ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第31話 思い出と追いつくと馬車に乗ったモッツァレラと

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その夜、ホテルリトルフォレストは静かだった。
 師走の手前、観光客も少なく、廊下に響くのは古い時計の針の音と、暖房の低い唸り声だけ。

 フロントで帳簿を整理していた三条京子は、玄関ベルの音に顔を上げた。

「いらっしゃいませ」
 入ってきたのは、年の頃なら五十代半ば。
 背筋は伸びているが、肩の力がどこか抜けた男だった。

「一泊、できるかな」

「はい。お部屋、ご用意できます」
(落ち着いてるけど、疲れてる顔)

 京子の“癖”が、また反応しかける。

「お食事はいかがなさいますか?」

 男は少し考え、ぽつりと言った。

「……できれば、
 馬車に乗ったモッツァレラを」

 京子は瞬きを忘れた。

「……はい?」

「あるだろう?ナポリの料理だ」

(え、何そのファンタジー)
(チーズが移動手段に?)

 心の声が漏れそうになり、京子は咳払いをする。

「確認してまいりますね」

 バックヤードへ向かう途中、江藤快が声をかけてきた。

「京子さん、今の人――」

「言わなくていい。
 多分だけど“思い出を食べに来た”でしょ」

「……さすがです」

 厨房では、結が明日の仕込みを確認していた。
 そこへ、京子が顔を出す。

「結ちゃん、奏さんいる?」

「今、下処理してます」

 神谷奏は、魚の下処理をしながらも話を聞いていた。

「お客さんがね、
 “馬車に乗ったモッツァレラ”を」

 奏の手が止まる。

「ああ」

「あるんですか!?」

「ある」

 それだけ言って、奏は冷蔵庫へ向かった。

 結は少しだけ、安心したように息を吐く。

(この人が“ある”って言うなら、あるんだよね)

 モッツァレラは、水の中で眠っていた。
 奏はそれを引き上げ、キッチンペーパーで包む。

 指先が、余分な水分を確かめるように、そっと押す。

「水気が多いと、味がぼやける」

 結は横で頷く。

「揚げ物なのに、
 繊細ですね」

「揚げ物だからだ」

 モッツァレラを切る。
 刃が入ると、柔らかな感触とともに、乳の香りが立ち上る。

 奏は食パンの耳を落とし、
 白い部分だけを使う。

「パンが、馬車」

「……なるほど」

 パンの内側に軽く小麦粉を振り、
 卵液を薄く塗る。

 その中央に、モッツァレラ。

 もう一枚のパンで挟み、
 指先で周囲をしっかり押さえる。

「ここ、甘いと失敗する」

 衣は卵液と細かいパン粉。
 奏の動きは迷いがなく、一定のリズムを刻む。

 油の温度は、箸先で判断。
 細かな泡が、控えめに立つ。

「……今だ」

 油に沈めると、
 低く、落ち着いた音が広がった。

 鍋を揺らし、
 直接触れずに転がす。

 色がついたところで、引き上げる。

 休ませすぎない。
 切った瞬間が、完成形だから。

 結は、思わず息を呑んだ。

(料理って……
 こんなに静かなものだったっけ)

 皿が運ばれる。

 男は、しばらく手をつけなかった。

 ナイフを入れると、
 衣が軽く音を立て、
 白いチーズが、とろりと溢れ出す。

 男は目を細めた。

「……変わらないな」

 一口。

 男の肩が、ゆっくりと落ちる。

「若い頃、
 これを屋台で食べた」

 誰に向けたともなく、語り始める。

「金もなくて、未来もなくて」

「でも、
 一口食べるたびに、
 “まあいいか”って思えた」

 皿は、あっという間に空になる。

「料理ってのは、不思議だな」

 男は、ぽつりと言った。

「思い出を、
 ちゃんと今に連れてくる」

 厨房に戻った奏は、何も言わず鍋を洗う。

「……いい顔してましたね」

 結が言う。

「ああ」

 足元では、ぬくが尻尾を振っている。

「ぬく、これはだめだ」

 奏は即座に言う。

 ぬくは分かっているのかいないのか、
 それでも満足そうだった。

 ホテルリトルフォレストの夜は、
 静かに更けていく。

 馬車に乗ったモッツァレラは、
 今日もまた、
 誰かを過去から現在へ運んだ。

 それだけで、
 十分だった。

第32話「料理教室と飴と鞭とクロックドマダムと」につづく
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