39 / 152
第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第37話 震災と炊き出しと豚汁と
しおりを挟む
その朝、ホテル・リトルフォレストの予約表は、真っ白になった。
キャンセル、キャンセル、キャンセル。
赤い線で引かれた名前が、ページを埋め尽くしている。
「……隣町で、震度六強」
支配人・木島五郎が、静かに言った。
「道路も止まってる。宿泊どころじゃないな」
誰も反論しなかった。
厨房も、フロントも、全員が同じ方向を向いていた。
「……行くか」
奏が短く言う。
「炊き出しだ」
その一言で、決まった。
準備は早かった。
大鍋。
ガスバーナー。
寸胴に詰められるだけの食材。
「豚汁にしましょう」
結が言った。
「温かくて、具が多くて……」
「寒い日だからこそ心も落ち着く料理を出したい」
奏は一拍考え、うなずいた。
「異論ない」
京子はエプロンを締めながら言う。
「こういうとき、下手に凝ったもの作ると逆効果なのよね」
「“分かる味”が一番です」
快も同意する。
舞は無言でトラックに資材を積み込み、
静江はいつの間にか、人数分の使い捨てお椀を揃えていた。
ぬくも、気配を察したのか、落ち着かない様子で尻尾を振っている。
「お前も行くか」
奏が言うと、ぬくは一度だけ吠えた。
被災地の空気は、重かった。
瓦礫の匂い。
冷えた風。
そして、言葉を失った人々の沈黙。
鍋に火が入る。
豚肉を炒め、
大根、人参、こんにゃく、里芋。
ごぼうは太めにささがき。
「ごぼうは、香りだ」
奏が言う。
だしが張られ、
味噌を溶く前の、透明なスープが揺れる。
結は、野菜を切りながら、ふと手を止めた。
この光景。
湯気。
人の列。
(……あの日と、似てる)
震災で避難した、あの時。
名も知らぬ誰かが、
黙って器によそってくれた、
温かい汁物。
具が何だったかは覚えていない。
ただ、生きていいと言われた気がした。
「……結」
奏の声で、現実に戻る。
「味噌、入れていいか?」
「……はい」
結は、深く息を吸い、
味噌を溶いた。
配り始めると、人が集まってきた。
「……あったかい」
「ありがとう……」
器を受け取った人の肩が、少しずつ下がっていく。
ぬくは子どもたちに囲まれ、
撫でられながら大人しくしていた。
「犬がいるだけで、空気が違うね」
京子が言う。
「心の緊張が緩む」
奏は黙って鍋を見ていた。
その横顔を、結はちらりと盗み見る。
(……この人も、知ってるんだ)
炊き出しの空気を。
必要な距離を。
余計な言葉の危うさを。
だからこそ、
無駄に語らない。
配膳の合間、
結はぽつりと言った。
「……私、昔」
「こういう炊き出しに、助けられたんです」
奏は、すぐには返事をしなかった。
「名前も知らない人でした」
「顔も、よく覚えてなくて」
「でも……味だけは、忘れなくて」
鍋の中で、具が揺れる。
「……そうか」
奏の声は、低い。
「……奏さんは?」
結は、勇気を出して聞いた。
「こういう場所……」
「慣れてますよね」
一瞬、
奏の手が止まった。
「……さあな」
曖昧な返事。
「世界を回ってた頃、似た場面はいくつも見た」
「だが……」
「詳しい話は、しない」
結は、それ以上踏み込まなかった。
踏み込まないことが、
この人への敬意だと、もう分かっている。
だが一つだけ、
確信したことがあった。
(……もしかして)
あの日の炊き出しの人。
この人だった可能性。
けれど奏は、
その真相に至る道を、
そっと霧で包んだ。
結も、それを追わなかった。
夕方。
最後の一杯が配られる。
鍋は、空になった。
「……また来てください」
誰かが言う。
「次は、泊まりで来ます」
支配人が、深く頭を下げた。
「必ず来ます。」
帰り道、
トラックの荷台で、
スタッフ全員が疲れ切って座っていた。
「……今日、忙しかったけど
あまり被害が甚大じゃ無くて良かったですね」
京子が言う。
「ホテルやっててよかったって、思った
このホテルのスタッフで良かった」
「同感です」
快が静かに答える。
ぬくは、奏の足元で丸くなっている。
結は、夜空を見上げた。
「……料理って」
「人を助けられるんですね」
「最初からそういうものだ」
奏は言った。
「腹を満たすだけなら、別の手段がある」
「だが、料理は……」
「戻ってくる場所を、思い出させる」
結は、そっと笑った。
過去が交わるかもしれない線は、
まだ霧の中。
だが、
同じ鍋を見つめ、
同じ湯気を浴びたことだけは、確かだった。
ソラスフォレストの灯りは、
今夜も小さく、
だが消えずに、そこにあった。
第38話「高橋千夏と最終日と感謝のパスタと」につづく
キャンセル、キャンセル、キャンセル。
赤い線で引かれた名前が、ページを埋め尽くしている。
「……隣町で、震度六強」
支配人・木島五郎が、静かに言った。
「道路も止まってる。宿泊どころじゃないな」
誰も反論しなかった。
厨房も、フロントも、全員が同じ方向を向いていた。
「……行くか」
奏が短く言う。
「炊き出しだ」
その一言で、決まった。
準備は早かった。
大鍋。
ガスバーナー。
寸胴に詰められるだけの食材。
「豚汁にしましょう」
結が言った。
「温かくて、具が多くて……」
「寒い日だからこそ心も落ち着く料理を出したい」
奏は一拍考え、うなずいた。
「異論ない」
京子はエプロンを締めながら言う。
「こういうとき、下手に凝ったもの作ると逆効果なのよね」
「“分かる味”が一番です」
快も同意する。
舞は無言でトラックに資材を積み込み、
静江はいつの間にか、人数分の使い捨てお椀を揃えていた。
ぬくも、気配を察したのか、落ち着かない様子で尻尾を振っている。
「お前も行くか」
奏が言うと、ぬくは一度だけ吠えた。
被災地の空気は、重かった。
瓦礫の匂い。
冷えた風。
そして、言葉を失った人々の沈黙。
鍋に火が入る。
豚肉を炒め、
大根、人参、こんにゃく、里芋。
ごぼうは太めにささがき。
「ごぼうは、香りだ」
奏が言う。
だしが張られ、
味噌を溶く前の、透明なスープが揺れる。
結は、野菜を切りながら、ふと手を止めた。
この光景。
湯気。
人の列。
(……あの日と、似てる)
震災で避難した、あの時。
名も知らぬ誰かが、
黙って器によそってくれた、
温かい汁物。
具が何だったかは覚えていない。
ただ、生きていいと言われた気がした。
「……結」
奏の声で、現実に戻る。
「味噌、入れていいか?」
「……はい」
結は、深く息を吸い、
味噌を溶いた。
配り始めると、人が集まってきた。
「……あったかい」
「ありがとう……」
器を受け取った人の肩が、少しずつ下がっていく。
ぬくは子どもたちに囲まれ、
撫でられながら大人しくしていた。
「犬がいるだけで、空気が違うね」
京子が言う。
「心の緊張が緩む」
奏は黙って鍋を見ていた。
その横顔を、結はちらりと盗み見る。
(……この人も、知ってるんだ)
炊き出しの空気を。
必要な距離を。
余計な言葉の危うさを。
だからこそ、
無駄に語らない。
配膳の合間、
結はぽつりと言った。
「……私、昔」
「こういう炊き出しに、助けられたんです」
奏は、すぐには返事をしなかった。
「名前も知らない人でした」
「顔も、よく覚えてなくて」
「でも……味だけは、忘れなくて」
鍋の中で、具が揺れる。
「……そうか」
奏の声は、低い。
「……奏さんは?」
結は、勇気を出して聞いた。
「こういう場所……」
「慣れてますよね」
一瞬、
奏の手が止まった。
「……さあな」
曖昧な返事。
「世界を回ってた頃、似た場面はいくつも見た」
「だが……」
「詳しい話は、しない」
結は、それ以上踏み込まなかった。
踏み込まないことが、
この人への敬意だと、もう分かっている。
だが一つだけ、
確信したことがあった。
(……もしかして)
あの日の炊き出しの人。
この人だった可能性。
けれど奏は、
その真相に至る道を、
そっと霧で包んだ。
結も、それを追わなかった。
夕方。
最後の一杯が配られる。
鍋は、空になった。
「……また来てください」
誰かが言う。
「次は、泊まりで来ます」
支配人が、深く頭を下げた。
「必ず来ます。」
帰り道、
トラックの荷台で、
スタッフ全員が疲れ切って座っていた。
「……今日、忙しかったけど
あまり被害が甚大じゃ無くて良かったですね」
京子が言う。
「ホテルやっててよかったって、思った
このホテルのスタッフで良かった」
「同感です」
快が静かに答える。
ぬくは、奏の足元で丸くなっている。
結は、夜空を見上げた。
「……料理って」
「人を助けられるんですね」
「最初からそういうものだ」
奏は言った。
「腹を満たすだけなら、別の手段がある」
「だが、料理は……」
「戻ってくる場所を、思い出させる」
結は、そっと笑った。
過去が交わるかもしれない線は、
まだ霧の中。
だが、
同じ鍋を見つめ、
同じ湯気を浴びたことだけは、確かだった。
ソラスフォレストの灯りは、
今夜も小さく、
だが消えずに、そこにあった。
第38話「高橋千夏と最終日と感謝のパスタと」につづく
20
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる