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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第39話「覚悟と指摘と白身魚のポワレ冬野菜の軽いブールブラン」
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朝の厨房は静かだった。
鍋が温まり、包丁がまな板に触れる音が一定のリズムを刻む。
神谷奏はいつもと変わらぬ手つきで仕込みを進めていた。
佐山結は、少し離れた位置でそれを見ている。
(……言わなきゃ)
胸の奥で、何度も同じ言葉がぐるぐると回っている。
――“注文をつける”。
料理人にとって、それがどれほど重い言葉か。
結自身、分かっている。
相手は神谷奏だ。
どんな時も料理で応えてきた人。
誰よりも厳しく、誰よりも優しい料理人。
(でも……)
今日のランチは、常連向けの限定メニュー。
奏が出す予定なのは、白身魚のポワレ 春野菜と軽いブールブラン。
味見をした結は、思った。
(美味しい。でも……)
悪いわけじゃない。
むしろ完成度は高い。
ただ――
“ソラス・フォレストらしさ”から、ほんの少しだけ外れている気がした。
それを口に出す勇気が、結にはまだなかった。
昼前、厨房に支配人・木島五郎が顔を出す。
「今日のランチ、楽しみだなぁ」
「常連さん多いし」
「問題ない」
奏は即答する。
その一言が、結の胸を少しだけ締めつけた。
(……問題、ない。)
(だからこそ、言いにくい)
京子がひょいっと顔を出す。
「ねえ結ちゃん」
「なんか顔、固くない?」
「そ、そんなことないです」
「嘘」
「言いたいことある顔してるよ」
江藤快も頷く。
「ありますね」
「これは“言うか言わないか迷ってる顔”」
「……っ」
結は視線を落とした。
「奏さんの料理に、意見するの?」
京子が小声で聞く。
「……はい」
「勇者!!」
「無謀!!」
二人の評価は散々だった。
支配人だけが、少し楽しそうに言う。
「いいじゃないか、言ってみなよ」
「支配人……」
「料理人同士なら言葉でぶつからないと、進まない時もある」
その言葉が、背中を押した。
ランチ営業前、最後の確認。
奏がポワレを盛り付ける。
完璧な火入れ、ソースの照り、野菜の配置。
結は深呼吸した。
「あの……奏さん」
「?」
「……1つ、いいですか」
厨房の空気が、わずかに変わる。
「なんだ」
逃げ道はない。
「この料理」
「すごく美味しいです」
「……」
「でも……」
結は言葉を探しながら続けた。
「ソースが、少しだけ……」
「“優しすぎる”気がします」
沈黙。
鍋の中で、ソースが小さく揺れる。
結は覚悟を決めた。
「ソラス・フォレストって“心に対して温度がある料理”だと思うんです」
「……」
「この料理は綺麗で、正しくて」
「でも……ちょっとだけ、“余韻が静かすぎる”」
言ってしまった。
心臓が、うるさいほど鳴る。
奏は、しばらく黙っていた。
怒ったのか、考えているのか、分からない。
やがて、低い声が返ってくる。
「……具体的には?」
結は、驚いた。
(否定されない……)
「えっ!!例えば……」
「仕上げに、ほんの少しだけ」
「焦がしバターを足すとか」
「……」
「香りが立った瞬間に」
「“あ、来た”って思えるような」
奏は、もう一度皿を見た。
結の言葉を、切り捨てない目だった。
「……やってみるか」
奏は鍋に戻り、バターを落とす。
火を強め、色づく瞬間を見逃さず、香りを立たせる。
皿にかけ直す。
もう一度、味見。
結は、息を呑んだ。
「……」
奏も、静かに頷いた。
「……確かに」
「余韻が、変わるな」
その一言で、結の胸がいっぱいになる。
ランチ営業が始まった。
常連客の反応は、いつもより少し違った。
「今日の魚、なんか……記憶に残るね」
「家に帰ってからも香り思い出しそう」
京子がフロントで小さくガッツポーズをしている。
「結ちゃん、やったわよこれ」
「声、漏れてます」
営業が落ち着いた頃、厨房で二人きりになる。
奏が言った。
「……さっきの言いにくかっただろ」
「……はい」
「でも」
「言ってくれて、よかった」
結は、少し驚いた。
「怒って……ないんですか?」
「怒る理由がないだろ」
「料理の話だ」
間を置いて、奏は続けた。
「それに」
「俺の料理に、結は料理人としてちゃんと向き合ってくれてる」
その言葉が、胸に沁みた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは俺だ」
奏は、ふっと目を伏せる。
「俺一人だと“正解”に寄りすぎる時がある」
「……」
「結が言ったのは」“正解”じゃなくて、“らしさ”だ」
結の喉が、きゅっと鳴った。
(そんなふうに、受け取ってくれるなんて……)
夜。
スタッフルームで、京子が興奮気味に語る。
「いやー今日の厨房、緊張感やばかったわよ!」
「完全に告白シーンだと思いました」
「違います!!」
快と京子の声を聞き流しながら、結は窓の外を見る。
奏が、隣に立った。
「……今日は」
「いい注文だった」
「はい」
「次も」
「思ったことがあれば言え」
結は、少し笑った。
「……怖いですけど」
「怖いくらいでいい」
「俺はもうあがるぞ」
「私はもう少しいます」
「分かった、締め確認頼むぞ」
奏はそう言って厨房をあとにした
その背中は、いつもより少しだけ近く感じた。
料理は、一人で完成させるものじゃない。
結は初めて、そう実感していた。
言葉を交わした分だけ、料理は深くなる。
ソラス・フォレストの夜は、静かで、あたたかかった。
第40話「弟子と師匠とカルボナーラと」につづく
鍋が温まり、包丁がまな板に触れる音が一定のリズムを刻む。
神谷奏はいつもと変わらぬ手つきで仕込みを進めていた。
佐山結は、少し離れた位置でそれを見ている。
(……言わなきゃ)
胸の奥で、何度も同じ言葉がぐるぐると回っている。
――“注文をつける”。
料理人にとって、それがどれほど重い言葉か。
結自身、分かっている。
相手は神谷奏だ。
どんな時も料理で応えてきた人。
誰よりも厳しく、誰よりも優しい料理人。
(でも……)
今日のランチは、常連向けの限定メニュー。
奏が出す予定なのは、白身魚のポワレ 春野菜と軽いブールブラン。
味見をした結は、思った。
(美味しい。でも……)
悪いわけじゃない。
むしろ完成度は高い。
ただ――
“ソラス・フォレストらしさ”から、ほんの少しだけ外れている気がした。
それを口に出す勇気が、結にはまだなかった。
昼前、厨房に支配人・木島五郎が顔を出す。
「今日のランチ、楽しみだなぁ」
「常連さん多いし」
「問題ない」
奏は即答する。
その一言が、結の胸を少しだけ締めつけた。
(……問題、ない。)
(だからこそ、言いにくい)
京子がひょいっと顔を出す。
「ねえ結ちゃん」
「なんか顔、固くない?」
「そ、そんなことないです」
「嘘」
「言いたいことある顔してるよ」
江藤快も頷く。
「ありますね」
「これは“言うか言わないか迷ってる顔”」
「……っ」
結は視線を落とした。
「奏さんの料理に、意見するの?」
京子が小声で聞く。
「……はい」
「勇者!!」
「無謀!!」
二人の評価は散々だった。
支配人だけが、少し楽しそうに言う。
「いいじゃないか、言ってみなよ」
「支配人……」
「料理人同士なら言葉でぶつからないと、進まない時もある」
その言葉が、背中を押した。
ランチ営業前、最後の確認。
奏がポワレを盛り付ける。
完璧な火入れ、ソースの照り、野菜の配置。
結は深呼吸した。
「あの……奏さん」
「?」
「……1つ、いいですか」
厨房の空気が、わずかに変わる。
「なんだ」
逃げ道はない。
「この料理」
「すごく美味しいです」
「……」
「でも……」
結は言葉を探しながら続けた。
「ソースが、少しだけ……」
「“優しすぎる”気がします」
沈黙。
鍋の中で、ソースが小さく揺れる。
結は覚悟を決めた。
「ソラス・フォレストって“心に対して温度がある料理”だと思うんです」
「……」
「この料理は綺麗で、正しくて」
「でも……ちょっとだけ、“余韻が静かすぎる”」
言ってしまった。
心臓が、うるさいほど鳴る。
奏は、しばらく黙っていた。
怒ったのか、考えているのか、分からない。
やがて、低い声が返ってくる。
「……具体的には?」
結は、驚いた。
(否定されない……)
「えっ!!例えば……」
「仕上げに、ほんの少しだけ」
「焦がしバターを足すとか」
「……」
「香りが立った瞬間に」
「“あ、来た”って思えるような」
奏は、もう一度皿を見た。
結の言葉を、切り捨てない目だった。
「……やってみるか」
奏は鍋に戻り、バターを落とす。
火を強め、色づく瞬間を見逃さず、香りを立たせる。
皿にかけ直す。
もう一度、味見。
結は、息を呑んだ。
「……」
奏も、静かに頷いた。
「……確かに」
「余韻が、変わるな」
その一言で、結の胸がいっぱいになる。
ランチ営業が始まった。
常連客の反応は、いつもより少し違った。
「今日の魚、なんか……記憶に残るね」
「家に帰ってからも香り思い出しそう」
京子がフロントで小さくガッツポーズをしている。
「結ちゃん、やったわよこれ」
「声、漏れてます」
営業が落ち着いた頃、厨房で二人きりになる。
奏が言った。
「……さっきの言いにくかっただろ」
「……はい」
「でも」
「言ってくれて、よかった」
結は、少し驚いた。
「怒って……ないんですか?」
「怒る理由がないだろ」
「料理の話だ」
間を置いて、奏は続けた。
「それに」
「俺の料理に、結は料理人としてちゃんと向き合ってくれてる」
その言葉が、胸に沁みた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは俺だ」
奏は、ふっと目を伏せる。
「俺一人だと“正解”に寄りすぎる時がある」
「……」
「結が言ったのは」“正解”じゃなくて、“らしさ”だ」
結の喉が、きゅっと鳴った。
(そんなふうに、受け取ってくれるなんて……)
夜。
スタッフルームで、京子が興奮気味に語る。
「いやー今日の厨房、緊張感やばかったわよ!」
「完全に告白シーンだと思いました」
「違います!!」
快と京子の声を聞き流しながら、結は窓の外を見る。
奏が、隣に立った。
「……今日は」
「いい注文だった」
「はい」
「次も」
「思ったことがあれば言え」
結は、少し笑った。
「……怖いですけど」
「怖いくらいでいい」
「俺はもうあがるぞ」
「私はもう少しいます」
「分かった、締め確認頼むぞ」
奏はそう言って厨房をあとにした
その背中は、いつもより少しだけ近く感じた。
料理は、一人で完成させるものじゃない。
結は初めて、そう実感していた。
言葉を交わした分だけ、料理は深くなる。
ソラス・フォレストの夜は、静かで、あたたかかった。
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