ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第41話 癒えない傷と少しの昔話と師匠の師匠とペペロンチーノと

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 カルボナーラ対決翌朝。

 ソラス・フォレストの厨房に、結は立っていた。
 包丁を持ち、野菜を刻み、段取りを確認する。
 やることは昨日と同じなのに、指先の感覚だけが違った。

(……集中しなきゃ)

 カルボナーラのフライパンが、頭から離れない。
 卵の温度。
 一瞬の判断。
 七瀬の皿のあの艶。

 結は小さく息を吐いた。

「……結」

 奏の声に、びくりと肩が跳ねる。

「は、はい」

「……顔が、昨日のままだな」

 図星だった。

「……すみません」

「謝るな」

 奏は、結の手元を見る。

「……」

「今日は厨房、任せられない」

 胸が、きゅっと締まる。

「……はい」

 結はうつむいた。

 その様子を見て、奏は少しだけ考え――言った。

「……ランチ後、外に出るぞ」

「え?」

「知り合いのところだ」

「えっ、ええと……」

「気分転換だ」
「仕事の一部だと思え」

 それ以上、有無を言わせない口調だった。

 昼過ぎ。

 タクシーで二十分ほど走った先に、その店はあった。

 古い商店街の端。
 看板は色褪せ、文字も少し剥げている。

《Trattoria R——》

「……ここ、ですか?」

「そう」

「……おしゃれじゃないですね」

「失礼なこと言うな」

 扉を開けた瞬間、
 にんにくとオリーブオイルの香りが、どっと押し寄せた。

「おっ、来たかチビ!」

 カウンターの奥から、甲高い声。

 現れたのは、60代後半くらいの男だった。
 エプロンは汚れ、髪はぼさぼさ。
 しかし目だけは、異様に鋭い。

「おいおい」
「久しぶりだな、奏!」

「……お久しぶりです、師匠」

 結は目を見開いた。

(師匠!?)

「で?その子は誰だ」

「…今…一緒に働いてる」

「へぇ~?」
 師匠は、じろじろと結を見る。

「若いねぇ」
「可愛いじゃん」

 結の周りをクルクル回りながら
 言うと結の胸とお尻をさわった。

「きゃあぁぁぁぁぁ~何するんですか~!!!!!」
 
 結は反射的にビンタをしようとするがさっとよけられる

 すると次の瞬間。

「奏!!」ちゃんと仕事教えてるのか!?」

「……何の話ですか」

「こういう子に限って、放ったらかすと伸び悩むんだぞ!」

「……放ったらかしてません」

 結は、内心ほっとした。

 奏が小さくため息をつく。

「……昼、何か軽く食べたいんだが」

「おう!」
「ペペロンチーノでいいか?」

 結の心臓が、跳ねた。

(ペペロンチーノ……)

 師匠の動きは、雑に見えた。
 だが、火の前に立った瞬間、空気が変わる。

 にんにくを潰す音。
 オイルが温まる気配。
 唐辛子を入れる、わずかなタイミング。

「なあ、結ちゃん」

「は、はい」

「ペペロンチーノって、簡単だと思うだろ?」

「……はい」

「だからな」
「一番、誤魔化しきかねぇ」

 フライパンに、ゆで汁を一気に入れる。
 乳化は一瞬。

「奏はな」
「ここで、156回、作り直した」

 結が、固まる。

「……ひゃく……?」

「156回数えてた」

 奏が、少しだけ目を逸らす。

「……師匠」

「だってさぁ!」
「毎回、味が違うんだもん!」

「……」

「にんにくが強すぎる」
「辛いだけ」
「オイルが死んでる」
「最初の50回くらいは香りだけで捨ててたよね」
 師匠は笑う。

「でな」
「157回目で、ようやく言ったんだ」

 皿に盛り付けながら。

「“やっと、スタートラインだ”って」

 結は、喉が鳴った。

「……奏さんが……」

「チビはな」
「泣かなかった」

「……」

「不貞腐れもしなかった」
「ただ黙って、また作った」

 師匠は、ちらりと結を見る。

 結の胸に、その言葉が刺さる。

 皿が、目の前に置かれた。

 香りは、驚くほどシンプルだった。

 一口。

 オイルの甘み。
 にんにくの芯だけを抜いた香り。
 唐辛子は、遅れてくる。

「……」

「な?」
「派手じゃねぇだろ」

「……はい」

「でも」
「温かい味……」

 結の目が、じんわり熱くなる。

 店を出た後。

 しばらく、二人とも黙って歩いた。

 奏が、ぽつりと言う。

「……俺は」
「才能があるタイプじゃない」

 結は、驚いて顔を上げる。

「……え」

「だから」
「回数で、殴った」

「……」

「負けるのも」
「間違えるのも」
「全部、材料だ」

 足を止め、結を見る。

「昨日の負けも」
「良いように使え」

 結は、ゆっくり息を吸った。

「……はい」

 胸の奥に、まだ痛みはある。
 でも、その痛みは――前に進くためのものだと、少しだけ思えた。

 結は、小さく笑った。

「……156回、作り直す覚悟は」
「まだ、ありませんけど」

「それでいい」

 奏は、少しだけ口元を緩める。

「最初は、3回でいい」

 帰り道。
 結の背中は、朝より少しだけ、まっすぐだった。

 カルボナーラの傷は、まだ消えていない。
 それでも――
 火を入れ直す準備は、できていた。

その夜、ソラス・フォレストの厨房には、結ひとりの姿があった。

 営業は終わり、照明も半分だけ落とされている。
 外では、ぬくが警備代わりに廊下を歩く足音が、かすかに響いていた。

 結は、ガス台の前に立つ。

 目の前に並べたのは、たったこれだけ。

 スパゲッティ
 にんにく
 唐辛子
 オリーブオイル
 塩

「……これだけ……か」

 カルボナーラの時は、材料が多かった。
 言い訳も、調整も、逃げ道もあった。

 でも、ペペロンチーノにはない。

 誤魔化しがきかない。
 逃げ場がない。

 昼間、師匠の言葉がよみがえる。

――派手じゃねぇだろ

 結は、深呼吸した。

「……一回目」

 にんにくを剥く。
 芯を丁寧に取り除き、包丁の腹で軽く潰す。

 フライパンに、オイルを注ぐ。

 火は、弱め。

 ――焦るな。

 頭の中で、奏の声がした気がした。

 にんにくを入れる。
 まだ、泡は出ない。

(ここで色をつけない……)

 じわりと、香りだけが立つ。

 唐辛子を入れる。
 一本。
 いや、半分。

 鍋で湯がいていた麺を引き上げる。

 フライパンに、ゆで汁を少し。

 じゅっ。

 ……音が、強い。

「……あ」

 火が、ほんの少しだけ強かった。

 オイルが、ざわつく。

 一口、味見。

 ――辛い。
 香りが、立ちすぎている。

 結は、箸を置いた。

「……一回目、失敗」

 捨てはしない。
 でも、これを“出す”気にはなれない。

 時計を見る。

 夜、十一時半。

 厨房は静かで、誰も見ていない。

 だからこそ、誤魔化せない。

「……二回目」

 にんにくを切り直す。
 今度は、潰さず、薄切り。

 オイルは、少なめ。

 火は、さらに弱く。

(……遅すぎる?)

 香りが、なかなか立たない。

 焦りそうになる。

 でも、フライパンから目を離さない。

 色が、つく前に、唐辛子。

 ゆで汁。

 麺。

 混ぜる。

 味見。

 ……物足りない。

 オイルが、死んでいる。

 にんにくの甘みが、出ていない。

「……二回目、却下」

 結は、唇を噛んだ。

(簡単な料理のはずなのに……)

(どうして、こんなに……)

 昼の奏の言葉が、胸に刺さる。

――俺は、回数で殴った

 結は、ふっと笑った。

「……殴られる側、やってみますか」

 三回目。

 にんにくを、半分は潰し、半分はスライス。

 オイルは、少し多め。

 火は、弱火と中火の間。

 フライパンを傾け、オイルの温度を均一にする。

(……今)

 香りが、変わった瞬間。

 にんにくが、香ばしい一歩手前。

 唐辛子。

 火を、落とす。

 ゆで汁。

 麺。

 手首を返し、乳化させる。

 音が、静かだ。

 皿に盛る前に、もう一度、味見。

「……」

 結は、目を閉じた。

 派手じゃない。
 でも、オイルが甘い。
 にんにくが、主張しすぎていない。
 唐辛子は、遅れて、喉の奥で存在を示す。

「……三回目」

 胸が、じんわり熱くなる。

(……まだ、足りない)

 でも。

(昨日よりは……)

 フライパンを洗いながら、結はぽつりと言った。

「……156回は、無理だなぁ……」

 声は、厨房に吸い込まれる。

 その時。

「三回目で、ここまで来たなら」
「悪くない」

 背後から、低い声。

「……っ!?」

 結は、振り向いた。

 奏が、入口に立っていた。

「……見てたんですか」

「匂いが、変わった」

 結は、少し恥ずかしくなった。

「……まだ、出せません」

「分かってる」

 奏は、皿を見て言った。

「でも」
「ちゃんと、前に進いてる」

 結は、胸がいっぱいになる。

「……負けたの、まだ、悔しいです」

「それでいい」

「……でも」
「逃げたく、ないです」

 奏は、少しだけ間を置いて言った。

「……逃げなかったな」

 結は、うなずいた。

 時計は、もう日付を越えている。

 厨房の灯りを落とす前、結はもう一度、フライパンを見る。

 ペペロンチーノは、まだ完成じゃない。

 でも。

(……次は、四回目)

 その夜、結は久しぶりに、
 料理の夢を見ながら眠った。

 失敗の味も、
 にんにくの匂いも、
 全部抱えたまま。

 それでも、火は――消えていなかった。

第42話 「スカウトと動揺とオムレツと」につづく
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