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それぞれの思い
しおりを挟むマリアが揺れた瞳の真意を確かめるようと決心をつける前に、達彦の表情はすぐにいつもの捉え所のない嗤いに戻った。
「ちょっと、用を足しに行くだけだから、そんなに寂しがるなよ」
それから、まるで聞き分けのない子供にするように、マリアの頭の上に手のひらを軽くおいて、店の奥へ向かう。
その背中を目で追った彼女の目の前に、ことんとオーバルの白い皿が置かれた。
美恵子が柔らかい眼差しでマリアを見つめている。
「アヒージョ、っていうの? 見よう見まねで作ってみたの。試食してくれる?」
薄切りにしたバゲットと、にんにくの香りが食欲をそそるマッシュルームのオイル煮に視線を落とすと、おばさんの作る料理だから口に合うかわからないけど、と照れながら美恵子は笑った。
「お通しも、マリネも、とても美味しかったです」
「あら、お上手」
いえ、と小さく首を振ったマリアだったが、実際に美恵子のアヒージョは、そこらのスペインバルに負けないくらい、美味しかった。気遣いも料理も上手い美恵子に対する小さな嫉妬心や対抗心など、吹き飛んでしまうくらいに。
「……柏木さん、よくいらっしゃるんですか?」
気になる? と美恵子は包丁を持つ手を止めて意味ありげにマリアを見る。
その瞳に、達彦に対する気持ちを読み取られてしまったような気がして、マリアは目をわずかに伏せた。
「達ちゃんと私は、幼馴染みなの。私がこのお店を受け継いだときから、なにかにつけて気を配ってくれてて。――でも、仕事以外で女性をつれてきたのは、あなたが初めて――」
「いえ、私は、仕事関係で――」
マリアは、達彦との社会的な関係を真面目に説明する。
「あら、そうだったの? ごめんなさい。達ちゃんが気を楽にして飲んでたからてっきり――」
「それは、私が年下だから、じゃないですか?」
美恵子は、そうかしらね、意味ありげな笑いとともに首を捻り、でも――と続けた。
「ここだけの話、あんなにいい顔して飲むのを見るの、二回目よ」
「いつもはもっと――?」
「ええ、もっと無表情」
そっちの達彦の方が容易に想像できる。
マリアは美恵子と顔を見合わせてクスッと笑った。
おいしい料理とお酒と雰囲気のいい店内のせいか、それとも美恵子の客あしらいが上手いからか、あるいはもともとの性格のせいなのか、いつの間にかマリアの心が緩んできた。
「聞いてもいいですか?」
返事の代わりに、美恵子はカウンターの反対の端で静かに飲んでいるもう一人の客の様子を窺った後、白いタオルで手を拭って笑顔を返した。
「――その……一回目に、ご一緒……だったのは――?」
松ちぐさかと、思った。そうであったなら、彼を諦められるかもしれないと、思った。
「一人よ。――でも、思い出し笑いをしながら、にやけた顔で飲んでたわね。もう十年以上も前のことだけど」
その相手が千草でなかったことに、マリアは、なぜかほんの少し安心した。だが、にやけた顔で一人酒を飲む達彦も、らしくない。
それを想像しているところへ、美恵子と目が合って、やっぱり二人で笑ってしまった。
「……達ちゃん、顔には出さないけど、あれで結構繊細なのよ。夢見――変にロマンチストなところがあって……よく言えば純粋、なのかもしれないけれど――」
「なんとなく、わかります」
夢見がち――おそらく、美恵子がぼかしたその言葉は、マリアの中の達彦のイメージにも当てはまる。
でも――と美恵子は、微笑んだ。
「あなたみたいな方がそばにいるんだってわかって安心したわ」
昔から不器用で、自分の気持ちをうまく伝えられなくて、損ばっかりなの、と話す美恵子の表情には、ただの幼馴染み以上の感情が潜んでいるような気がする。
「美恵子さん、ひょっとして、柏木さんのこと――?」
「やあね。私は、幼馴染みとして彼の将来が心配なだけ。あなたこそ、気になってるんでしょう?」
笑って美恵子はそれを否定したが、マリアは半ば確信していた。
達彦の妻が美恵子なら、潔く彼をあきらめられていたかもしれない。
マリアの腹の奥がふつふつと煮え滾ってくる。
達彦の回りにはこんなにも心配し、見守っている人がいるのに、当の本人は、ことなかれ主義から派生した愛情のない婚姻関係を結んでいる。他人の家庭の事情とはいえ――なんとも理不尽な話だ。
彼さえきちんと自分の主張をしていたら、松ちぐさも、美恵子も、マリアも、そして、達彦本人でさえもう少し幸せそうに笑えていたかもしれないのに。
「たとえそうだとしても、そっちの未来は明るくないですけどね」
何しろ相手は既婚者だ。手を出すわけにはいかない。
そばにいて刺激がもらえるだけで、満足しなくてはいけない。そして、そのために、マリアは仕事を干されないようにがんばっているのだ。
「信じていればね、いつかは上手いほうに転がるものよ」
「そうだと、いいですけど」
「念じれば通ず、よ。……何事も念じないと始まらないわ」
「……念じても、いいのでしょうか?」
「思ってるだけなら、誰の迷惑にもならないでしょ。――でも、もしも、チャンスが来たら、そのときは迷わずに動くことね。そこで怖気づくと、もう動けなくなっちゃうから」
にっこりと笑ってから美恵子はマリアに背を向け、ホットボックスに手をかけた。
「――楽しそうだな。何の話だ?」
そこへ、ちょうど本人が戻ってきた。少し酔いを醒ましてきたのか、先ほどよりも顔つきがしっかりとしている。
美恵子が取り出した熱いお絞りを彼に手渡すのを横目に見ているうちに、先ほどマリアの腹の底で生まれた、煮えるような想いが、のほほんと笑いながら椅子に腰かけた達彦に向かった。
松ちぐさがどれ程達彦のことを愛しているのかわからない。なんども熱愛を報道されているのだから、達彦の言うとおり、彼女も仕方なく結婚したのかもしれない。
それでも、せめて、そんなに不毛な婚姻関係ではなく、愛情のある関係を築いてくれていたら、こんなに腹が立つことはないのに。
「結局、柏木さんは、臆病なんですよねって話です」
「ん?」
刺々しく言い放ったマリアに、達彦が笑みを返す。その笑いは、彼の心を守る盾のようで、いつもこれにマリアの思いはかわされるのだ。
そして、そんな風にあしらわれるから余計に、マリアは焦れる。
「俺を、挑発しようとしてるんだったら残念だけど、――臆病なのは自分でもわかってるよ」
この、言葉も、彼の盾だ。
だからマリアは、さらに攻撃的になる。
「なんで、怒らないんですか? もっと自分の気持ちを出せばいいじゃないですかっ!?」
なおも食いついてくるマリアに、達彦は小さく息を吐いて、体ごと彼女に向けた。こういうちょっとした仕草に、彼の誠実さが現れる。
だから余計に、普段のやる気のなさが偽りの姿のように思えて、マリアは彼から目が離せない。
「……世の中にはどうしようもないことが沢山ある」
何もかもを諦めてしまったかのような態度に、マリアの苛立ちが増す。
「そうじゃないことも沢山あります。私が今、こうしてモデルとしてやっていけていることも――」
「君にはそうなる道が用意されていた、ただそれだけのことだ」
「――その道を歩きたいって思って進むのは、自分ですよね? 柏木さんには、そういうの、ないんですか? 正直……モデルをやらないかって言われた時は、半分無理かなって思ってました。けど、柏木さんの――柏木さんがラッキーボーイなら、その人が用意してくれた道も幸運に縁取られているのかもしれない。そうであれば、それに賭けてやりたいって、思ったんです。やりたいって思って、そっちに進まないと、何にも変わらないんじゃないんですかっ!?」
「……やりたいって、気持ちねぇ……」
たぶん、彼は相当酔っていたのだと思う。
そうでなければ、マリアの気持ちに全く気がついていなかったか、だ。とはいえ、その仮定は人の機微に敏感な達彦にしては、成り立ちづらいのだが。
「――例えば、いまここで、俺が君を抱きたいっていったら、それは、なんとかなるのか?」
「……」
マリアは言葉を失った。
どう、答えるべきか。
「――だろ? そういうのは、思うだけ無駄なんだよ。だから、みんなそう思わないように抑えてる。思っても、仕方ないからだ」
言い捨てた達彦に、マリアは目の前のアヒージョの皿に視線を落とす。
こんな展開になるとは、思ってもいなかった。
けれど。
今このタイミングを掴みそこなったら、もう、後がないような気がして。
細くて、ガラスのように繊細で、強く握ろうとしたら、砕けてしまいそうで――だから、マリアは、慎重にその言葉を口にした。
「……本当に、そう思ってるんですか?」
達彦の表情がわずかに強張った。
その瞳は、それ以上口にしてくれるなと願っていた。
分かってはいたけれど、だからこそマリアはゆっくりとその言葉を口にした。
「柏木さんが、少しでもそう思ってくださっているなら――」
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