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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第20話 捨て犬と看板犬とミルク
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名物犬は厨房の裏口からやってきた
それは、雨の降り始めた夕方だった。
佐山結は、裏口に出した生ゴミ袋を戻そうとして、足元で小さく鳴く声に気づいた。
濡れたアスファルトの上、段ボールの陰から、白と茶の混じった中型犬がこちらを見上げていた。
「……迷子?」
問いかけても、犬は尻尾を一度だけ振るだけだった。
首輪はない。
だが目は妙に澄んでいて、人を値踏みするような落ち着きがある。
結は一瞬迷った。
ホテルでは動物は禁止だ。支配人の木島五郎が「たぶんダメだと思う」と言ったものは、
九割方本当にダメになる。
それでも結は、犬の濡れた背中から目を逸らせなかった。
「……ちょっとだけ、ね」
厨房裏の軒下に、タオルと水を置く。
犬は礼儀正しくそれを受け取り、結が戻る頃にはきちんと座って待っていた。
その様子を、いつの間にか神谷奏が見ていた。
「連れてきたのか?」
「いえ、勝手に来ただけです」
結がそう答えると、神谷は犬を一瞥し、ほんの少し口角を上げた。
「賢そうだな」
その一言で、犬はまるで認められたかのように胸を張った。
問題はすぐに表面化した。
「犬?」
フロントの三条京子が目を見開き、心の声が漏れる。
(かわいい!でも規則!でもかわいい!)
隣の江藤快は犬を見てから結を見て、ため息をついた。
「……女性客にはウケますね、確実に」
田町舞は夜のバーカウンターで、犬にそっと水を差し出した。
支配人の木島五郎は、犬をじっと見つめていた。
「名前は?」
「まだです」
「じゃあ……“なんとなく”決まるまで置いておこう」
「良いんですか?」
「良いよ、結は奏も拾ってきたしな。
結の拾いものはなんか良い気がする」
犬はその日から、ホテルに居ついた。
朝は厨房裏で神谷の仕込みを眺め、昼はフロントで客を出迎え、夜はバーの足元で静かに眠る。
不思議なことに、犬がいると客の表情が和らいだ。
疲れた顔でチェックインした人間が、犬を撫でると少しだけ笑う。
「このホテル、落ち着きますね」
そんな声が増えた。
ある日、結が厨房で犬に余った鶏肉を分けていると、神谷がぽつりと言った。
「炊き出しの犬に似てる」
結の手が止まった。
「……え?」
「昔、被災地で。鍋のそばに、いつもいた」
神谷はそれ以上語らなかった。
だが結は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
もしかしたら。
――本当に、もしかしたら。
犬は、結の足元に座り、静かに彼女を見上げていた。
「名前、決めました」
結が言うと、皆が振り返る。
「“ぬく”です。ぬくもりの、ぬく」
犬は、尻尾を大きく振った。
その日から、ホテルの看板に小さく文字が足された。
《名物犬・ぬく います》
理由は誰にも説明できない。
だが確かに、このホテルには今日も、人を少しだけ前向きにする“温度”が流れている。
そしてぬくは、厨房の裏口で、また新しい誰かを待っている。
翌朝、結は少し早く厨房に入った。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、鍋に少量だけ移す。
弱火。沸かさない。指を入れて「ぬるい」と感じるところで止める。
「……このくらい、かな」
足元では、ぬくが静かに座っていた。
昨日までは出されるものを無条件で食べていたくせに、今日はやけに行儀がいい。
「犬にミルクはよくないって言うけど……少しだけ、ね」
小さな器に注ぐと、ぬくは一度だけ結を見上げ、それから慎重に舐め始めた。
ぴちゃ、という小さな音。
その様子を、神谷が厨房入り口から黙って見ていた。
「……俺も昔、同じようなことしていたな」
「え?」
「震災の炊き出しのとき。子ども用に温めたミルクを、分けてやってた」
結は息を呑んだ。
ぬくは飲み終えると、器をきれいに舐め、結の足元に額を押しつけた。
まるで「ごちそうさま」と言うみたいに。
その日から、朝の仕込み前にだけ、ぬくには“特別なミルク”が出されることになった。
田町舞はそれを見て言った。
「このホテル、バーだけじゃなくてモーニングまで癒し系ね」
三条京子はフロントで心の声を漏らす。
(名物犬にミルク……絶対バズる……)
木島五郎は頷いた。
「うん、なんとなく名物になる気がする」
そして看板に、もう一行が足された。
《朝七時、名物犬・ぬく ミルク飲みます》
理由は分からない。
けれどそのぬくもりは、確かに誰かの心を温めていた。
第21話「快と京子とクレープと」に続く
それは、雨の降り始めた夕方だった。
佐山結は、裏口に出した生ゴミ袋を戻そうとして、足元で小さく鳴く声に気づいた。
濡れたアスファルトの上、段ボールの陰から、白と茶の混じった中型犬がこちらを見上げていた。
「……迷子?」
問いかけても、犬は尻尾を一度だけ振るだけだった。
首輪はない。
だが目は妙に澄んでいて、人を値踏みするような落ち着きがある。
結は一瞬迷った。
ホテルでは動物は禁止だ。支配人の木島五郎が「たぶんダメだと思う」と言ったものは、
九割方本当にダメになる。
それでも結は、犬の濡れた背中から目を逸らせなかった。
「……ちょっとだけ、ね」
厨房裏の軒下に、タオルと水を置く。
犬は礼儀正しくそれを受け取り、結が戻る頃にはきちんと座って待っていた。
その様子を、いつの間にか神谷奏が見ていた。
「連れてきたのか?」
「いえ、勝手に来ただけです」
結がそう答えると、神谷は犬を一瞥し、ほんの少し口角を上げた。
「賢そうだな」
その一言で、犬はまるで認められたかのように胸を張った。
問題はすぐに表面化した。
「犬?」
フロントの三条京子が目を見開き、心の声が漏れる。
(かわいい!でも規則!でもかわいい!)
隣の江藤快は犬を見てから結を見て、ため息をついた。
「……女性客にはウケますね、確実に」
田町舞は夜のバーカウンターで、犬にそっと水を差し出した。
支配人の木島五郎は、犬をじっと見つめていた。
「名前は?」
「まだです」
「じゃあ……“なんとなく”決まるまで置いておこう」
「良いんですか?」
「良いよ、結は奏も拾ってきたしな。
結の拾いものはなんか良い気がする」
犬はその日から、ホテルに居ついた。
朝は厨房裏で神谷の仕込みを眺め、昼はフロントで客を出迎え、夜はバーの足元で静かに眠る。
不思議なことに、犬がいると客の表情が和らいだ。
疲れた顔でチェックインした人間が、犬を撫でると少しだけ笑う。
「このホテル、落ち着きますね」
そんな声が増えた。
ある日、結が厨房で犬に余った鶏肉を分けていると、神谷がぽつりと言った。
「炊き出しの犬に似てる」
結の手が止まった。
「……え?」
「昔、被災地で。鍋のそばに、いつもいた」
神谷はそれ以上語らなかった。
だが結は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
もしかしたら。
――本当に、もしかしたら。
犬は、結の足元に座り、静かに彼女を見上げていた。
「名前、決めました」
結が言うと、皆が振り返る。
「“ぬく”です。ぬくもりの、ぬく」
犬は、尻尾を大きく振った。
その日から、ホテルの看板に小さく文字が足された。
《名物犬・ぬく います》
理由は誰にも説明できない。
だが確かに、このホテルには今日も、人を少しだけ前向きにする“温度”が流れている。
そしてぬくは、厨房の裏口で、また新しい誰かを待っている。
翌朝、結は少し早く厨房に入った。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、鍋に少量だけ移す。
弱火。沸かさない。指を入れて「ぬるい」と感じるところで止める。
「……このくらい、かな」
足元では、ぬくが静かに座っていた。
昨日までは出されるものを無条件で食べていたくせに、今日はやけに行儀がいい。
「犬にミルクはよくないって言うけど……少しだけ、ね」
小さな器に注ぐと、ぬくは一度だけ結を見上げ、それから慎重に舐め始めた。
ぴちゃ、という小さな音。
その様子を、神谷が厨房入り口から黙って見ていた。
「……俺も昔、同じようなことしていたな」
「え?」
「震災の炊き出しのとき。子ども用に温めたミルクを、分けてやってた」
結は息を呑んだ。
ぬくは飲み終えると、器をきれいに舐め、結の足元に額を押しつけた。
まるで「ごちそうさま」と言うみたいに。
その日から、朝の仕込み前にだけ、ぬくには“特別なミルク”が出されることになった。
田町舞はそれを見て言った。
「このホテル、バーだけじゃなくてモーニングまで癒し系ね」
三条京子はフロントで心の声を漏らす。
(名物犬にミルク……絶対バズる……)
木島五郎は頷いた。
「うん、なんとなく名物になる気がする」
そして看板に、もう一行が足された。
《朝七時、名物犬・ぬく ミルク飲みます》
理由は分からない。
けれどそのぬくもりは、確かに誰かの心を温めていた。
第21話「快と京子とクレープと」に続く
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