変人博士の発明記録

雫流 漣。

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退散煙

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「忍者のように格好良く決めてくださいね、博士」

しなやかな、鈴の音のような声が狭い空間に木霊する。

「もちろんだとも。目を皿のようにして観察してくれたまえ。データを取るのを忘れないように」

応答するのは、白衣にスニーカーのI博士。


「いいかね、これを対象物にぶつけるのだ。狙いを外してはいけないよ?注意して投げるんだ」 

頷く美人秘書の右手には、ちょうど野球の硬球と同じ大きさのボールがひとつ。


「それにしても、これはアレですね、強盗犯に落ちない染料を投げつける防犯用の球によく似ていますね」


肩を回してウォーミングアップしながら話つづける美人秘書に博士が頷く。


「君はまったく勘がいい女性だな。その通り、この退散煙はそこからヒントを得て試作したものなのだ。衝撃が加わると、薄い樹皮加工の膜が破れ、そこから紫煙が立ち上るしくみになっている」


「で、どうなるんです?」


「そうか、私としたことが、そこから先の説明がまだだったな」

I博士は白衣のほこりをはたいたり、屈伸運動を始めた。もったいぶるのが趣味なのだ。


美人秘書は淡々とした様子で「事前報告なし/Cランク」と赤マルをつけてから、肩慣らしを始めた。

「ん?やる気まんまんだね。流石は私の優秀なるパートナー。この代物は退散煙と言ってだな…」

「準備はすみました。さっさと始めましょう、博士」


「おお、これはすまない。だがせっかちはいかんよ、君。とにかく実験をやってみれば君にもわかるだろう。昔から百聞は一見にしかず、と言ってだな…」

「行きますよ」


「まったく。少しくらい話を聞いてくれたっていいじゃないか…」

小声で愚痴をこぼす博士を尻目に、投球体制に入る美人秘書。

「わわわ!!ちょっと待ってくれ、まだ心の準備が…」


「ズババン!!!!」


「アアーッ!!!!」


3メートルという至近距離から放たれた球は、見事に的に命中し、博士の甲高い悲鳴とともに派手な炸裂音が。
次の瞬間、もうもうとした煙が立ち上り、一気に視界が悪くなる。そして煙の中からは、くぐもった博士の声。


「ゲホゲホッ、カウントしてくれ、カウントだ、早く。時間をはかるのだゲホ…」


1…2…3…4……

10まで数え終わったところで唐突に煙が掻き消え、ボールを投げる前と変わらぬ光景が眼前に広がる。
ただひとつ、I博士の姿が見えないことを除いて。


「文字通り煙のように退散するわけですね」

凄まじい速度でメモを取りながら、感嘆する美人秘書。
初回の実験からこう上手くいくのはまれだ。興奮しながら、湿度や温度、磁力など、細部に至るまで綿密に計測し、データ集めに動き回る。
その間中、姿なき博士が的確に指示を与えていく。

4分、経過。

「ぽん」という、コルクの栓を抜いたような圧の加わった空気音がし、唐突にI博士の姿が現れた。 

「どうだったかね」


「素晴らしかったです。煙が消えてからきっかり4分、博士の姿が完全に視界から消滅しましたよ!退散というより、透明人間ですわ」

「ああ、そうだ。ボールから弾け散った薬液が気化し、触れた物質を透明にするのだよ」


そのとき背後から蚊の鳴くような男性の声が。

「水をさすようで申し訳ありませんが」

研究室のスタッフ、A川だ。

「僕は今日、この実験を最初から終わりまで一部始終見ていましたが…博士の姿が消えたようには思えませんでした」


「どういう意味だね?」


「僕の目には、博士の姿が消えずにずっと見えていました」


「そんなはずありません、私には何も見えなかったもの」


語気を強めて反論する美人秘書を手で制し、博士が口を挟む。

「ひょっとして距離の問題かもしれないな。私と君の距離は近いが、彼までの距離は15メートルほどある」


「なるほど。そういうことなら可能性はありますね、流石です博士」

確証を得るため、同じ実験を再度行うことになった。唯一さっきと違うのは配置。
今度は、A川が3メートル離れた場所から美人秘書にボールを投げる。そして、さっきA川が実験を見学していた15メートル離れた地点に博士が立つ。

効果が続いている間、距離を測って前に進みながら、最終的に半径何メートルあたりまで退散煙の威力が達するのかレポートを取るのだ。


「ズババン!!」

「すみません、手元が少し狂いました」

湧き上がる煙が視界を遮り、咳き込む美人秘書。

「君、大丈夫かね、なにか変わったことがあったらすぐに知らせるように」


「問題ありません…博士…ケホッ…」

やがて煙は消滅し、博士が冴えない表情を浮かべた。

「なるほど。この距離からだと君の姿が丸見えだな」


「そうですか…」


「では今から少しずつ前進しながら、目視による確認作業に入る」

タイムリミットは4分。
ゆっくりしている時間はない。
メジャーを手繰りながら、博士が少しずつ距離を縮めていく。

「半径12メートル。うっすら色彩が薄くなっているような気はするがまだまだだ。効果の達している距離とは言いがたい」

ストップウォッチに時折目をやりながらも、ペンを走らせ観察を続ける博士。

「半径10メートル。輪郭がぼやけてきた。いいぞ、この調子だ」

慎重に距離を測りながら
一歩、また一歩と前進する。


「半径8メートル…ややっ?これは意外だ」

「博士、どうなさったのですか?」


「あ、いや…それはその…」

しどろもどろで額に汗を浮かべる博士を見て、美人秘書に不安が走る。


「そんなに真剣にじっとこちらを見て。なにか不備がありましたか?」


「うむ。不備というわけではないのだが…今私がいる位置は微妙なラインのようなのだ」


「といいますと?」


「ところどころ不透明と透明が混同しているのだ。より強く薬液を浴びた箇所と、そうでもない箇所の違いかも…」



「はっきりおっしゃってください、博士!」

煮え切らない物言いに美人秘書の苛立ちが募る。


「では、その…怒らないと約束してくれるかね?」

肩をすくめ、それでいて楽しくて仕方のない様子で観察を続けながら、I博士が答える。

「君はしっかりした大人の女性だ。それなのにイチゴ柄の下着はいかがなものかと」
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