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優しさの正体
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泉がイーサンの誘いに応じたのは、出向が開始してから四度目の月曜日だった。
夜は、晩夏の湿度に、ほんの僅かながら秋風の気配が交じる。
あと二ヶ月——イーサンの頭では既にカウントダウンが動き始めていた。
さほど焦りは無い。
むしろ、確信めいた冷静さがそこにはあった。
離れた場所にいる男の影など、さほど脅威ではない。
「プライベートな予定があるなら、無理に誘わないよ」
社屋の前に縦列駐車しているタクシーのひとつに乗り込みながらイーサンがことさらにやんわり確認すると、少し遅れて「……ありません」と泉が口を結ぶ。
「では、食事をしながら、少し話がしたい。仕事のことでも、それ以外でも」
目的地は銀座の鉄板焼店だった。
店の入口には和紙を通した明かりが滲み、訪れる客の気配を静かに迎える。
鉄板焼と聞いて、泉は派手なナイフパフォーマンスを想像していたが、料理もサービスもまるで列車の時刻表のように狂いがなく、見事な職人技が光る演出だった。
会話は、思いのほか弾んだ。
イーサンの話し方は柔らかく、どこか異国の大きな公園を歩いているような静けさがあった。泉が足を止めれば必ず少し前で待っている。時折織り交ざる冗談は控えめで知的、決して押し付けがましくない笑いを誘う。泉の反応を寸分違わず読み取りながら、話題を選んでいるようだ。
こうして肩を並べて過ごしていると、会食を拒む理由はなんだったのか、拒む必要があったのかどうか曖昧に思えてくる。求められて出向しているのだから、勤務時間外の交流は応えるべき礼節なのではないか——そう考え始めていた。
——けれど、ふとした瞬間に目が合うたび、イーサンの目の奥に潜んでいる冷たさを見るような気がして——研磨された精密機械に反射する光のような。
この、眼の前に差し出されている穏やかな時間や心地よさが、もしかしたら計算し尽くされた手綱かもしれないと考えてしまう。
出向して1ヶ月経とうとしているが、未だにT製薬での初対面時に感じた奇妙な違和感を引きずったままだ。
「もう少し、話せる?」
デザートを断った泉に、イーサンが穏やかに問うた。さらりと離れて、答えを急がない。
「いいBarがある。……キミの話をもっと聞かせてほしい。静かな場所で」
少しだけ眉を下げた柔和な顔と相まった、控えめな誘導だった。
泉の壁を壊すことなく、扉を開けてただ待つような姿勢。けれどその扉の先がどこに続いているかは、定かでない。
泉は少しだけ黙り、それでも、小さく頷いた。声はなかったが拒まなかった。
ふいに、以前にも、似たような夜があったことを思い出す。
先輩に誘われ、軽い義務感でついて行ったハロウィンパーティーだった。
知らない場所で、気がつけば自分以外の仲間はおらず、恐怖に怯えた夜。心細さの中で溺れそうなところを助けてくれたのは——
「あ……」思わず、泉は声に出していた。
あんぐりと口を開けた様子が意外に幼く見え、イーサンは愛し気に目元を細める。
「どうかした?」
「いえ、ちょっと忘れていたことを、思い出して……」
髪型が違うせいで気が付かなかった。
あの店で確かに見た、金髪を輝かせた騎士のような姿。何度か目が合って……あれは『逃げろ』の合図だったのかもしれない。
ヒューゴは覚えているだろうか。
再び、泉に脳裏にあの夜の自分が、まるで映画を見ているかのように再生される。
恋人も好きな人も居なかったが、それが自分の弱さになっていたのかもしれない。
しかし好意をむけてくれる相手であっても、関係を持つことに嫌悪感があった。それが潔癖症ゆえなのか、ロマンティストのせいなのか自分では分からない。先輩から強い力で肩を抱かれ、逃げるタイミングも分からず戸惑い、恐怖心が表れるまで何もできない。
バーテンダーであったヒューゴに見守られ、マスターに裏口からこっそりと帰して貰うまで……
なぜこんな昔の記憶が、今——?
泉は心ここにあらずの状態で、話しかけてくるイーサンに無意識の相槌を繰り返していた。
夜の街がゆっくりと深夜へと表情を変える頃、到着したのはほど近い外資系のホテルだった。
漆黒の大理石の床、見事な大きさのシャンデリアの光、夜の静寂を助長させるかのように静かに流れるピアノの生演奏。
すべて泉にとっては『非日常』であり、居場所から足を踏み外してしまったような感覚すらあった。
「きっと気に入るよ」エレベーターの扉が音もなく閉まる。「東京の夜景は派手だけれど美しいよね。理路整然とした街ではないのに、夜景は整って見える。飛行機で、夜の成田に降り立ったことは?」
「ないです。僕、海外経験は一度も……」
「本当かい?それは困った。パスポートも持っていない?」
「それはあります。旅行の計画はしていて、でも、例のパンデミックでキャンセルに」
「ああ、なるほど」
東京の夜景を一望できる高層の窓際。柔らかなジャズの生演奏が静かに流れ、空間のすべてが落ち着き払った演出だった。
——こういった場所に来る者だけが楽しめる美。
スツールに腰掛けた泉の背は直立を保っていた。緊張ではなく、ただ崩していい姿勢が見つからなかった。
「苦手なものは?」
「特には……」
イーサンが、いつの間にか背後に佇んでいたバーテンダーに「シグネチャーと、ラフロイグを」と丁寧な日本語で伝え、まもなくして透明感のある赤いカクテルとアンバー色のウイスキーが運ばれてくる。
「クランベリージュースの赤だ。甘すぎるようなら、別のものを」
泉はグラスを傾けてすぐに「美味しい」と感嘆のつぶやきを口にする。
「甘いものが好き?」
「あ、いえ、僕は……普通です。でもこのカクテルは苦みもあって、美味しいです」
「それがいいんだ」
イーサンは視線を窓に投げ、ストレートのウイスキーを一気に飲み干した。すぐにバーテンダーが次のグラスを届けて颯爽と去ってゆく。
「今日は——とても生き生きして見えた。仕事に慣れてきたかい?それとも、週末に良いリフレッシュができた?」
「そうですね。週末に自社の人と話せて」
「……というと、タカヤかな?」
「いえ、違いますが……高屋さんをご存知なんですか?」
「知ってる。やめてなければT製薬の仕事に同行するのは彼だったはず。そのタカヤでないとしたら……相手はオトカワサンかな?」
「ええ。たくさん喋って、気分転換になりました」
「へぇ。ずいぶん仲が良いんだね。普通は、会社の上司と週末に話したところで、気分転換にはならないと思うよ」
「まあ……久しぶりでしたから」
デザートを断ったせいか、クランベリージュースの甘さが心地いい。ジンベースだが口当たりは優しく、いくらでも飲めてしまいそうだ。
「そのオトカワサンのことだけどね」
柔和なイーサンの声に若干の硬さを感じ取り、泉の目がすっと固くなる。
「初めてT製薬で会った日をよく覚えている」イーサンの声は、グラス越しにこぼれるように柔らかかった。「キミが彼を尊敬しているのは、誰の目にも明らかだった。視線の端々から、憧れがにじみ出て……まるでキミは、彼が高位の存在かのように見ていたよ」
イーサンは緩やかに笑みを浮かべ、手にしたグラスの縁に長い指を滑らせた。
「でもね……厳しいことを言うようだけれど……彼はキミの『尊敬できる上司』というだけのはずだ。私ならそう定義する。その事実はこれからも変わらない。たとえ、電話越しの声がどんなに優しくてもね」
反射的に顔を上げる泉の表情に、イーサンは微かな勝利を感じて目を細めた。
水面に投げた小石が的確に波紋を広げる。
「簡単に手放しておいて、今さら何を……って私なら思うけどなあ」声音は穏やかなまま、だがその言葉の端々には棘が潜んでいた。まるで泉自身が棘に囲まれていることに気付かせるように。
「出向については僕も納得済です。それに、音川さんは僕のために」
「本当にイズミのためかい?」すっと低くなった声には否定を封じる力があった。「キャリアという名の安心を与えて、その実、キミを縛り付けておきたいのだとしたら?安全という形のない枠を用意して、所有するために」
「そんな、縛るだなんて」
泉はしっかりと首を振った。
「誤解しないで。私は彼を非難しているわけじゃない。紛れもなく彼は優秀なエンジニアで、技術にも洞察にも長けている。そして、心も強い」イーサンは琥珀色の液体を一口含む。その喉仏がゆっくりと動き、ことさら温和なトーンで、冷たい言葉が吐き出された。
「ただ、キミに関してだけは……彼のやり方は、どうにも残酷に見える」
「……どういう意味ですか」
微かに泉の声に震えが含まれる。問いでありながら答えを恐れる色。
イーサンはそれを丁寧に拾い上げるように言葉を重ねる。
「この1か月、ずっとキミを見ていた。イズミ——キミには、社会の構造や人の思惑を、無意識に読み解く力がある。どこに立ち、どう振る舞えばいいのか……その手腕は、キミの年齢と釣り合わないほど洗練されている」
そして、イーサンは言葉を一拍置いて、やや声を落とした。
「そんなキミを、いちソフトウェアハウスのエンジニアとして縛っておこうなんて残酷だよ。彼はキミを手元に置きながら——決して、その手で引き寄せようとしない。触れもせず、責任も取らず、……ただ『守る』という言葉に隠れて、キミを自分のテリトリーの留まらせた。……それは本当に、優しさだろうか」
沈黙が空気を侵食し、泉は目を伏せた。
イーサンはその沈黙すら計算に入れていた。
「彼はずるい。上司という立場に守られたまま、ただ『そこにいる』ことでキミを支配している」
表情を変えない泉の眼底に微かな揺れを見つけてほくそ笑む。
もう少しだ。
「イズミの才能も、感情も、閉じ込めるには惜しすぎる。……そう思ってしまうのは、私が彼ではないから、なのかもしれないけどね」
「……音川さんは、そんな人じゃありません」
グラスを持つ泉の指先が微かに震えているのに気づき、イーサンは更に目を細めた。
「そうやって庇い続けているのが、もう答えなんだよ。私には、キミが彼に抱いている気持ちが尊敬や信頼だけじゃないことくらい分かっている」
いよいよ泉の瞳が大きく揺れた。反論も肯定もしないのが、何よりの肯定だ。
「オトカワは、キミの気持ちを薄々感じながらも……知らないフリをしているんじゃないかい。証拠に、彼はキミに何も与えないだろう——
なぜなら、失うのが怖いからだ。キミを、『好意を抱いてくれる部下』という理想の位置に、ずっと閉じ込めておきたいんだ。なんせ、優秀で仕事ができる部下が、自分の言いなりになるなんて、こんな便利なことがあるかい」
深く沈黙が落ちる。
バーテンダーが、次のカクテルをそっと泉の前に置いて速やかに去っていった。
イーサンは微かに息を吐き、自分の発言が『冷たすぎなかったか』と振り返る。声のトーンは変えずに柔和だったはずだ。発言内容の厳しさを中和するために。
そしてことさら優しく、囁く。
「私はね、イズミ。キミに傷ついてほしくないだけなんだよ。キミは若くて、まっすぐで、そして——あまりに優しすぎる。
ねえ、キミはオトカワのどこに惹かれたの?落ち着いた声?迷いのない態度?それとも……キミの弱さに、手を差し伸べてくれたこと?」
「なぜ、それを……?」
「うちみたいな会社はね、候補者の身辺調査を怠らないんだよ。安心して、キミは全てクリアしている」イーサンは、窓の外へと視線を移した。
「彼に、『ここに居ていい』って言われたかい?それが、あの男の心の中だと思ってしまったのかな。ああいう男は、人を包み込むのが上手い。でもね、それは愛情じゃない。ただの『正しさ』なんだよ」
言葉は柔らかいが、決して優しくない。
泉は口を開きかけて、結局何も言えずに、再び視線を落とした。
(正しさ——そうだ、音川は、常に正しくて——)
「そんな顔しないで、イズミ。責めたいわけじゃない。ただキミを知りたいんだ。
私がキミをここへ呼んだことは、強引なヘッドハンティングでも出向要請でもなく——救済だと考えてくれるかい?賢い誰かに、キミが利用され尽くす前に」
夜は、晩夏の湿度に、ほんの僅かながら秋風の気配が交じる。
あと二ヶ月——イーサンの頭では既にカウントダウンが動き始めていた。
さほど焦りは無い。
むしろ、確信めいた冷静さがそこにはあった。
離れた場所にいる男の影など、さほど脅威ではない。
「プライベートな予定があるなら、無理に誘わないよ」
社屋の前に縦列駐車しているタクシーのひとつに乗り込みながらイーサンがことさらにやんわり確認すると、少し遅れて「……ありません」と泉が口を結ぶ。
「では、食事をしながら、少し話がしたい。仕事のことでも、それ以外でも」
目的地は銀座の鉄板焼店だった。
店の入口には和紙を通した明かりが滲み、訪れる客の気配を静かに迎える。
鉄板焼と聞いて、泉は派手なナイフパフォーマンスを想像していたが、料理もサービスもまるで列車の時刻表のように狂いがなく、見事な職人技が光る演出だった。
会話は、思いのほか弾んだ。
イーサンの話し方は柔らかく、どこか異国の大きな公園を歩いているような静けさがあった。泉が足を止めれば必ず少し前で待っている。時折織り交ざる冗談は控えめで知的、決して押し付けがましくない笑いを誘う。泉の反応を寸分違わず読み取りながら、話題を選んでいるようだ。
こうして肩を並べて過ごしていると、会食を拒む理由はなんだったのか、拒む必要があったのかどうか曖昧に思えてくる。求められて出向しているのだから、勤務時間外の交流は応えるべき礼節なのではないか——そう考え始めていた。
——けれど、ふとした瞬間に目が合うたび、イーサンの目の奥に潜んでいる冷たさを見るような気がして——研磨された精密機械に反射する光のような。
この、眼の前に差し出されている穏やかな時間や心地よさが、もしかしたら計算し尽くされた手綱かもしれないと考えてしまう。
出向して1ヶ月経とうとしているが、未だにT製薬での初対面時に感じた奇妙な違和感を引きずったままだ。
「もう少し、話せる?」
デザートを断った泉に、イーサンが穏やかに問うた。さらりと離れて、答えを急がない。
「いいBarがある。……キミの話をもっと聞かせてほしい。静かな場所で」
少しだけ眉を下げた柔和な顔と相まった、控えめな誘導だった。
泉の壁を壊すことなく、扉を開けてただ待つような姿勢。けれどその扉の先がどこに続いているかは、定かでない。
泉は少しだけ黙り、それでも、小さく頷いた。声はなかったが拒まなかった。
ふいに、以前にも、似たような夜があったことを思い出す。
先輩に誘われ、軽い義務感でついて行ったハロウィンパーティーだった。
知らない場所で、気がつけば自分以外の仲間はおらず、恐怖に怯えた夜。心細さの中で溺れそうなところを助けてくれたのは——
「あ……」思わず、泉は声に出していた。
あんぐりと口を開けた様子が意外に幼く見え、イーサンは愛し気に目元を細める。
「どうかした?」
「いえ、ちょっと忘れていたことを、思い出して……」
髪型が違うせいで気が付かなかった。
あの店で確かに見た、金髪を輝かせた騎士のような姿。何度か目が合って……あれは『逃げろ』の合図だったのかもしれない。
ヒューゴは覚えているだろうか。
再び、泉に脳裏にあの夜の自分が、まるで映画を見ているかのように再生される。
恋人も好きな人も居なかったが、それが自分の弱さになっていたのかもしれない。
しかし好意をむけてくれる相手であっても、関係を持つことに嫌悪感があった。それが潔癖症ゆえなのか、ロマンティストのせいなのか自分では分からない。先輩から強い力で肩を抱かれ、逃げるタイミングも分からず戸惑い、恐怖心が表れるまで何もできない。
バーテンダーであったヒューゴに見守られ、マスターに裏口からこっそりと帰して貰うまで……
なぜこんな昔の記憶が、今——?
泉は心ここにあらずの状態で、話しかけてくるイーサンに無意識の相槌を繰り返していた。
夜の街がゆっくりと深夜へと表情を変える頃、到着したのはほど近い外資系のホテルだった。
漆黒の大理石の床、見事な大きさのシャンデリアの光、夜の静寂を助長させるかのように静かに流れるピアノの生演奏。
すべて泉にとっては『非日常』であり、居場所から足を踏み外してしまったような感覚すらあった。
「きっと気に入るよ」エレベーターの扉が音もなく閉まる。「東京の夜景は派手だけれど美しいよね。理路整然とした街ではないのに、夜景は整って見える。飛行機で、夜の成田に降り立ったことは?」
「ないです。僕、海外経験は一度も……」
「本当かい?それは困った。パスポートも持っていない?」
「それはあります。旅行の計画はしていて、でも、例のパンデミックでキャンセルに」
「ああ、なるほど」
東京の夜景を一望できる高層の窓際。柔らかなジャズの生演奏が静かに流れ、空間のすべてが落ち着き払った演出だった。
——こういった場所に来る者だけが楽しめる美。
スツールに腰掛けた泉の背は直立を保っていた。緊張ではなく、ただ崩していい姿勢が見つからなかった。
「苦手なものは?」
「特には……」
イーサンが、いつの間にか背後に佇んでいたバーテンダーに「シグネチャーと、ラフロイグを」と丁寧な日本語で伝え、まもなくして透明感のある赤いカクテルとアンバー色のウイスキーが運ばれてくる。
「クランベリージュースの赤だ。甘すぎるようなら、別のものを」
泉はグラスを傾けてすぐに「美味しい」と感嘆のつぶやきを口にする。
「甘いものが好き?」
「あ、いえ、僕は……普通です。でもこのカクテルは苦みもあって、美味しいです」
「それがいいんだ」
イーサンは視線を窓に投げ、ストレートのウイスキーを一気に飲み干した。すぐにバーテンダーが次のグラスを届けて颯爽と去ってゆく。
「今日は——とても生き生きして見えた。仕事に慣れてきたかい?それとも、週末に良いリフレッシュができた?」
「そうですね。週末に自社の人と話せて」
「……というと、タカヤかな?」
「いえ、違いますが……高屋さんをご存知なんですか?」
「知ってる。やめてなければT製薬の仕事に同行するのは彼だったはず。そのタカヤでないとしたら……相手はオトカワサンかな?」
「ええ。たくさん喋って、気分転換になりました」
「へぇ。ずいぶん仲が良いんだね。普通は、会社の上司と週末に話したところで、気分転換にはならないと思うよ」
「まあ……久しぶりでしたから」
デザートを断ったせいか、クランベリージュースの甘さが心地いい。ジンベースだが口当たりは優しく、いくらでも飲めてしまいそうだ。
「そのオトカワサンのことだけどね」
柔和なイーサンの声に若干の硬さを感じ取り、泉の目がすっと固くなる。
「初めてT製薬で会った日をよく覚えている」イーサンの声は、グラス越しにこぼれるように柔らかかった。「キミが彼を尊敬しているのは、誰の目にも明らかだった。視線の端々から、憧れがにじみ出て……まるでキミは、彼が高位の存在かのように見ていたよ」
イーサンは緩やかに笑みを浮かべ、手にしたグラスの縁に長い指を滑らせた。
「でもね……厳しいことを言うようだけれど……彼はキミの『尊敬できる上司』というだけのはずだ。私ならそう定義する。その事実はこれからも変わらない。たとえ、電話越しの声がどんなに優しくてもね」
反射的に顔を上げる泉の表情に、イーサンは微かな勝利を感じて目を細めた。
水面に投げた小石が的確に波紋を広げる。
「簡単に手放しておいて、今さら何を……って私なら思うけどなあ」声音は穏やかなまま、だがその言葉の端々には棘が潜んでいた。まるで泉自身が棘に囲まれていることに気付かせるように。
「出向については僕も納得済です。それに、音川さんは僕のために」
「本当にイズミのためかい?」すっと低くなった声には否定を封じる力があった。「キャリアという名の安心を与えて、その実、キミを縛り付けておきたいのだとしたら?安全という形のない枠を用意して、所有するために」
「そんな、縛るだなんて」
泉はしっかりと首を振った。
「誤解しないで。私は彼を非難しているわけじゃない。紛れもなく彼は優秀なエンジニアで、技術にも洞察にも長けている。そして、心も強い」イーサンは琥珀色の液体を一口含む。その喉仏がゆっくりと動き、ことさら温和なトーンで、冷たい言葉が吐き出された。
「ただ、キミに関してだけは……彼のやり方は、どうにも残酷に見える」
「……どういう意味ですか」
微かに泉の声に震えが含まれる。問いでありながら答えを恐れる色。
イーサンはそれを丁寧に拾い上げるように言葉を重ねる。
「この1か月、ずっとキミを見ていた。イズミ——キミには、社会の構造や人の思惑を、無意識に読み解く力がある。どこに立ち、どう振る舞えばいいのか……その手腕は、キミの年齢と釣り合わないほど洗練されている」
そして、イーサンは言葉を一拍置いて、やや声を落とした。
「そんなキミを、いちソフトウェアハウスのエンジニアとして縛っておこうなんて残酷だよ。彼はキミを手元に置きながら——決して、その手で引き寄せようとしない。触れもせず、責任も取らず、……ただ『守る』という言葉に隠れて、キミを自分のテリトリーの留まらせた。……それは本当に、優しさだろうか」
沈黙が空気を侵食し、泉は目を伏せた。
イーサンはその沈黙すら計算に入れていた。
「彼はずるい。上司という立場に守られたまま、ただ『そこにいる』ことでキミを支配している」
表情を変えない泉の眼底に微かな揺れを見つけてほくそ笑む。
もう少しだ。
「イズミの才能も、感情も、閉じ込めるには惜しすぎる。……そう思ってしまうのは、私が彼ではないから、なのかもしれないけどね」
「……音川さんは、そんな人じゃありません」
グラスを持つ泉の指先が微かに震えているのに気づき、イーサンは更に目を細めた。
「そうやって庇い続けているのが、もう答えなんだよ。私には、キミが彼に抱いている気持ちが尊敬や信頼だけじゃないことくらい分かっている」
いよいよ泉の瞳が大きく揺れた。反論も肯定もしないのが、何よりの肯定だ。
「オトカワは、キミの気持ちを薄々感じながらも……知らないフリをしているんじゃないかい。証拠に、彼はキミに何も与えないだろう——
なぜなら、失うのが怖いからだ。キミを、『好意を抱いてくれる部下』という理想の位置に、ずっと閉じ込めておきたいんだ。なんせ、優秀で仕事ができる部下が、自分の言いなりになるなんて、こんな便利なことがあるかい」
深く沈黙が落ちる。
バーテンダーが、次のカクテルをそっと泉の前に置いて速やかに去っていった。
イーサンは微かに息を吐き、自分の発言が『冷たすぎなかったか』と振り返る。声のトーンは変えずに柔和だったはずだ。発言内容の厳しさを中和するために。
そしてことさら優しく、囁く。
「私はね、イズミ。キミに傷ついてほしくないだけなんだよ。キミは若くて、まっすぐで、そして——あまりに優しすぎる。
ねえ、キミはオトカワのどこに惹かれたの?落ち着いた声?迷いのない態度?それとも……キミの弱さに、手を差し伸べてくれたこと?」
「なぜ、それを……?」
「うちみたいな会社はね、候補者の身辺調査を怠らないんだよ。安心して、キミは全てクリアしている」イーサンは、窓の外へと視線を移した。
「彼に、『ここに居ていい』って言われたかい?それが、あの男の心の中だと思ってしまったのかな。ああいう男は、人を包み込むのが上手い。でもね、それは愛情じゃない。ただの『正しさ』なんだよ」
言葉は柔らかいが、決して優しくない。
泉は口を開きかけて、結局何も言えずに、再び視線を落とした。
(正しさ——そうだ、音川は、常に正しくて——)
「そんな顔しないで、イズミ。責めたいわけじゃない。ただキミを知りたいんだ。
私がキミをここへ呼んだことは、強引なヘッドハンティングでも出向要請でもなく——救済だと考えてくれるかい?賢い誰かに、キミが利用され尽くす前に」
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