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1:年上上司の口説き方

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「濱口」
「はい!! なんでしょうか、奥村部長!!」
「……なんだ、この資料」
 
 部屋の中に緊張感が走る。呼ばれた男、濱口猛はまぐちたけるは、すぐに上司のもとに向かった。椅子でゆっくりとその資料を見ていた眼鏡の男は、神経質そうな眉をあげ、部下を席から見上げると、はあ、と溜息をついた。美しい銀髪が揺れ、その眼鏡の奥では切れ長のモカブラウンの瞳が静かに濱口を見上げた。
 
「今日、残れるか」
「あ、はい!!残れます!」
「七時までの会議からあがってくるまでに、最低限こことここを直しておけ。あとは自分で考えろ。十五分だけ資料確認してやる」
「ありがとうございます!」
 
 奥村部長!! そう明るく言う声に奥村礼人おくむらあやとは一瞬眉をひそめ、横にまとめた別の資料をとると、その部屋を出た。ほっとした安堵の息が部屋にいた十数人から漏れる。顔を輝かせている濱口に、同僚が呆れたような声で呟いた。

「濱口……オレらまで緊張すんだから、ちゃんと資料つくれよ……」
「でも、今回二箇所だけですって!うれしーなー」
「バカ! お前はまじでバカか!! 『最低限』っつわれてんだろーが。ちゃんとしねーと、お前、今日も日付超えるぞ? 部長は善意で付き合ってくれてんだから、手間とらせんなよ」
「わかってますって」
 
 心配する声をよそに、濱口はデスクに戻ると、うんっと伸びをし、過去の資料と今回の指摘を見比べ始めた。
 今は午後三時。近くの得意先との打ち合わせが四時から五時。今から三十分作業をして、帰ってきてから一時間半はできる。その後、あの気難しい上司はなんと言ってくれるだろうか。そう思うと、少し顔が緩む。

 その楽しそうな顔を見て、周りに座っている彼の同僚たちは、ほんととんでもねえ新人がきたもんだな、と呆れるとともに感心するしかなかった。





「お前さ、奥村部長のこと、怖くねえの?」
「ふえ? はんへへふは?」
「……まあ、とりあえず、まずは口の中のもんを飲み込もうか、濱口」

 突然の同僚達からの質問に、濱口は食べていた箸をやすめて、どういう意味ですか? と逆に問いかけた。珍しくプロジェクト会議が昼すぎに順調に終わり、濱口は、一緒に仕事をしている先輩二人と他部署の二人と共に、近くの蕎麦屋で昼の日替わり定食を食べていた。

「だってさあ……あの人、すげえ恐いじゃん? オーラっての? オレなんか正直歳一個しか違わねえけど、格違いすぎて近づけねえよ。そりゃ仕事のやりとりはするけど、お前みたいにコーチャーみたく、一個一個つかれたら死にそう……神経まいる」
「そうですか? すげえ優しい人ですけどね……」
「どこがだよ! お前、『なんだこれは。全部やりなおしてからもう一度だせ』で何十回徹夜してんだ!?」
「まあ、自分の資料が悪かったのは事実なんで……」

 あんなに一緒に残らせて、申し訳なかったッスよ、と濱口は笑って、漬け物をかじった。

「でもなあ……お前もついてんだかついてねーんだか……うちみてーな特殊な部署で、いきなり奥村さん付きだろ? オレらもお前とは歳がそこそこ離れてるし……まあ……不運か」

 濱口の所属する部署は営業の中でも、特上顧客内の少し変わった顧客を抱えており、部長である奥村がその雑多な環境をとりまとめている。営業一人一人、といっても、元々の支店で個別顧客対応でトップをとってきたものを引き抜き、各担当の仕事の中身は部内でも共有できるレベルとできないレベルが明確にわけられている。非常に個人プレーの多い部署だ。さすがに若手は少なく、中堅社員が多い。
 今年新卒で入ってきた濱口は、なぜかその営業トップ集団の部署に配属された。それだけでも周囲の話題にことかかなかったのに、三課あるうちのどこにも属さず、部長である奥村直属でしばらく面倒をみる、となったのだから、部署内にも激震が走ったのである。さすがに仕事の基本は一課のまだ歳の近い者が教えていたが、見習い同然の新人が部長に直々に指導されているというのは一般的に見ても珍しい。他部署の先輩が恐る恐る尋ねてきた。

「奥村さんってそんなに恐いの? うちの部署でも恐れられてるけどさあ……明細のごまかしきかないって」
「いや、だから恐くはないですって。あと、頭の回転はめちゃくちゃはええっす。細部にも厳しいのは確かっすねー」
「まあ、迫力がな……こんなこと言うとなんだけど、すげえ男前だし。あの人、まあ、クォーターなのもあるかもしれねえけど、顔が整いすぎてるってゆーか、ちょっと一線こえれないキレイさ、みたいなのがねえ? オレ、二人きりだと五分で緊張の限界なんだよなあ……なんつーか……ほら、モデルとか芸能人と一緒にいるみたいで!」

 そう力説する先輩が言うことにも一理ある。奥村部長はフランスと日本のクォーターなのだということはきいたことがあるし、彼のシルバーブロンドはそのためだそうだ。
 
「そういや、あの人、本当は瞳の色も違うらしいぜ?」
「まじで? 今の茶色っぽいのじゃねえの?」
「ああ、前に一人で海外行ってた時あっただろ? あの時は青だったって……相手先の社長とメールしてる時に、『あのきれいなブルーアイの君の上司にもよろしく』ってさあ……」
「まじかよ! ってかそのメールもな……あの人、ほんと魔性だな。海外顧客ってほんと部長のファンばっかだよなあ……」
「日本にあわせてカラコンいれてんのかなー……紫外線対策とか?」
「そうなの? まあ、ありえるか~なんせ社内女子全員の憧れ、高嶺の花の奥村部長様だしなぁ」
 周りで繰り返される上司の噂に、濱口は、奥村部長はファンが多いんだなーなどと思いながら味噌汁をすすった。濱口も奥村のことを難しそうな人だな、と思ったことはある。新卒の自分と十歳も離れているし、何を話していいのかわからない人だな、とも。
 
 しかし、逆を言えば、十歳しか離れていないのだ。完全能力主義で外資の会社とは言え、外から鳴物入りでヘッドハンティングされてきたわけでもない彼が、たった十年でこの営業部のトップにいる。同クラスの人間は皆、彼よりさらに十は年上だ。しかし、彼には妬みや文句など言わせないくらいの実力と迫力がある。いくら社会人一年目の濱口でも、彼がどれだけ頭が良くてどれだけ仕事ができるかを、想像するのは容易かった。
 言い方はきついかもしれないが、自分に時間をさいてくれるのが申しわけなくも嬉しかったし、実は数回、個人的に飲みに連れて行ってもらったこともある。
 先輩たちからはそういう話もきかない。あの人、お金だけ幹事に渡して、歓送迎会と忘年会くらいしか来てくれないんだ、と寂しそうに言っていたのをしっているのだ。自分を気にかけてくれているんだと、ちょっとした秘密をもっているようで嬉しかった。まあ、飲みにといっても食事を奢ってくれて、少しだけ励ましてくれるくらいで、個人的な話は社内の噂以上は知らないのだが。
 
「さってと……戻るか!」
「そうですね~竹田さん、昼から支社じゃなかったですっけ?」
「おー……濱口、これ持って帰っておいてくれ。あの感触だとお前の案ですすめていいだろ。部長に報告しとけよ」
「ほんとっスか!?」

 先輩からの言葉に濱口は表情を明るくさせると、お前はほんといいキャラしてんなあ、と相手はそれにつられるように笑った。
 
「どーなることかと思ったけど、まあ、お前だから奥村部長ともうまくやれてんだろーなー」
 
 ちょっと羨ましい、と言う相手にVサインを出す濱口に、調子のんな、ともう一人が後ろからその頭を叩いた。子供っぽいなと思いながら、それで自分が特別なようで少し嬉しい。濱口は先輩から預かった資料を持つと、足取り軽く社に戻った。
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