上 下
4 / 16

ラッキーボーイ

しおりを挟む
 マリアは胸の奥をぎゅっと掴まれたような気になったが、それをさらなる苛立ちで覆い隠す。
 一方、男はマリアの気も知らず、今度は「ああっ!」と嬉しそうな歓声を上げた。
「――!?」
 あの飄々とした顔の下に、こんなにも沢山の表情が隠れているのが不思議だ。
 好奇心が沢山詰まっているのか、それともただ落ち着きがないだけなのか、分かりかけたような気がしてもするりと手の中から抜け出てしまって、なんともつかみにくい。
 それが、自分をイライラさせるのだと、マリアは心の中で自分の気持ちに説明をつけた。
「ああ、悪い。――ほら、あっち」と男が指差した先――マリアの後ろには、夕焼けを背景にビルのシルエットが広がっている。
 男がわずかに膝をかがめてマリアのすぐ横に顔を並べた。息遣いさえ聞こえそうなほど近づいた頬がわずかに触れあった。
 ――っ!?
 一気に上がった自分の心拍数。

「あそこのビルとそっちのビルの間、わからない?」
 男はそんなマリアの様子など気にせずにまっすぐ空の向こうを指差している。
 その下心のなさに、かえってマリアの鼓動が早くなった。
 自分だけが振り回されているのが気に入らない。さらに、それを意識する自分が悔しくて、マリアは努めて冷静を装って男の視線の先を追う。
 ビルの向こうに、夕日を背に黒いシルエットになっているが、山の稜線が見える。その中で一つだけ頭を出してなだらかなラインを描いているのは――
「富士山?」
「そう。後、ちょっと……見てて」
 男が指差した先では、真っ赤な空を楕円形に切り取った金色に輝く太陽が沈みかけている。
 わっ――
 頭上高くあるときは、眩しすぎてその輪郭さえ見ることはできないのに、太陽が、夕焼けを背にすごい存在感を示していた。
 黒いビル群のシルエットの向こうに一つだけ、赤い太陽が強いコントラストを描いているこの――とても壮大で美しい光景。周りにおもねることなく凛としたその姿は、秀麗というよりも、どこか崇高で力強い。
 ――そんなことを考えているうちに、陽は山の影へとゆっくりと落ちていき、それに伴って、雲が燃え尽きる前の最後の輝きを受けてさらに赤くなる。
 富士山のシルエットに太陽が重なり、きらめく光が長く伸びたその瞬間――。
 胸の奥で生まれた感動が、喉の下までせり上がってきた。
 それを横目で見た男が、にやりと笑う。

「まるで、台座の上の宝石みたいだろ?」
「……あ……うん――」
 この気持ちを表現したいのに、言葉がうまく出てこなくてもどかしさばかりが積もる。
「別に、無理にコメントなんかいらんよ。その表情だけで十分。……本当に大事な言葉なんてすぐに出てこないしさ、きれいなモンみて、ここが動けばそれでいいんだよ」
 達彦は拳で自分の胸あたりをトントンと叩いてみせた。

 太陽が富士山の台座にすっかり沈むまで、二人で黙って見送った。
 すっかり沈みきり、空気が闇を含み始めても、マリアはまだ西の空から目を離せない。

「――自然って、すごいよな」
 空がすっかり真っ暗になって眼下にきらきらと星をこぼしたような照明が点ききったころ、ポツリと達彦が口にした言葉が、マリアの心に自然に沁みこんだ。
 自分のいた世界は、どんなに狭かったのだろうか。

「こんなの、初めて……」
 喉の奥が乾いていて、声が少し掠れた。
 ようやく言葉を口にしたマリアを見て、男は嬉しげに笑う。
「夕方も言葉がでないくらいだが、俺は夜明けのほうを見た時に、言葉を飲み込んだよ」
「朝もこんな光景が見られるの?」
 驚いて振り返ったマリアに、男は意外にも柔らかい微笑みを返す。
「東京からは無理だけど。……ま、機会があったら、見せてやるよ」
「機会って――」
 夢のような光景から、一気に現実に引き戻されたような気がした。
 良く考えたら、自分はこの男にナンパされたのだった。
「なあ」と彼女に向き直った彼に、マリアは身構えつつ視線を戻す。
「そんなに構えるなよ。――さっきの事務所、モデルエージェンシーで、さっきの爺さんはその会長」
「あなたは?」
「俺? ――所長」
「うそ」
「見えないだろ? 実際、何もできてないしな。……で、あまりにも不甲斐ないから、試されてたの」
 一旦言葉を切って、男はマリアをまっすぐ見た。
「――将来有望なモデルの卵をスカウトして来られたら、少しは認めてやってもいいってさ」

「つまり、あなたは、私に将来性を感じたってわけ?」
 疑うような視線を向けると、男は噴き出した。
「将来のことなんか、わかるわけないだろ」
「つまり、誰でもよかったってコト?」
「どんな子がいいかなんて、最初から決めてたわけじゃないけど、――閃いた」
「……勘ってコトね」
 おとなしくついてきた自分がバカにされたような気がして、マリアは胸の奥のムカつきを押さえながら、低い声で言った。

「言い方が悪いかもしれないけど、モデルの卵を探してる俺の目の前に、女の子が突っかかってきた――それが理由じゃだめかな?」
「それだけ?」
「それだけで十分。だって俺、ラッキーボーイだもん」

 さっきまでへらへら笑っていたのに、この台詞だけは真剣な表情で彼は堂々と言い切った。
 その自信と、これまでの態度とのギャップーーこの男の風貌ラッキーボーイに、マリアはどこから突っ込んでいいか分からない。
 つかみどころのない男に、マリアはすっかり毒気が抜かれてしまった。
「そんなに適当で、いいの?」
 十歳以上も年下のマリアに呆れられても、彼は気にした様子もなく、むしろ嬉しそうだ。
「大丈夫。――爺さん、満足してた」
「あの人が満足してても、決めるのは、私でしょ」
「まあ、そうだけど。――君なら、やると思う」
「……それも、勘?」
「いや、確信。――君は、もっと大きな世界を相手にできる素材だ」
「いいの、そんなに簡単に言って? モデルの世界って厳しいんでしょ?」
「厳しいのは、どこでも一緒。――どうせ嫌な思いするんだったら、実のあるほうがいいんじゃない?」
 そう言われて、ふと、同級生の――自称『仲間』たちの顔が過ぎった。
 小さなことにいつまでもしがみついている彼女たちと一緒にいても、つまらないのは確かだ。
 確かに、男のいうことも一理ある。人間関係に不調和は付き物だと知ってはいても、だからといって、何のメリットもないのにそれを甘んじて受けるのは苦痛でしかない。

「――やるよね?」
 腹立たしくて、オジサンなのに少年みたいに純粋なところがあって、それでいて老獪なところをちらりと見せるこの男に興味を持った時点で、マリアの答えは決まっていたのかもしれない。
 マリアが小さく頷くのを見て、男は本当に嬉しそうな表情を見せた。
「ダイヤモンドの原石に、ダイヤモンド富士。俺って、やっぱりラッキーボーイだなあ」
 煙草を咥えたその横顔は、ボーイというには程遠い年齢――むしろ中年――だったが、こんな些細なことで嬉しそうに声を上げられる彼の内面は、確かに少年といってもいいかもしれない。
「ダイヤモンド富士?」
「ああ。さっきのあれ。すごかっただろ? 日本一のダイヤだ」
 心は少年だからなのか、日本一とか世界一とか宇宙一とか言う言葉に弱そうだ。
 そう考えると、自然にマリアの笑みが零れた。
「しかも、この場所から見られる時期が年に二回の数日だから、珍しいし、その日が晴れるかってのも大事」
「ほんとに、ラッキーなんだ」
「言っただろ。俺、ラッキーボーイだから――」自信たっぷりに男は微笑む。「――俺に拾われた君も、うまくいくと思うよ」

 堂々とそう言い切った男の顔が、マリアの胸の中に刻まれた。


 数日後、彼は手土産を持ってマリアの家を訪れた。
開口一番「娘さんをください!」と挨拶もそこそこに玄関口で許しを請い、親に誤解を与えたのも、今となってはいい思い出だ。
しおりを挟む

処理中です...