちゃー、また倒れたか』
『段々酒癖が悪くなってきてるよな』
『そんなところも可愛いんだけどね~』
『今回は持ったほうだろ、タイトルを言えたのだって珍しいのに』
『結局、どんな歌なんだ……』
『とにかく介抱しましょ、あんなヴァルター見てられない』
『兄様は私が回収する……こら逃げないで!』
ひそひそと、そんな会話が聞こえた。
この少女が酔っ払う場面を何度も見ているのだろう……みんなお前の酔いに付き合ってくれてるだけだぞ。
「う~ん? 何事でありますか~?」
寝ぼけ眼をこすり、隣に座していたウィーザが大きな欠伸をする。
「えっと……由梨花が運ばれました」
「へえ~?」
意識がハッキリしていないのか、頭を揺らしながら返事をした。
彼女は由梨花よりも先に酔い潰れ、夢の世界へ旅立っていた。悪酔いこそしていないが、あまりにも早い意識の喪失には心配せざるを得ない。まだ酔っていない由梨花がセロトニンがどうこうという話をしていたが、まぁ、いつものことであるらしかった。
「う~ん? ヴァルター殿は~?」
「何かから逃げました」
そう言う他にない。
騎士は酔いが覚めたのか、すっかり白くなった顔で駆け出した。鬼の形相となって追いかける誰かから逃げたのだ。多分、彼の妹。
「そうでありますか~」
しかし……どうしようか。
成り行きを見守っていたが、これはマズイのではないか。
「ウィーザさん、寝起きで悪いんだけど」
「何であります~?」
聞くのは躊躇われる……いや、それでも言わなければ。
「その……金貨、何枚持ってますか?」
「へえ~?」
着の身着のままで連行されたため、少ない金貨が収められた巾着袋は所持していない。
「ここの会計……どうしましょう」
由梨花とヴァルターのどちらかが出してくれると思っていたが、そのどちらもがこの場にいない。
「そんなことでありますか~」
「結構大事な事ですよ」
呑気なウィーザに若干の苛つきを覚える。この場をどう切り抜ければいい、焦燥に駆られていた。
「私にお任せ下さい~、それなりに持っているであります~」
「本当ですか?」
ウィーザはふらふらと立ち上がり、俺の肩を掴んだ。
「でありますから~、早く帰るであります。うぅ~寒いであります~」
「そんなに飲みましたっけ?」
「う~ん、覚えてないであります~」
千鳥足の彼女を支えながら会計を済ませる。ウィーザが手にする巾着袋には、輝く金貨で満たされていた。どれだけ重いのだろう、と思考してしまうほどに。
「その……すみません。必ず返しますから」
「気にしないでいいであります~、それより寒いであります~」
店を出ると、酔っ払いが絡んできた。背中に回り込んで抱きしめられた。逃がさないように、首を絞めるように、腕を回された。
「ちょっと……やめて下さい」
「うへへへへ~あったかいであります~」
体温の低下はアルコールの作用。拡張した血管から熱が逃げ、体温が下がっていく。体温は喧騒を置き去りにした、この闇夜へ吸い込まれる。
「捨てていきますよ」
「いやであります~」
腕から香る甘い匂いが、背中に押し付けられる暖かい弾力が、不快だった。
「ウィーザさん、家はどこですか?」
「私は寮に住んでおります~、ミズキ様と同じであります~」
「寮ってどこにありましたっけ?」
「本部の後ろのほうであります~、案内するであります~」
彼女の指示通りに、ゆっくりと歩を進めた。
都に来たのも初、本部に来たのも初、知らない夜道を歩き続ける。
最低限の手荷物は出陣の際にマリー・グレイスへ預けており、俺が居住するという部屋へ届けてくれる手筈だった。寮での生活ということは、必然的に共同生活なのだろうか。
「着いたであります~」
「ここ?」
本部の裏に建造された建物。宮殿のように豪勢な本部とは打って変わり、木造であるそれは生活感に溢れていた。
「結構、小さいですね」
「寮に住む団員はそれほど多くはないのであります~、給金が多いので自宅を建てる者が多いのであります~」
「へぇ……ウィーザさんも建てたら?」
「うへへへへ~、一緒に暮らしてくれるのでありますか~?」
「酷く酔ってますね、早く寝て下さい」
「あぁん離れないで欲しいであります~」
「風呂にでも入って下さい!」
べたべたと絡み続けるウィーザを引っぺがし、入り口へ押し込む。酔っ払いの相手は嫌いだ、訳の分からないことを言うし、人の話を聞かないから。
「ミズキ様も一緒に入るであります~」
「は……?」
「この時間なら誰もいないであります~、何も問題ないであります~」
「お断りします、もう布団にでも入って寝ててください」
人気の無い寮の通路を、薄明りを頼りに彼女と俺の部屋を探す。ドアの上にはプレートが打ち付けられ、それぞれの入居者の名前が書いてあった。
「いけず~」
「いい加減にして下さい、あなたは騎士なんですから」
「その前に人間であります~、一人の乙女であります~!」
成人を超えている筈のウィーザは子供のように駄々をこねる。
それは酔いが回ったせいだ。
分かってるんだ。
でも。
「いい加減に……黙れよ!」
我慢できなかった。
ヘラヘラ笑う、その笑顔が。
「へ……ミズ──」
「様づけするな! 名前を呼ぶな! 黙ってくれよ!」
「ちょ……あの、わたし……」
「もう十分ですよね!? じゃあ俺はこれで!」
踵を返し、出入り口へ向かう。
キツイ言葉をかけてしまったが構うものか、どうせ明日には忘れている。全てはアルコールにより脳が見せた悪い夢だ、時間が経てば消えてなくなる。
「……ッ!?」
「ま、待ってほしいで……あります」
掴まれた。
しつこく纏わりつく彼女が邪魔で、もう一度罵倒を浴びせようと振り向く。
「なにか、気に障ることを言ってしまったでしょうか? 迷惑なことをしてしまったでしょうか?」
それだ。
その目だ。
それが一番、気にくわない。
「俺に……優しくなんてするな! 同情するな! ムカつくんだよ、あんたの存在が!」
涙を浮かべて懇願する、その顔が。
「孤独が強くするって言っただろ!? そうだよ、その通りだよ! 俺は一人でいないと強くなれないんだ、纏わりつくのをやめてくれよ!」
「そ、それはちが──」
「何が違う!? 今までだって一人で戦ってきたんだ、ずっと昔から、別の世界でも! 優しさなんていらない、温もりなんていらない!」
「それは──」
「あんたが心配してるのは、俺が死縛者になるかどうかだろ!? 気遣いなんて必要ない、友達を殺したって平気でいるんだから!」
「……っ!」
「首を撥ねた! 魂を壊した! この手で殺した! マリーが止めをさした、でも確実に二回も殺した! その時どんな顔してたと思う? 笑ってたんだよ俺は!」
感情が、止まらない。
これまで抱いていた、俺の全てが溢れていく。
「殺人鬼なんだよ俺は! 由梨花やノーレンとは違う、ただの快楽殺人鬼だ! そんなヤツを……哀れんだ目で見るな!」
掴んだ腕は、すでに放れていた。
無意識に振りほどいたのか、彼女が放したのかは分からない。
「俺はもう班から抜ける! お世話になりました!」
駆け出した。
夜に紛れたかった。
彼女の輝きを、曇らせたくなくて。
だがもう遅い。
言霊を放ってしまったのだ。
それは自分に返ってくる、呪いだった。
☆ ☆ ☆
川のほとりで、空を見上げた。雲一つない、綺麗な夜空を。
手が届く筈もない星たちの祝福。それが怖くて俯いた。自分がいなくなってしまうのではないか、そう思って体育座りで自分を抱きしめた。
決して、あんなこと言いたくなかった。
誰かを傷付けたくなどなかった。
でも。
「なんで……」
溢れてしまった。
内心で、どう思っていたのか。
戦場で生き残るための本能だったのだ、と言い訳する自分がいる。
お前は友を殺して生き残ったのだ、と叱咤する自分がいる。
全てはあの子の為なのだ、と否定する自分がいる。
どれが自分で、どれが俺だ? 山城瑞希という人間のことが、頭の中でぐちゃぐちゃにかき混ざっていた。
「いなくなりたい……」
それは一番恐れていたこと。
でも、なぜだろう……願ってしまう。
この悪夢から覚めなければ。この地獄から抜け出さなければ。誰も理解してくれない、孤独な世界から。
「なら……僕と一つになろう?」
誰かが、囁く。
「ね、山城君」
鼓動が、スピードを上げた。
「ここを楽園にしちゃおうよ、一緒に」
腹部に熱が集まっていく。
暖かい……君になら、きっとこの孤独を埋められる。山城瑞希を理解してくれる。それが嬉しい。いいよ、この身を切り裂いてでも──
「そんなの……イヤであります」
誰かが、囁いた。
やけに耳元で、呼吸音が聞こえるほど近くで。
「あなたの気も知らず……申し訳ないであります」
暖かい熱に包まれながら。
「でも……そんな悲しいこと、言わないで」
顔を見たくなかった。
顔を見せたくなかった。
謝りたかった。
暴言を言いたかった。
自分から遠ざけたかった。
「ここにいて欲しい。傍にいて欲しい。私がそう願うのは、あなたには重荷でしょうか」
でも、動けない。
「友人をその手に……聞いていたのに、配慮に欠けておりました。あなたはまだ、こんなに小さいのに」
ふざけるな。
また一つ、感情が溢れそうになる。
「孤独が強くする、それは事実です。私も入団出来るほどに強くなりました……ですが、ぽっかりと穴が開いてしまったのです、埋められない穴が」
それを堪えて、ただ、揺り籠に包まれた。
「それでも……みんなと過ごすうちに、少しづつではありますが、狭まっていったのです」
子供のように。
赤子のように。
「帰らないといけない場所が、できたから……」
ふざけるな。
叫びは、虚無の闇へ飲み込まれた。
「帰るべき場所が、できたから……」
そうだ。
平気だなんて、嘘だ。
当たり前じゃないか、懺悔した、後悔した、躊躇いもした。
平気な人間なんて、どこにもいないじゃないか。
「あなたにも、きっと……」
心臓の鼓動は、誰かのものと同調した。
酷く落ち着いた、清らかなリズム。
「僕がいて、良かったって……思う?」
それは幻聴だっただろうか。
誰かが、この世界に己の存在を問う。
「もちろん……」
涙は流れなかった。
それでも、心の隙間が少しだけ、埋められた気がした。
「私も──」
意識は、深い海に沈んでいった。
彼女は何と続けたのだろう。
多分、大人になれば分かるのだろう。
今はただ、安らかな波の音に包まれよう。
残響に囚われたままでも。
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