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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第38話 高橋千夏と最終日と感謝の炊き込みご飯と味噌汁と
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朝のロビーに差し込む光は、いつもより少しやわらかかった。
ホテル ソラス・フォレスト の自動ドアが開くたび、木の床に淡い影が揺れる。
「おはようございます! 本日、最終日になります!
高橋千夏です!」
元気な声は変わらない。
けれど、その背中には、ほんの少しだけ――ためらいが滲んでいた。
「もう“最終日”なのね」
三条京子がフロントから顔を出す。
「ついこの前、脅迫状拾って大騒ぎしたと思ったのに」
「それ、私の黒歴史として残すやつですか!?」
「残すわよ。ソラス・フォレストの伝説として」
「伝説にしないでください!」
京子の笑顔に、千夏は少しだけ胸が軽くなる。
江藤快がチェックイン表を閉じて言った。
「千夏さん」
「今日の心拍数、安定してますね」
「……それ、褒め言葉ですか?」
「はい」
「“寂しいけど、ちゃんと前向き”の数値ですね」
「数値で言われると安心するの、なんででしょう」
二人のやり取りを、支配人・木島五郎が満足そうに眺めていた。
「うんうん、いい最終日だ」
「で、千夏ちゃん。今日、何かやりたいことある?」
千夏は一瞬、視線を伏せ――決めていた言葉を口にした。
「……料理、作らせてください」
ロビーが、静かになる。
「皆さんに」
「今までありがとうございました、の料理を」
厨房の奥から、包丁の音が止んだ。
「炊き込みご飯と、味噌汁です」
厨房で、千夏ははっきりと言った。
「派手じゃないですけど」
「ここで教わったこと、全部使います」
佐山結が、そっと頷く。
「いいね」
「“経験の味”だね」
神谷奏は、腕を組み、少しだけ考えたあと言った。
「…分かった…任せる」
「えっ」
「今日は、お前が主役だ」
千夏の胸が、きゅっと鳴った。
「ただし」
「味見は、させろ」
「はい!」
即答だった。
米を研ぐ。
水は、最初だけたっぷり。
あとは、手早く。
(……結さんに、教わったやり方)
具材は、鶏もも、人参、油揚げ、舞茸。
ごぼうは、細めのささがき。
「香りを出すためです!!」
千夏が言うと、奏は短く頷いた。
「分かってるな」
だしを合わせ、醤油とみりんは控えめ。
炊飯器のスイッチを押す前、千夏は一瞬だけ目を閉じた。
味噌汁は、別鍋で。
昆布と鰹。
沸かしすぎない。
「味噌は、最後」
奏の声が、低く響く。
具は、豆腐とわかめ。
それから――ほんの少しだけ、玉ねぎ。
「甘み、出ますから」
千夏の説明に、結が微笑む。
「もう、立派な料理人の顔だね」
「い、いえ! まだまだです!」
田町舞が、工具箱を置いて顔を出す。
「お、いい匂い」
「最終日かぁ……」
舞は、何も言わず、炊飯器の前に小さなメモを置いた。
《火加減よし。
今日の主役、がんばれ》
「……舞さん」
「ん?」
「私は、こういう応援の仕方しかしないから」
千夏は、深く頭を下げた。
炊き上がり。
炊飯器の蓋を開けた瞬間、
湯気が、厨房いっぱいに広がった。
「……いい」
奏が、短く言う。
しゃもじで底から返す。
具が潰れないよう、切るように。
「味見、お願いします!」
千夏は、少し震える手で、小椀を差し出した。
奏が一口。
結が、息を止める。
京子と快が、身を乗り出す。
「……」
一拍。
「合格だ」
その一言で、千夏の目が潤んだ。
「ほんとですか!?」
「嘘つかない」
「……ありがとうございます!」
スタッフ全員で、食卓を囲む。
炊き込みご飯。
味噌汁。
派手な料理は、何もない。
だが――
「……あぁ」
京子が、ぽつりと言った。
「沁みる」
「“感謝”だね」
快が真面目な顔で言う。
ぬくは、千夏の足元で丸くなり、
時折、鼻を鳴らした。
「ごめんね、ぬく」
「これは、人用なんだ」
千夏が言うと、
ぬくは分かっているように尻尾だけ振った。
支配人が、湯のみを置く。
「千夏ちゃん」
「ソラス・フォレストで働いてくれて、ありがとう」
「こちらこそです」
「ここで……」
「料理が“誰かのため”なんだって、分かりました」
静江が、いつの間にか背後に立っていた。
「……最終日はね」
「静かに終わるくらいで、ちょうどいい」
「静江さん、いつから……」
「最初から」
「最初から!?」
笑いが、起きる。
片付けの時間。
千夏は、最後に厨房を見渡した。
「……また、来てもいいですか」
結が即答する。
「もちろん」
京子も続く。
「お客としてでも」
「スタッフとしてでも」
快が微笑む。
「成長した顔で、会いましょう」
奏は、少し間を置いて言った。
「……続けろ」
「え?」
「料理」
「迷ったら、今日の味を思い出せ」
千夏は、深く頷いた。
「はい!」
夕方。
玄関で、最後の挨拶。
「本当に、ありがとうございました!」
千夏が頭を下げる。
ソラス・フォレストの灯りが、背後でともる。
歩き出して、
千夏は一度だけ振り返った。
ガラス越しに、
ぬくがこちらを見ている。
厨房の奥では、
奏が、いつもの位置に立っていた。
(……余熱は、もらいました)
炊き込みご飯と味噌汁。
それは、別れの料理であり、
始まりの料理でもあった。
ソラス・フォレストは、今日も変わらずそこにある。
人が来て、
人が去って、
味が、次へ渡されていく場所として。
第39話「覚悟と指摘と白身魚のポワレ冬野菜の軽いブールブラン」につづく
ホテル ソラス・フォレスト の自動ドアが開くたび、木の床に淡い影が揺れる。
「おはようございます! 本日、最終日になります!
高橋千夏です!」
元気な声は変わらない。
けれど、その背中には、ほんの少しだけ――ためらいが滲んでいた。
「もう“最終日”なのね」
三条京子がフロントから顔を出す。
「ついこの前、脅迫状拾って大騒ぎしたと思ったのに」
「それ、私の黒歴史として残すやつですか!?」
「残すわよ。ソラス・フォレストの伝説として」
「伝説にしないでください!」
京子の笑顔に、千夏は少しだけ胸が軽くなる。
江藤快がチェックイン表を閉じて言った。
「千夏さん」
「今日の心拍数、安定してますね」
「……それ、褒め言葉ですか?」
「はい」
「“寂しいけど、ちゃんと前向き”の数値ですね」
「数値で言われると安心するの、なんででしょう」
二人のやり取りを、支配人・木島五郎が満足そうに眺めていた。
「うんうん、いい最終日だ」
「で、千夏ちゃん。今日、何かやりたいことある?」
千夏は一瞬、視線を伏せ――決めていた言葉を口にした。
「……料理、作らせてください」
ロビーが、静かになる。
「皆さんに」
「今までありがとうございました、の料理を」
厨房の奥から、包丁の音が止んだ。
「炊き込みご飯と、味噌汁です」
厨房で、千夏ははっきりと言った。
「派手じゃないですけど」
「ここで教わったこと、全部使います」
佐山結が、そっと頷く。
「いいね」
「“経験の味”だね」
神谷奏は、腕を組み、少しだけ考えたあと言った。
「…分かった…任せる」
「えっ」
「今日は、お前が主役だ」
千夏の胸が、きゅっと鳴った。
「ただし」
「味見は、させろ」
「はい!」
即答だった。
米を研ぐ。
水は、最初だけたっぷり。
あとは、手早く。
(……結さんに、教わったやり方)
具材は、鶏もも、人参、油揚げ、舞茸。
ごぼうは、細めのささがき。
「香りを出すためです!!」
千夏が言うと、奏は短く頷いた。
「分かってるな」
だしを合わせ、醤油とみりんは控えめ。
炊飯器のスイッチを押す前、千夏は一瞬だけ目を閉じた。
味噌汁は、別鍋で。
昆布と鰹。
沸かしすぎない。
「味噌は、最後」
奏の声が、低く響く。
具は、豆腐とわかめ。
それから――ほんの少しだけ、玉ねぎ。
「甘み、出ますから」
千夏の説明に、結が微笑む。
「もう、立派な料理人の顔だね」
「い、いえ! まだまだです!」
田町舞が、工具箱を置いて顔を出す。
「お、いい匂い」
「最終日かぁ……」
舞は、何も言わず、炊飯器の前に小さなメモを置いた。
《火加減よし。
今日の主役、がんばれ》
「……舞さん」
「ん?」
「私は、こういう応援の仕方しかしないから」
千夏は、深く頭を下げた。
炊き上がり。
炊飯器の蓋を開けた瞬間、
湯気が、厨房いっぱいに広がった。
「……いい」
奏が、短く言う。
しゃもじで底から返す。
具が潰れないよう、切るように。
「味見、お願いします!」
千夏は、少し震える手で、小椀を差し出した。
奏が一口。
結が、息を止める。
京子と快が、身を乗り出す。
「……」
一拍。
「合格だ」
その一言で、千夏の目が潤んだ。
「ほんとですか!?」
「嘘つかない」
「……ありがとうございます!」
スタッフ全員で、食卓を囲む。
炊き込みご飯。
味噌汁。
派手な料理は、何もない。
だが――
「……あぁ」
京子が、ぽつりと言った。
「沁みる」
「“感謝”だね」
快が真面目な顔で言う。
ぬくは、千夏の足元で丸くなり、
時折、鼻を鳴らした。
「ごめんね、ぬく」
「これは、人用なんだ」
千夏が言うと、
ぬくは分かっているように尻尾だけ振った。
支配人が、湯のみを置く。
「千夏ちゃん」
「ソラス・フォレストで働いてくれて、ありがとう」
「こちらこそです」
「ここで……」
「料理が“誰かのため”なんだって、分かりました」
静江が、いつの間にか背後に立っていた。
「……最終日はね」
「静かに終わるくらいで、ちょうどいい」
「静江さん、いつから……」
「最初から」
「最初から!?」
笑いが、起きる。
片付けの時間。
千夏は、最後に厨房を見渡した。
「……また、来てもいいですか」
結が即答する。
「もちろん」
京子も続く。
「お客としてでも」
「スタッフとしてでも」
快が微笑む。
「成長した顔で、会いましょう」
奏は、少し間を置いて言った。
「……続けろ」
「え?」
「料理」
「迷ったら、今日の味を思い出せ」
千夏は、深く頷いた。
「はい!」
夕方。
玄関で、最後の挨拶。
「本当に、ありがとうございました!」
千夏が頭を下げる。
ソラス・フォレストの灯りが、背後でともる。
歩き出して、
千夏は一度だけ振り返った。
ガラス越しに、
ぬくがこちらを見ている。
厨房の奥では、
奏が、いつもの位置に立っていた。
(……余熱は、もらいました)
炊き込みご飯と味噌汁。
それは、別れの料理であり、
始まりの料理でもあった。
ソラス・フォレストは、今日も変わらずそこにある。
人が来て、
人が去って、
味が、次へ渡されていく場所として。
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