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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第71話 大晦日と振り返りと年越しそばと
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大晦日のソラス・フォレストは、満室だった。
けれど不思議なほど、館内は静かだった。
宿泊客の多くは年配者か、一人旅の客。
賑やかな年越しを求める人たちではなく、ただ静かに一年を終えたい人たちが、
この小さなホテルを選んだのだろう。
ロビーでは京子がいつもより声を落として応対し、
快は足音を立てないよう歩いている。
結はフロントを離れ、厨房の入口に立った。
そこから見える背中は、黙々と作業を続けている。
神谷奏は、そばを打っていた。
このホテルで年越しそばを出すときだけ、奏は必ず自分でそばを打つ。
機械は使わない。
そば粉と水、指と体重、それだけ。
大きな木鉢の中で、白い粉が少しずつまとまり、
やがて艶のある生地へと変わっていく。
奏の手は無駄がない。
こねる、畳む、伸ばす。
その動きには焦りも迷いもなく、ただ一定のリズムだけがあった。
(……静か)
結は思った。
この一年で、何度もこの背中を見てきた。
忙しい日も、事件のあった日も、泣いた夜も。
けれど今日の背中は、少し違う。
どこか、一区切りをつけているように見えた。
――震災の日。
予約がすべて消え、炊き出しに向かった夜。
冷たい風の中で配った豚汁の湯気。
あのとき奏は、多くを語らなかった。
引き抜きの話。
迷い。
残る理由、去る理由。
そして、付き合うことになった夜。
すべてが、この一年に詰まっている。
結は胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「結」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
「出汁、もう一回見る。」
「はい」
短いやり取り。
それだけなのに、声をかけられただけで、心が落ち着く。
寸胴鍋の蓋を開けると、湯気が立ち上る。
鶏ガラと丸鶏、焼いた長ねぎ、少量の昆布。
派手さはないが、奥行きのある香り。
奏は味を確かめ、ほんの一つまみ塩を足す。
「……よし」
それだけ。
でも結には分かる。
これ以上、何も足さない判断だ。
年越しそばの準備が整うころ、
館内にはゆっくりとした時間が流れていた。
宿泊客はそれぞれの部屋で、テレビを見たり、本を読んだり。
大声も、笑い声もない。
だからこそ、厨房から漂うそばと出汁の香りが、
ホテル全体を包むように広がっていった。
そばは細打ち。
茹で時間は短く、芯を残さないぎりぎり。
丼の底に澄んだ出汁。
その上に、そばを静かに落とす。
焼餅は表面を香ばしく。
油揚げは甘く煮すぎず、出汁を含ませる程度。
かまぼこは厚めに切り、
鶏肉はしっとりと火を通す。
最後に、柚子皮をひと欠片。
見た目は地味だ。
けれど、どこまでも誠実な一杯。
客に運び終え、厨房が落ち着いたのは、年越しまであと三十分ほどだった。
「……よし、スタッフ分」
奏が言う。
京子が小さく笑う。
「待ってました」
スタッフ用の丼は、客用より少しだけ量が多い。
余ったそばを無駄にしないためでもあるが、
それ以上に“一年頑張ったご褒美分”のように感じられた。
全員が厨房に集まり、立ったまますする。
テレビも、カウントダウンもない。
ただ、そばの音だけが響く。
「……うま」
舞がぽつりと言い、
木島が大きく頷く。
「沁みるなぁ……」
結は箸を持つ手を止め、奏を見る。
奏は黙ってそばをすすり、
一口、出汁を飲んでから、ほんの少しだけ視線を上げた。
「……今年は」
その声は、驚くほど低かった。
「悪くなかったな」
それだけ。
多くを語らない人の、最大限の肯定。
結の喉が、きゅっと詰まる。
(ずるい……)
そんな言い方をされたら、
この一年の苦しさも、迷いも、全部報われてしまう。
結は慌ててそばをすすり、涙を誤魔化した。
時計が、静かに零時を告げる。
年が変わった瞬間、誰も声を上げなかった。
ただ、結と奏の肩が、そっと触れる。
それだけ。
キスもしない。
言葉もない。
けれど、その距離が、何よりも確かなものだった。
結は思う。
来年も、きっといろいろある。
迷うことも、泣くことも。
でも――
この静かな夜を越えられたなら、大丈夫だ。
奏の隣で、
また一年、料理を続けていける。
それだけで、十分だった。
ソラス・フォレストの一年は、
音もなく、静かに、終わった。
第72話 「元旦と初詣と振る舞い甘酒と」につづく
けれど不思議なほど、館内は静かだった。
宿泊客の多くは年配者か、一人旅の客。
賑やかな年越しを求める人たちではなく、ただ静かに一年を終えたい人たちが、
この小さなホテルを選んだのだろう。
ロビーでは京子がいつもより声を落として応対し、
快は足音を立てないよう歩いている。
結はフロントを離れ、厨房の入口に立った。
そこから見える背中は、黙々と作業を続けている。
神谷奏は、そばを打っていた。
このホテルで年越しそばを出すときだけ、奏は必ず自分でそばを打つ。
機械は使わない。
そば粉と水、指と体重、それだけ。
大きな木鉢の中で、白い粉が少しずつまとまり、
やがて艶のある生地へと変わっていく。
奏の手は無駄がない。
こねる、畳む、伸ばす。
その動きには焦りも迷いもなく、ただ一定のリズムだけがあった。
(……静か)
結は思った。
この一年で、何度もこの背中を見てきた。
忙しい日も、事件のあった日も、泣いた夜も。
けれど今日の背中は、少し違う。
どこか、一区切りをつけているように見えた。
――震災の日。
予約がすべて消え、炊き出しに向かった夜。
冷たい風の中で配った豚汁の湯気。
あのとき奏は、多くを語らなかった。
引き抜きの話。
迷い。
残る理由、去る理由。
そして、付き合うことになった夜。
すべてが、この一年に詰まっている。
結は胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「結」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
「出汁、もう一回見る。」
「はい」
短いやり取り。
それだけなのに、声をかけられただけで、心が落ち着く。
寸胴鍋の蓋を開けると、湯気が立ち上る。
鶏ガラと丸鶏、焼いた長ねぎ、少量の昆布。
派手さはないが、奥行きのある香り。
奏は味を確かめ、ほんの一つまみ塩を足す。
「……よし」
それだけ。
でも結には分かる。
これ以上、何も足さない判断だ。
年越しそばの準備が整うころ、
館内にはゆっくりとした時間が流れていた。
宿泊客はそれぞれの部屋で、テレビを見たり、本を読んだり。
大声も、笑い声もない。
だからこそ、厨房から漂うそばと出汁の香りが、
ホテル全体を包むように広がっていった。
そばは細打ち。
茹で時間は短く、芯を残さないぎりぎり。
丼の底に澄んだ出汁。
その上に、そばを静かに落とす。
焼餅は表面を香ばしく。
油揚げは甘く煮すぎず、出汁を含ませる程度。
かまぼこは厚めに切り、
鶏肉はしっとりと火を通す。
最後に、柚子皮をひと欠片。
見た目は地味だ。
けれど、どこまでも誠実な一杯。
客に運び終え、厨房が落ち着いたのは、年越しまであと三十分ほどだった。
「……よし、スタッフ分」
奏が言う。
京子が小さく笑う。
「待ってました」
スタッフ用の丼は、客用より少しだけ量が多い。
余ったそばを無駄にしないためでもあるが、
それ以上に“一年頑張ったご褒美分”のように感じられた。
全員が厨房に集まり、立ったまますする。
テレビも、カウントダウンもない。
ただ、そばの音だけが響く。
「……うま」
舞がぽつりと言い、
木島が大きく頷く。
「沁みるなぁ……」
結は箸を持つ手を止め、奏を見る。
奏は黙ってそばをすすり、
一口、出汁を飲んでから、ほんの少しだけ視線を上げた。
「……今年は」
その声は、驚くほど低かった。
「悪くなかったな」
それだけ。
多くを語らない人の、最大限の肯定。
結の喉が、きゅっと詰まる。
(ずるい……)
そんな言い方をされたら、
この一年の苦しさも、迷いも、全部報われてしまう。
結は慌ててそばをすすり、涙を誤魔化した。
時計が、静かに零時を告げる。
年が変わった瞬間、誰も声を上げなかった。
ただ、結と奏の肩が、そっと触れる。
それだけ。
キスもしない。
言葉もない。
けれど、その距離が、何よりも確かなものだった。
結は思う。
来年も、きっといろいろある。
迷うことも、泣くことも。
でも――
この静かな夜を越えられたなら、大丈夫だ。
奏の隣で、
また一年、料理を続けていける。
それだけで、十分だった。
ソラス・フォレストの一年は、
音もなく、静かに、終わった。
第72話 「元旦と初詣と振る舞い甘酒と」につづく
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