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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第70話 翌朝と悶絶と朝食膳と
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朝六時半。
ソラス・フォレストの厨房は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
――少なくとも、外見上はである。
「……おはようございます 朝六時半。
ソラス・フォレストの厨房は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
――少なくとも、外見上は。
「……おはよう…うぷっ…ございます……」
結の声は、かろうじて音程を保っていたが、覇気というものが存在しなかった。
目の下には薄く影。動きはいつもの七割。
「……おはよ」
舞は短く返す。
顔色がやや白い。無口。普段よりさらに感情が削ぎ落とされている。
「おっはよーございまーす……」
一番元気そうに見えたのは京子だったが、
その実、額にうっすら冷や汗、こめかみを押さえる癖が抜けていない。
「……三人とも、なんか静かだな」
仕込みをしていた快が言う。
「別に……普通ですよ」
結は即答した。
その瞬間――
(……優しかったです……)
昨夜の自分の声が、脳内に再生される。
「――」
結は包丁を持つ手を止め、深くうつむいた。
「どうした?顔が赤いぞ?」
「な、なんでもないですよ!」
声が裏返る。
舞は味噌汁の出汁を取りながら、無言で火加減を調整していた。
が、ふと、昆布を引き上げた瞬間――
(…なんか…腹立つ……)
昨夜、自分が言った言葉が、鮮明に蘇る。
(……私、なんであんなこと……)
「……っ」
舞は思わず、出汁鍋から顔を背けた。
「舞さん?」
「……何も問題ない」
京子は京子で、盛り付け台の前で皿を並べながら、
(……好きって言われたらどうする?)
自分の声が、耳に残って離れない。
(……ああああああ!!)
京子は内心、頭を抱えていた。
「京子さん、なんで皿三枚重ねてるんですか」
江藤の指摘で、ようやく現実に戻る。
「……え? あ、あれ?」
「皿割れますよ」
「ごめんごめん!」
三人の異変は、確実に周囲に伝わっていた。
――朝食膳の準備。
本日の献立は、
・焼き鮭
・だし巻き卵
・小鉢三種(ひじき煮、ほうれん草胡麻和え、切り干し大根)
・具沢山の味噌汁
・炊き立ての白米
いつも通りの、安心する和朝食。
……なのに。
「結、卵焼き、なんか甘すぎない?」
舞の指摘。
「……え?」
結が味見をして、顔色を変える。
「あまい……砂糖、二倍入れてました」
「どうした?」
「……わかりません」
その瞬間、別の記憶。
(……優しかったです……)
「――っ!」
結は再び、悶絶した。
「結?」
「大丈夫です! すぐ直します!」
「…よく分からないが…落ち着け」
一方、舞は味噌汁をよそいながら、手元が狂う。
椀に、ちょっと多め。
「……多いよね」
「多いですね」
「……知ってた」
京子は焼き鮭を並べながら、急に吹き出した。
「……っ、はっ……」
「京子さん?」
「いや……なんでもない……」
(……言わせなきゃ……)
「……っ!(声漏れないようにしなきゃ)」
今度は京子が、口元を押さえた。
――全員、限界だった。
「……ねえ」
快が低い声で言う。
「昨日、何かした?」
三人、同時にビクッとする。
「な、何も?……ねぇ結?」
「普通に仕事してましたよね……舞さん」
「みんな普通に寝た」
口裏合わせにもなっていない。
「……三人とも、顔に出すぎ」
木島支配人が、新聞を畳みながら言った。
「……はい?」
「厨房で、何かあったか?」
「なにも!」
三人の声が、完璧に揃った。
逆に怪しい。
「……まあいい」
木島はそれ以上追及しなかったが、
視線は完全に「察している」ものだった。
奏は、黙って盛り付けを見ていた。
結の顔をのぞき込みながら奏が
「……顔、赤いな」
「(ち、ち、ち、ちかい!!!!!!!)――っ!!」
「熱あるのか?」
「ち、違います!!無いです!!!!!」
奏は首をかしげる。
「……そうか」
その何気ない一言で、
(……キス……)
結の脳内が、完全に崩壊した。
結果。
朝食膳は無事に提供されたが、
・結は三回同じ小鉢を配りそうになる
・舞は味噌汁の具を二回入れ忘れる
・京子は笑顔のまま三度フリーズする
という、静かな事故が多発した。
片付けの時間。
三人は、シンク前で並んで立っていた。
誰からともなく、ため息。
「…昨日のこと…覚えてる?」
京子が小声で聞く。
「……断片だけ覚えてる」
舞。
「…私も…思い出したくないところだけ……おぼえてる」
結。
三人、目を合わせて、同時に顔を覆った。
「……次、飲むときは」
「ほどほどにしよ」
「……約束しましょう」
その様子を、少し離れたところで見ていた快が呟く。
「……何かあったな」
公が頷く。
「間違いない」
だが、三人は何も言わない。
朝食膳の匂いの中で、
思い出したくない夜は、静かに胸の奥へ押し戻された
第71話 「大晦日と振り返りと年越しそばと」につづく
ソラス・フォレストの厨房は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
――少なくとも、外見上はである。
「……おはようございます 朝六時半。
ソラス・フォレストの厨房は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
――少なくとも、外見上は。
「……おはよう…うぷっ…ございます……」
結の声は、かろうじて音程を保っていたが、覇気というものが存在しなかった。
目の下には薄く影。動きはいつもの七割。
「……おはよ」
舞は短く返す。
顔色がやや白い。無口。普段よりさらに感情が削ぎ落とされている。
「おっはよーございまーす……」
一番元気そうに見えたのは京子だったが、
その実、額にうっすら冷や汗、こめかみを押さえる癖が抜けていない。
「……三人とも、なんか静かだな」
仕込みをしていた快が言う。
「別に……普通ですよ」
結は即答した。
その瞬間――
(……優しかったです……)
昨夜の自分の声が、脳内に再生される。
「――」
結は包丁を持つ手を止め、深くうつむいた。
「どうした?顔が赤いぞ?」
「な、なんでもないですよ!」
声が裏返る。
舞は味噌汁の出汁を取りながら、無言で火加減を調整していた。
が、ふと、昆布を引き上げた瞬間――
(…なんか…腹立つ……)
昨夜、自分が言った言葉が、鮮明に蘇る。
(……私、なんであんなこと……)
「……っ」
舞は思わず、出汁鍋から顔を背けた。
「舞さん?」
「……何も問題ない」
京子は京子で、盛り付け台の前で皿を並べながら、
(……好きって言われたらどうする?)
自分の声が、耳に残って離れない。
(……ああああああ!!)
京子は内心、頭を抱えていた。
「京子さん、なんで皿三枚重ねてるんですか」
江藤の指摘で、ようやく現実に戻る。
「……え? あ、あれ?」
「皿割れますよ」
「ごめんごめん!」
三人の異変は、確実に周囲に伝わっていた。
――朝食膳の準備。
本日の献立は、
・焼き鮭
・だし巻き卵
・小鉢三種(ひじき煮、ほうれん草胡麻和え、切り干し大根)
・具沢山の味噌汁
・炊き立ての白米
いつも通りの、安心する和朝食。
……なのに。
「結、卵焼き、なんか甘すぎない?」
舞の指摘。
「……え?」
結が味見をして、顔色を変える。
「あまい……砂糖、二倍入れてました」
「どうした?」
「……わかりません」
その瞬間、別の記憶。
(……優しかったです……)
「――っ!」
結は再び、悶絶した。
「結?」
「大丈夫です! すぐ直します!」
「…よく分からないが…落ち着け」
一方、舞は味噌汁をよそいながら、手元が狂う。
椀に、ちょっと多め。
「……多いよね」
「多いですね」
「……知ってた」
京子は焼き鮭を並べながら、急に吹き出した。
「……っ、はっ……」
「京子さん?」
「いや……なんでもない……」
(……言わせなきゃ……)
「……っ!(声漏れないようにしなきゃ)」
今度は京子が、口元を押さえた。
――全員、限界だった。
「……ねえ」
快が低い声で言う。
「昨日、何かした?」
三人、同時にビクッとする。
「な、何も?……ねぇ結?」
「普通に仕事してましたよね……舞さん」
「みんな普通に寝た」
口裏合わせにもなっていない。
「……三人とも、顔に出すぎ」
木島支配人が、新聞を畳みながら言った。
「……はい?」
「厨房で、何かあったか?」
「なにも!」
三人の声が、完璧に揃った。
逆に怪しい。
「……まあいい」
木島はそれ以上追及しなかったが、
視線は完全に「察している」ものだった。
奏は、黙って盛り付けを見ていた。
結の顔をのぞき込みながら奏が
「……顔、赤いな」
「(ち、ち、ち、ちかい!!!!!!!)――っ!!」
「熱あるのか?」
「ち、違います!!無いです!!!!!」
奏は首をかしげる。
「……そうか」
その何気ない一言で、
(……キス……)
結の脳内が、完全に崩壊した。
結果。
朝食膳は無事に提供されたが、
・結は三回同じ小鉢を配りそうになる
・舞は味噌汁の具を二回入れ忘れる
・京子は笑顔のまま三度フリーズする
という、静かな事故が多発した。
片付けの時間。
三人は、シンク前で並んで立っていた。
誰からともなく、ため息。
「…昨日のこと…覚えてる?」
京子が小声で聞く。
「……断片だけ覚えてる」
舞。
「…私も…思い出したくないところだけ……おぼえてる」
結。
三人、目を合わせて、同時に顔を覆った。
「……次、飲むときは」
「ほどほどにしよ」
「……約束しましょう」
その様子を、少し離れたところで見ていた快が呟く。
「……何かあったな」
公が頷く。
「間違いない」
だが、三人は何も言わない。
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