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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第40話 弟子と師匠とカルボナーラと
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その日、ソラス・フォレストの厨房は、いつもより少しだけざわついていた。
昼前、支配人・木島五郎が珍しく慌ただしい足取りで厨房に入ってくる。
「神谷」
「急な来客だ」
「客?」
「いや……料理人だ」
奏が顔を上げた瞬間、厨房の扉が開いた。
ヒールの音。
迷いのない足取り。
「……久しぶりですね、師匠」
現れたのは、二十五歳ほどの女性だった。
背筋はまっすぐ、髪はきっちりまとめられ、白衣の下からでも鍛えられた所作が分かる。
奏は一瞬だけ目を細める。
「……七瀬、か」
「覚えててくれて光栄です」
七瀬――
かつて奏が海外で店を任されていた頃の弟子。
最年少でパスタ場を任された、腕のある料理人。
結は、その空気を察していた。
(……この人)
七瀬の視線が、結に向く。
「こちらは?」
「今のパティシエ兼、料理人だ」
「へえ……」
七瀬は結を上から下まで見て、口角を上げた。
「随分、柔らかそうですね」
「……?」
「師匠、趣味変わりました?」
「昔は、もっと“尖った人”だったのに」
奏は答えない。
だが、結の胸に、ちくりと刺さるものがあった。
ランチ後、七瀬は厨房に残った。
「近くに、新しいホテルができるんです」
「そこの副料理長に決まりました」
「……そうか、おめでとう」
「だから、ご挨拶に」
そして、ちらりと結を見る。
「ついでに」
「“今の相棒”の実力も」
結は、息を吸った。
「……何か、作りますか」
七瀬の笑みが深くなる。
「いいですね」
「じゃあ――カルボナーラで」
厨房の空気が、一段張り詰めた。
京子が小声で叫ぶ。
「一番比較されるやつ来たぁ……!」
「やめてください心の声」
奏は静かに言った。
「結……勝負する必要はない」
「あります」
七瀬は即答した。
「私は“今”を知りたい、師匠が、誰の料理を信じてるのか」
結は、一歩前に出た。
「…私…やります」
奏が結を見る。
「必要ない!!無理するな」
「いいえ」
「私が、やりたいんです」
その目に、逃げはなかった。
同時に火が入る。
七瀬のカルボナーラは、クラシックだった。
グアンチャーレを弱火でじっくり。
脂を溶かし、香りだけを引き出す。
卵黄は高比率、ペコリーノ主体。
乳化は一瞬。
迷いがない。
一方、結。
彼女は、少し違うアプローチを選んだ。
ベーコンではなく、軽く燻したパンチェッタ。
チーズはパルミジャーノ中心。
黒胡椒をやや強めに。
(……奏さんの料理は、“温度”)
(私のカルボナーラも……)
だが、火加減。
ほんの一瞬、フライパンが熱を持ちすぎた。
(……っ)
卵が、わずかに固まる。
致命的ではない。
だが、七瀬の一皿と並べられたら、分かる差。
盛り付け。
七瀬の皿は、艶が違った。
試食。
支配人、京子、快、舞、全員が無言になる。
最後に、奏。
七瀬の皿。
次に、結の皿。
沈黙。
やがて、奏が口を開いた。
「……今回は七瀬の勝ちだ」
結の胸が、音を立てて落ちる。
七瀬は、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
そして結に向き直る。
「アプローチは悪くなかったでも、“守り”に入った」
それだけ言い、白衣を脱いだ。
その日の夜。
結は、一人で厨房に残っていた。
灯りを落とした作業台に、ぽたりと水滴が落ちる。
涙だった。
「……悔しい……」
負けたこと。
奏の前で。
自分が、自分を信じきれなかったこと。
背後で、足音がなった。
「……結」
奏だった。
何も言わず、近づく。
結は堪えきれず、声を震わせた。
「……私」
「……ああ、何も言うな」
「もっと……」
「ちゃんと、あの人に並びたかった」
奏は、しばらく黙っていた。
そして、結の肩に手を置く。
「……泣け」
「……っ」
「今は」
「それでいい」
結の涙が、止まらなくなる。
奏は、そっと引き寄せた。
抱きしめる腕は、驚くほど静かだった。
「……負けた理由は、分かってるな」
「……はい」
「なら」
「次は、勝てる」
結は、奏の胸に額を押し当てた。
奏は結の頭に手を当てた
「……怖かったです」
「俺も昔は、何度も負けた」
その言葉に、少しだけ救われる。
奏は、低く言った。
「七瀬は強い」
「……」
「でも」
「今、俺の厨房にいるのは――結だ」
結の胸が、きゅっと締まる。
「……それだけで十分、自分を誇れ」
その夜、結は泣き疲れるまで、奏の腕の中にいた。
カルボナーラの湯気は消えても、
料理人としての火は、まだ消えていなかった。
むしろ――
次に燃えるために、静かにくすぶっていた。
第41話「癒えない傷と少しの昔話と師匠の師匠とペペロンチーノと」につづく
昼前、支配人・木島五郎が珍しく慌ただしい足取りで厨房に入ってくる。
「神谷」
「急な来客だ」
「客?」
「いや……料理人だ」
奏が顔を上げた瞬間、厨房の扉が開いた。
ヒールの音。
迷いのない足取り。
「……久しぶりですね、師匠」
現れたのは、二十五歳ほどの女性だった。
背筋はまっすぐ、髪はきっちりまとめられ、白衣の下からでも鍛えられた所作が分かる。
奏は一瞬だけ目を細める。
「……七瀬、か」
「覚えててくれて光栄です」
七瀬――
かつて奏が海外で店を任されていた頃の弟子。
最年少でパスタ場を任された、腕のある料理人。
結は、その空気を察していた。
(……この人)
七瀬の視線が、結に向く。
「こちらは?」
「今のパティシエ兼、料理人だ」
「へえ……」
七瀬は結を上から下まで見て、口角を上げた。
「随分、柔らかそうですね」
「……?」
「師匠、趣味変わりました?」
「昔は、もっと“尖った人”だったのに」
奏は答えない。
だが、結の胸に、ちくりと刺さるものがあった。
ランチ後、七瀬は厨房に残った。
「近くに、新しいホテルができるんです」
「そこの副料理長に決まりました」
「……そうか、おめでとう」
「だから、ご挨拶に」
そして、ちらりと結を見る。
「ついでに」
「“今の相棒”の実力も」
結は、息を吸った。
「……何か、作りますか」
七瀬の笑みが深くなる。
「いいですね」
「じゃあ――カルボナーラで」
厨房の空気が、一段張り詰めた。
京子が小声で叫ぶ。
「一番比較されるやつ来たぁ……!」
「やめてください心の声」
奏は静かに言った。
「結……勝負する必要はない」
「あります」
七瀬は即答した。
「私は“今”を知りたい、師匠が、誰の料理を信じてるのか」
結は、一歩前に出た。
「…私…やります」
奏が結を見る。
「必要ない!!無理するな」
「いいえ」
「私が、やりたいんです」
その目に、逃げはなかった。
同時に火が入る。
七瀬のカルボナーラは、クラシックだった。
グアンチャーレを弱火でじっくり。
脂を溶かし、香りだけを引き出す。
卵黄は高比率、ペコリーノ主体。
乳化は一瞬。
迷いがない。
一方、結。
彼女は、少し違うアプローチを選んだ。
ベーコンではなく、軽く燻したパンチェッタ。
チーズはパルミジャーノ中心。
黒胡椒をやや強めに。
(……奏さんの料理は、“温度”)
(私のカルボナーラも……)
だが、火加減。
ほんの一瞬、フライパンが熱を持ちすぎた。
(……っ)
卵が、わずかに固まる。
致命的ではない。
だが、七瀬の一皿と並べられたら、分かる差。
盛り付け。
七瀬の皿は、艶が違った。
試食。
支配人、京子、快、舞、全員が無言になる。
最後に、奏。
七瀬の皿。
次に、結の皿。
沈黙。
やがて、奏が口を開いた。
「……今回は七瀬の勝ちだ」
結の胸が、音を立てて落ちる。
七瀬は、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
そして結に向き直る。
「アプローチは悪くなかったでも、“守り”に入った」
それだけ言い、白衣を脱いだ。
その日の夜。
結は、一人で厨房に残っていた。
灯りを落とした作業台に、ぽたりと水滴が落ちる。
涙だった。
「……悔しい……」
負けたこと。
奏の前で。
自分が、自分を信じきれなかったこと。
背後で、足音がなった。
「……結」
奏だった。
何も言わず、近づく。
結は堪えきれず、声を震わせた。
「……私」
「……ああ、何も言うな」
「もっと……」
「ちゃんと、あの人に並びたかった」
奏は、しばらく黙っていた。
そして、結の肩に手を置く。
「……泣け」
「……っ」
「今は」
「それでいい」
結の涙が、止まらなくなる。
奏は、そっと引き寄せた。
抱きしめる腕は、驚くほど静かだった。
「……負けた理由は、分かってるな」
「……はい」
「なら」
「次は、勝てる」
結は、奏の胸に額を押し当てた。
奏は結の頭に手を当てた
「……怖かったです」
「俺も昔は、何度も負けた」
その言葉に、少しだけ救われる。
奏は、低く言った。
「七瀬は強い」
「……」
「でも」
「今、俺の厨房にいるのは――結だ」
結の胸が、きゅっと締まる。
「……それだけで十分、自分を誇れ」
その夜、結は泣き疲れるまで、奏の腕の中にいた。
カルボナーラの湯気は消えても、
料理人としての火は、まだ消えていなかった。
むしろ――
次に燃えるために、静かにくすぶっていた。
第41話「癒えない傷と少しの昔話と師匠の師匠とペペロンチーノと」につづく
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