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 マリアは、初めて達彦が家に来た12年前のあの日のことを思い出して、心の中で笑う。
 達彦の事務所とマネジメント契約を交わしてから分かったことだが、彼が松ちぐさと婚姻関係にあったのは、事務所関係者なら誰でも知っている事実だった。
 それを聞いてなんとなくがっかりしたマリアは、自分はあの誤解がいつか瓢箪から駒となることを、心の隅で願っていたのだと思い知らされる。

 けれど、こういうのは――、本当に、タイミングなのだ。

 マリアの淡い恋は、淡いまま、濃くも薄くもならず、ドライフラワーのように心の中で咲き続けた。
 ラッキーボーイを自負する彼は事務所内ではいつも飄逸な表情をしており、あの日の感情表現豊かな彼の方が、一緒に見たダイヤモンド富士と同じくらい珍しいのだということを、数ヶ月でマリアは知る。
 少なくとも、幸せそうにか、あるいはせめて不幸せそうにしてくれていたなら、手を出してはいけない相手だと、自分に言い聞かせることもできたのに。
 素直に嬉しさを表現したかと思えばいい加減な仮面をつけ、無関心なのかと思えばピンポイントで優しい言葉を口にする――不思議なバランスで構成された男がマリアの気持ちを惹きつけてやまなかった。
 何に対しても拘泥なく、それなのに、時々鋭い一矢を放ってくる。――いや、もともと鋭いのに、それを表に出さないと思うのは、買い被り過ぎだろうか。

 マリアは、屋上の鉄柵に両肘をつき、ビルの群れを見ながら煙草を吹かす達彦を見た。
 彼は、何も知らない。……知らないはずだ。
 知らないはずなのに――隠していたことが全部バレているような錯覚にとらわれる。
 そうして、マリアの心はまた、乱される。


 ビルの向こうに視線を向けると、あの時と同じように、なだらかな稜線が小さく見えた。ただ――季節のせいか、あの時と違って――空と山の境界線はぼんやりと霞んでいる。

「……どうして、行かなかった?」
 まっすぐ前を向いたまま、達彦が口を開いた。その声が冷たく響いたのは、気のせいだろうか。
「空港まではいきました……けど――」
 出国手続きをしたものの、ユウヤが持っていたスポーツ新聞のトップ記事――女優松ちぐさと元所属事務所長の離婚記事を見て、ここまで引き返してきたのだが、それを正直に話すべきか――言い淀んだマリアに、達彦が一瞥を投げた。
「ユウヤは女とケンカするような性格じゃないだろ?」
「私が、振って来たんです」
 達彦の言葉に促されて口から出た台詞に、彼の表情が一瞬だけ微妙に歪んだ。
 それが、何を意味するのか、マリアには分からないが、そんなことを気にしている場合ではない。

「柏木さん――」
 ちょうどいいタイミングというものは、あの時二人で見たダイヤモンド富士のように、めったに訪れることなく、そして、すぐに過ぎ去ってしまう。それを、マリアは三十年近く生きてきて知っている。
「あの時の、言葉の続き、言ってもいいですか?」
 達彦は表情をほとんど変えず、次の煙草に火を点けた。 
 その言葉を言っていいのはわかっている。問題は、何かに執着するでもなく、来るものは拒まず、去るものは追わずの彼が、それを受け止めてくれるかどうかだ。


 数ヶ月前――街中にクリスマスソングが流れ、人々が誰に対しても優しくなれる季節が始まったころに訪れたチャンスは、下手に手を出したら脆く崩れ落ちるような繊細なものだった。
 そして、彼女は手を出すべきではないと知りつつもそこに手を出して、達彦と――少なくともマリア自身は――まともに顔を合わせられないような状況に陥ることになる。
 それでも後悔はしていないし、あれは、今でも彼女にとっては達彦と初めて会った時と同じくらい大切にしたい思い出だ。
 そして、今なら、あの時に言わせてもらえなかった言葉を、伝えてもいいような気がしていた。
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