ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第77話 自分の料理が怖くなる夜

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 厨房の灯りが落ちたあとも、結は一人、残っていた。

 時計は二十三時を回っている。
 換気扇は止まり、冷蔵庫の低い駆動音だけが、規則正しく耳に入る。

 寸胴鍋の中では、シチューが静かに冷めていた。

 今日で、12回目。

 同じ材料。
 同じ分量。
 同じ火加減。

 なのに、なにかが違う。

 結はスプーンですくい、少しだけ口に含んだ。

(……甘い)

 嫌な甘さではない。
 むしろ、整っている。
 誰が食べてもきっと「おいしい」と言うだろう。

 しかしそれが怖かった。

(本当に……これで、いいの?)

 一次審査を通ったコンセプトは、
「“日常に戻るための一皿”」。

 震災の炊き出し、
 ホテルのまかない、
 人を慰める料理。

 きっとそれは嘘じゃない。

 でも。

(……これって誰の料理?)

 結は、鍋を見下ろす。

 整いすぎている。
 丸く、優等生でどこにも棘がない。
 たぶんある程度の料理人が作ればこのような味になるだろう

 ――失敗しない味ただそれだけの味

 胸の奥が、きゅっと縮む。

(……負けたくない)

 公の顔が、脳裏をよぎる。
 二回戦敗退の話を、淡々と語ったあの声。

「“正しい料理”を出した」

 それが敗因だったと。

(……私も、同じじゃないの?)

 スプーンを置き、結はシンクに手をついた。

 冷たいステンレスの感触。

 呼吸が、少し早くなる。

(……もし、この料理が評価されなかったら)

 思考が勝手に先へ行く。

(……もし、通っても、“誰の記憶にも残らない”料理だったら)

 それは、
 料理人としていちばん怖いことだった。

 包丁の音も、
 鍋の沸く音も、
 今日は味方になってくれない。

 結は、冷蔵庫を開けた。

 玉ねぎ。
 人参。
 牛すじ。
 ローリエ。

 見慣れた材料たち。

(……私は、これで何を伝えたい?)

 堂々巡りの疑問で答えが出ない。

 手が止まる。

 ――こんな事は初めてだった。

 料理が自分を裏切るかもしれない。

 そのとき、厨房の扉が、静かに開いた。

「……まだ起きてたか」

 奏だった。

 パーカーの上にコートを羽織っただけの姿。
 もう自分の部屋に戻ったと思っていた。

「……すみません」

 結は、反射的に謝った。

 理由は分からない。
 ただ、情けなくて。

 奏は、鍋を一目見ただけで状況を察した。

「……味に迷っているな」

 結は、うなずいた。

「私…自分の料理が…分からなくなりました」

 声が、少し震えた。

「おいしいはずなんです。
 でも……これを出すのが怖くて!!」

 奏は、結の隣に立つ。

 同じ鍋を覗き込み、
 一口だけ、味を確かめた。

 そして、何も言わずにスプーンを置く。

「……そうか怖くなったか?」

「……はい」

 奏は、しばらく黙っていた。

 それから、低く言う。

「それでいいんだ」

「……え?」

「料理が怖くなるのは、誰かのまねでは無く“自分の料理”になり始めた証拠だ」

 結は、顔を上げる。

「今までのお前は“間違えない料理”を作ってた」

「……」

「でも今は、“これでいいのか”って自分に聞いてるんだろ」

 奏は、結を見る。

「怖いだろ」

「……はい」

「俺も、何百回もあった事だ」

 淡々とした声。

「怖くならなくなったら終わりだ」

 結の胸が、少しだけ緩む。

「……じゃあ、どうすれば……」

 奏は、鍋に視線を戻した。

「答えは、鍋の中にない」

「……」

「お前の中だ」

 そして、少しだけ柔らかい声で言う。

「今日は、無理に完成させるな」

「……」

「辛いだろうが怖いまま今日は寝ろ」

 結は、目を瞬いた。

「それは逃げじゃない」

 奏は続ける。

「怖さを連れて明日また鍋の前に立てそれができたら。」

「一段上に上がれる、今は無理に理解する必要は無い……おやすみ無理するなよ。」

 奏はそれだけ言って、踵を返した。

 厨房に、また静けさが戻る。

 結は、寸胴鍋の蓋をそっと閉めた。

 完成させない、という選択。

 それは、初めてだった。

(……怖い)

 でも。

(逃げれない…いや…逃げない)

 胸の奥で小さく、確かな火が灯る。

 結はエプロンを外し、
 厨房の灯りを落とした。

 闇の中で鍋は何も言わない。

 それでも。

 結は分かっていた。

 この夜を越えた先にしか、
 本当の一皿はないことに……

 
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