ぽっかり穴

円谷アキタ

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ぽっかり穴

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 みんな、下を向いて歩いている。

 朝の駅は特にひどい。
 階段も、改札も、ホームも、光る四角い画面に顔を吸い込まれた人間で埋まっている。

 だから僕は、スマホを持たない。

 正確には、持っているけれど、家に置いてくる。
 世界を覗くより、世界を見るほうが面白いからだ。

 人の靴の減り方、肩の落ち方、まばたきの回数。
 誰が眠れていなくて、誰が嘘をついていて、誰が泣いたあとか。
 見ていれば、だいたい分かる。

 その日も、僕はホームの一番前に立って、線路の先を見ていた。

 電車が近づく振動が、足の裏から伝わってくる。

 そのとき、三歩横に立つ少女のつま先が、黄色い線を越えた。

 ほんの、数センチ。

 けれど彼女の重心は、前に落ちていた。

 画面は見ていない。
 虚空を見ていた。

 僕は腕をつかんだ。


 「危ない」


 電車の風が、僕らの前髪を揺らして通り過ぎた。

 非常停止のアラーム。汽笛。あらゆる音がぶつかる。

 彼女は驚いた顔で、僕を見た。怒りも感謝もない、ただ目の焦点が合っていない顔だった。


 「なにするの」
 「いや、罪悪感が残るから」
 「……は?」
  「目の前で飛ばれたら、寝覚めが悪い」


 正義感じゃない。
 僕は自分のために引っ張った。

 彼女はしばらく黙って、それからぽつりと言った。


 「今なら、すぐ死ねるかもって思っただけ」
 「それだけ?」
 「うん。電車、ちょうど来てたし」


 僕は理解できなかった。


 「嫌なことがあったとか?」
 「別に」
 「いじめ?」
 「ない」
 「家族?」
 「普通。仲も悪くない」 


 本当に、普通の顔だった。
 泣いてもいないし、震えてもいない。


 「ただ、ふと。ここから落ちたら、終われるなって思ったの」


 終われる。

 その言葉が、やけに軽く聞こえた。


 「怖くないの?」
 「怖いよ。でも——」


 彼女は口を閉じ。また開いた。


 「怖さより、今いる場所から消えたい気持ちのほうが、ちょっとだけ大きかった」


 ホームのアナウンスが流れる。
 遅延のお知らせ。
 ため息があちこちで漏れる。

 彼女は言った。


 「私の中、なんかぽっかり穴があいてるみたいでさ。
 何しても埋まらないの」


 その瞬間、僕は初めて、少しだけ理解した。

 怒りでも悲しみでもなく、空洞。

 痛みがないから、深刻にも見えない。

 周りは誰も気づかない。

 だってみんな、下を向いているから。

 僕は線路を見た。
 もし彼女が飛び込んでいたら、運転士は。
 車内の人は。
 ホームの人は。
 その日のニュースは。
 彼女の家族は。

 穴は、彼女ひとりの中だけじゃ済まない。

 連鎖して、あちこちにあく。


 「さっきさ」


 僕は言った。


 「君が一歩出たとき、周り誰も気づいてなかった」


 彼女は視線をさまよわせる。


 「もし飛んでたら、みんな後から驚く。
 “なんで気づかなかったんだ”って顔する」


 僕は続ける。


 「でも実際は、今も誰も見てない」


 彼女は小さく笑った。


 「じゃあ、あんたはなんで見てたの」
 「暇だから」


 本当は少し違う。

 僕は、穴を探しているのかもしれない。

 自分の中にもある気がして。


 「さ」


 僕は言った。


 「今日はやめときなよ。
 飛ぶなら、せめて誰かに見つからない日を選んで」
 「それ、止めてる?」
 「半分くらい」


 彼女は、黄色い線の内側にきちんと立ち直った。

 次の電車が入ってくる。

 ドアが開く。

 人の波が動く。

 彼女は一歩踏み出して、振り返った。


 「穴、埋まると思う?」
 「知らない。でも」


 僕は少し考える。


 「増やさないことは、できるかも」


 彼女は小さくうなずいた。

 電車に乗り込む直前、彼女はポケットからスマホを出した。

 そして、しばらく見つめたあと、電源を落とした。

 顔を上げる。

 電車が発車する。

 窓越しに、彼女はまっすぐ前を見ていた。

 ホームには、また下を向いた人たちが残る。

 線路の奥に、暗い穴が口を開けている。

 でも今日は、何も落ちなかった。

 僕はそれを確認してから、ゆっくり歩き出した。

 世界は相変わらず、下を向いている。

 それでも、ほんの少しだけ、
 穴は増えなかった。
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