2 / 152
第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第1話 浮浪者とオムライスと
しおりを挟む
昼下がりのホテルのロビーには落ち着いたクラシックの調べが流れていた。
重厚な大理石の床に反射する微かな光すらこの場所がどのような場所かを
告げていた。
支配人・木島は、深紺のスーツの襟を指先で直しながらどこか虚ろな表情
で帰っていく料理人志望者の背を見送った。
今日だけで9人目の応募者だ。
経歴に華はある。技術も申し分ない。だが――胸を刺すものが何一つない。
「皆、同じだな……」
氷室が吐いた小さな独白をロビーの空調がさらっていったその時だった。
「し、支配人‼ 大変です!」
若い女性スタッフが駆け込んできた。
額に浮かんだ汗はただ事ではないと物語っている。
「ホテルの前で倒れている男性を見つけました! 呼吸はありますが……
かなり衰弱しています」
その背後から別のスタッフが痩せた男を抱えるようにして入ってくる。
髪も髭も伸び放題。
服は色褪せ、泥が染み込み、匂いも強い。
中身が抜け落ちたかのようにその身体は、驚くほど軽かった。
ソファに寝かされると、男のまぶたが小刻みに震え――ゆっくりと開いた。
焦点の定まらない黒い瞳が天井を彷徨い、乾いた唇がかすかに動く。
「……ハ……ラ……ヘ……」
木島はスタッフと一瞬視線を交わした。
「もう少し寝かせておこうみんなは仕事に戻ってくれあんたも気分が
良くなったら帰ってくれ」
木島の顔は理解できないというより理解したくないという表情だった。
その頃、厨房には昼の賄いの支度をする音が心地よく満ちていた。
佐山結は溶き卵を流し入れるフライパンの音に耳を澄ませながら、
今日の献立「オムライス」の段取りを頭で組み直していた。
賄いだろうと手は抜かない。
食べる相手の顔が見える仕事に妥協はない。
「……よし」
フライパンに卵が広がる瞬間、結はふと背中に視線の刺さるような気配を感じた。
振り返る。
「……えっ?」
厨房の入り口に見たことのないそして明らかにこの場所には不釣り合いな男が立っていた。
警戒して声を上げようとしたがその一瞬の隙に男はフラフラと結の横を通り抜け、棚からフライパンを取った。
「ちょ、ちょっと待ってください!あなた、誰ですか⁉」
悲鳴に近い言葉は届かない。
男は火をつけ、卵を割り、混ぜ、油を敷き……。
その迷いの無い手際に結は言葉を失った。
体が自然の流れとして動いている。
熟練という言葉すら追いつかない圧倒的な自然さ。
卵が鍋肌を滑りフライパンの上で軽やかに返る。
その瞬間だけ男の身体を覆っていた「浮浪者」という殻がふっと消え、
そこにはまるで別人のような研ぎ澄まされた料理人の姿があった。
結が息を呑むのとほぼ同時にスタッフがやって来て怒号が響く。
「おい‼ 何をしてるんだ!ここは厨房だぞ!」
しかし男は気にも留めない。
淡々と皿に盛りつけ湯気の立つオムライスを一つ手に取り、
まるで飢えを埋めるためだけに生きてきた人間のようにむさぼり食う。
そこへ支配人の氷室が駆け込んできた。
「君! 許可もなく厨房に入って調理など……言語道断だ。
すぐに出ていきたまえ!」
次の瞬間、男はスプーンを口にくわえ皿を抱えたまま出口へ向かった。
氷室がさらに制止する。
「皿とスプーンは置いていきなさい!」
男は立ち止まり名残惜しそうに皿を置く。
そして小さくしかしはっきりと呟いた。
「……ごちそうさま」
追い出されるように去っていくその背は先ほどの鋭さが嘘のように再び弱々しく揺れていた。
静寂が訪れる。
だが、置き去りにされた皿からは湯気がたちのぼっている。
結は誘われるようにスプーンを取った。
一口だけ……
――世界が止まった。
「……何これ……私のと、全然違う……」
卵は柔らかい。だがただの“とろとろ”ではないシルクのような滑らかさ。
香りの層が深く甘さも塩気も驚くほど繊細に舌の上に広がっていく。
スタッフも支配人も、一口食べて息を呑んだ。
「……あの男は……何者だ?」
氷室は急いで外を探しに出たが――
男の姿はどこにもなかった。
まるで風に溶けるように消えていた。
――数日後。
朝の空気は冷たく公園には薄い陽光が降り注いでいた。
出勤途中の結はふとベンチに横たわる影に気づいた。
近づくと――あの男だった。
肩は震え呼吸は浅い。
結は迷わず彼の腕を取りホテルへ連れ帰った。
仮眠室のベッドに横たわる男を見下ろしながら、氷室が静かに言う。
「……私は彼をこのホテルで採用したい。
あの料理には人の心を揺さぶる何かがある」
反対の声は一つもあがらなかった。
眠る男の指先にはあの日のオムライスの記憶が宿っているように見えた。
彼がどこから来たのか――
なぜあれほどの腕を持ちながら路上に倒れていたのか――
誰も知らない。
2話「小さなホテルとハンバーガーのようなスタッフと」へ続く
重厚な大理石の床に反射する微かな光すらこの場所がどのような場所かを
告げていた。
支配人・木島は、深紺のスーツの襟を指先で直しながらどこか虚ろな表情
で帰っていく料理人志望者の背を見送った。
今日だけで9人目の応募者だ。
経歴に華はある。技術も申し分ない。だが――胸を刺すものが何一つない。
「皆、同じだな……」
氷室が吐いた小さな独白をロビーの空調がさらっていったその時だった。
「し、支配人‼ 大変です!」
若い女性スタッフが駆け込んできた。
額に浮かんだ汗はただ事ではないと物語っている。
「ホテルの前で倒れている男性を見つけました! 呼吸はありますが……
かなり衰弱しています」
その背後から別のスタッフが痩せた男を抱えるようにして入ってくる。
髪も髭も伸び放題。
服は色褪せ、泥が染み込み、匂いも強い。
中身が抜け落ちたかのようにその身体は、驚くほど軽かった。
ソファに寝かされると、男のまぶたが小刻みに震え――ゆっくりと開いた。
焦点の定まらない黒い瞳が天井を彷徨い、乾いた唇がかすかに動く。
「……ハ……ラ……ヘ……」
木島はスタッフと一瞬視線を交わした。
「もう少し寝かせておこうみんなは仕事に戻ってくれあんたも気分が
良くなったら帰ってくれ」
木島の顔は理解できないというより理解したくないという表情だった。
その頃、厨房には昼の賄いの支度をする音が心地よく満ちていた。
佐山結は溶き卵を流し入れるフライパンの音に耳を澄ませながら、
今日の献立「オムライス」の段取りを頭で組み直していた。
賄いだろうと手は抜かない。
食べる相手の顔が見える仕事に妥協はない。
「……よし」
フライパンに卵が広がる瞬間、結はふと背中に視線の刺さるような気配を感じた。
振り返る。
「……えっ?」
厨房の入り口に見たことのないそして明らかにこの場所には不釣り合いな男が立っていた。
警戒して声を上げようとしたがその一瞬の隙に男はフラフラと結の横を通り抜け、棚からフライパンを取った。
「ちょ、ちょっと待ってください!あなた、誰ですか⁉」
悲鳴に近い言葉は届かない。
男は火をつけ、卵を割り、混ぜ、油を敷き……。
その迷いの無い手際に結は言葉を失った。
体が自然の流れとして動いている。
熟練という言葉すら追いつかない圧倒的な自然さ。
卵が鍋肌を滑りフライパンの上で軽やかに返る。
その瞬間だけ男の身体を覆っていた「浮浪者」という殻がふっと消え、
そこにはまるで別人のような研ぎ澄まされた料理人の姿があった。
結が息を呑むのとほぼ同時にスタッフがやって来て怒号が響く。
「おい‼ 何をしてるんだ!ここは厨房だぞ!」
しかし男は気にも留めない。
淡々と皿に盛りつけ湯気の立つオムライスを一つ手に取り、
まるで飢えを埋めるためだけに生きてきた人間のようにむさぼり食う。
そこへ支配人の氷室が駆け込んできた。
「君! 許可もなく厨房に入って調理など……言語道断だ。
すぐに出ていきたまえ!」
次の瞬間、男はスプーンを口にくわえ皿を抱えたまま出口へ向かった。
氷室がさらに制止する。
「皿とスプーンは置いていきなさい!」
男は立ち止まり名残惜しそうに皿を置く。
そして小さくしかしはっきりと呟いた。
「……ごちそうさま」
追い出されるように去っていくその背は先ほどの鋭さが嘘のように再び弱々しく揺れていた。
静寂が訪れる。
だが、置き去りにされた皿からは湯気がたちのぼっている。
結は誘われるようにスプーンを取った。
一口だけ……
――世界が止まった。
「……何これ……私のと、全然違う……」
卵は柔らかい。だがただの“とろとろ”ではないシルクのような滑らかさ。
香りの層が深く甘さも塩気も驚くほど繊細に舌の上に広がっていく。
スタッフも支配人も、一口食べて息を呑んだ。
「……あの男は……何者だ?」
氷室は急いで外を探しに出たが――
男の姿はどこにもなかった。
まるで風に溶けるように消えていた。
――数日後。
朝の空気は冷たく公園には薄い陽光が降り注いでいた。
出勤途中の結はふとベンチに横たわる影に気づいた。
近づくと――あの男だった。
肩は震え呼吸は浅い。
結は迷わず彼の腕を取りホテルへ連れ帰った。
仮眠室のベッドに横たわる男を見下ろしながら、氷室が静かに言う。
「……私は彼をこのホテルで採用したい。
あの料理には人の心を揺さぶる何かがある」
反対の声は一つもあがらなかった。
眠る男の指先にはあの日のオムライスの記憶が宿っているように見えた。
彼がどこから来たのか――
なぜあれほどの腕を持ちながら路上に倒れていたのか――
誰も知らない。
2話「小さなホテルとハンバーガーのようなスタッフと」へ続く
24
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる