145 / 152
第2章 季節の変わり目は複雑な天気に
第143話 厨房の洗礼
しおりを挟む
千夏の初めての本格シフトは金曜のディナーだった。
放課後、制服のままホテルに入り更衣室でコックコートとエプロンに着替える。
鏡に映る自分は少しだけ背伸びをしているように見えた。
胸の奥が落ち着かない。
厨房に入った瞬間空気が変わる。
昼とは違う。
音が多く声が短く動きに迷いがない。
「千夏ちゃん今日は前菜補助ね」
結の声は穏やかだが甘くはない。
「洗い物、盛り付けの準備、指示があったらすぐ動いて」
「はい!!」
返事は少しだけ大きすぎた。
最初の一時間はうまくいった。
野菜を洗い、ハーブを刻み、皿を温める。
知っている作業だ。
アルバイトで何度もやったことがある。
――できる。
そう思った瞬間だった。
前菜の盛り付けが立て込む。
結が声をかける。
「千夏ちゃん、ディルもう少しで出来る」
「はい」
千夏は急いで冷蔵庫を開け取り出し刻み台へ向かう。
そのとき。
手元が滑った。
包丁がまな板の端をかすめ、
刻んだハーブが床に散った。
「……っ」
音は小さい。
けれど、厨房では十分すぎるほどだった。
一瞬、時間が止まる。
千夏は動けなくなった。
「千夏ちゃん」
結の声は強くも優しくもなかった。
「大丈夫、止まらないで」
「……はい」
膝をつきすぐに拾おうとする。
「それはいい」
「代わりを取って」
結は視線を外さない。
「床に落ちたものは料理じゃない」
千夏は唇を噛み頷いた。
胸が、ぎゅっと縮む。
自分のせいで流れを止めた。
忙しい時間帯に。
――迷惑をかけた。
その後もミスは続いた。
皿の置き場所を間違え、
声をかけるタイミングが遅れ、
一度、返事が出なかった。
「千夏」
奏の声が飛ぶ。
「厨房では黙るな返事!!」
「はい!」
体が硬くなる。
ディナーのピークが過ぎた頃。
千夏は足の感覚がなくなっていた。
腕も重い。
それでも立ち続ける。
――帰りたいとは思わなかった。
ただ、ここにいる自分が足りないと思った。
営業終了。
片付けの時間。
千夏は黙って洗い場に立っていた。
そこに結が来る。
「今日はどうだった?」
「……迷惑をたくさんかけました」
「うん、そうかもしれないね」
否定はしない。
「でも」
「途中で投げださなかったのは凄いよ」
千夏は顔を上げた。
奏も少し離れたところから言う。
「初日で完璧な人間はいないからな」
「ただし」
視線が鋭くなる。
「ミスを怖がるな」
「止まるな」
「厨房の流れをとめるな」
千夏は深く頷いた。
「はい!!」
更衣室。
エプロンを外したときようやく気づいた。
手が少し震えている。
でも。
不思議と心は静かだった。
帰り際ロビーで京子が声をかける。
「お疲れさま」
「……はい」
「どうだった?」
「洗礼を受けました……とても厳しかったです」
「でしょ」
京子は笑った。
「それでもまた来る?」
「来ます!!」
答えは即答だった。
外に出ると夜風が冷たい。
千夏は胸の奥で思った。
今日一日私は“厨房に立たせてもらった”。
それは叱られたことよりも、
失敗したことよりも、
ずっと重くありがたい経験だった。
次はもう少しちゃんと厨房に立てる気がした。
放課後、制服のままホテルに入り更衣室でコックコートとエプロンに着替える。
鏡に映る自分は少しだけ背伸びをしているように見えた。
胸の奥が落ち着かない。
厨房に入った瞬間空気が変わる。
昼とは違う。
音が多く声が短く動きに迷いがない。
「千夏ちゃん今日は前菜補助ね」
結の声は穏やかだが甘くはない。
「洗い物、盛り付けの準備、指示があったらすぐ動いて」
「はい!!」
返事は少しだけ大きすぎた。
最初の一時間はうまくいった。
野菜を洗い、ハーブを刻み、皿を温める。
知っている作業だ。
アルバイトで何度もやったことがある。
――できる。
そう思った瞬間だった。
前菜の盛り付けが立て込む。
結が声をかける。
「千夏ちゃん、ディルもう少しで出来る」
「はい」
千夏は急いで冷蔵庫を開け取り出し刻み台へ向かう。
そのとき。
手元が滑った。
包丁がまな板の端をかすめ、
刻んだハーブが床に散った。
「……っ」
音は小さい。
けれど、厨房では十分すぎるほどだった。
一瞬、時間が止まる。
千夏は動けなくなった。
「千夏ちゃん」
結の声は強くも優しくもなかった。
「大丈夫、止まらないで」
「……はい」
膝をつきすぐに拾おうとする。
「それはいい」
「代わりを取って」
結は視線を外さない。
「床に落ちたものは料理じゃない」
千夏は唇を噛み頷いた。
胸が、ぎゅっと縮む。
自分のせいで流れを止めた。
忙しい時間帯に。
――迷惑をかけた。
その後もミスは続いた。
皿の置き場所を間違え、
声をかけるタイミングが遅れ、
一度、返事が出なかった。
「千夏」
奏の声が飛ぶ。
「厨房では黙るな返事!!」
「はい!」
体が硬くなる。
ディナーのピークが過ぎた頃。
千夏は足の感覚がなくなっていた。
腕も重い。
それでも立ち続ける。
――帰りたいとは思わなかった。
ただ、ここにいる自分が足りないと思った。
営業終了。
片付けの時間。
千夏は黙って洗い場に立っていた。
そこに結が来る。
「今日はどうだった?」
「……迷惑をたくさんかけました」
「うん、そうかもしれないね」
否定はしない。
「でも」
「途中で投げださなかったのは凄いよ」
千夏は顔を上げた。
奏も少し離れたところから言う。
「初日で完璧な人間はいないからな」
「ただし」
視線が鋭くなる。
「ミスを怖がるな」
「止まるな」
「厨房の流れをとめるな」
千夏は深く頷いた。
「はい!!」
更衣室。
エプロンを外したときようやく気づいた。
手が少し震えている。
でも。
不思議と心は静かだった。
帰り際ロビーで京子が声をかける。
「お疲れさま」
「……はい」
「どうだった?」
「洗礼を受けました……とても厳しかったです」
「でしょ」
京子は笑った。
「それでもまた来る?」
「来ます!!」
答えは即答だった。
外に出ると夜風が冷たい。
千夏は胸の奥で思った。
今日一日私は“厨房に立たせてもらった”。
それは叱られたことよりも、
失敗したことよりも、
ずっと重くありがたい経験だった。
次はもう少しちゃんと厨房に立てる気がした。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる