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昭和感漂うホテル1(達彦サイド)

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***


『抱いてください――』

 言ってくれるなと願ったのに――あれは、軽い冗談だと受け取ってくれればいいとさえ思ったのに。
 マリアは清々しい顔でそう言い切った。
 結局、彼女に押し切られるような形で、二人は近くのホテルへ場所を変える。
 看板の電球が切れかけ、薄汚れた白い壁に雨垂れの黒い筋がついているような、昭和の香りが漂っている、そんな――すぐにでも帰りたくなるようなホテルを敢えて達彦は選んだ。
 入口の前で足を止めたのは、最終確認のつもりでもあった。
 だが、それは彼女にとっては逆効果でしかないようだった。あるいは、達彦が怖気づいたとでも思ったのか。
「この後、何が起こっても、柏木さんには迷惑をかけません」
 まっすぐに見つめられて、達彦は折れた。
 マリアは、薄汚れてところどころにシミのある赤い絨毯が敷き詰められているロビーで、立ち止った。奥の方から嬌声や怒声がかすかに聞こえてくる。
「嫌なら、今からでも家まで送っていくけど?」
「いえ、こういうのも、……新鮮です」
 すかさず提案した達彦に、マリアは言い繕う。
 ここまで来て、後に引けないのだろうか。いい具合に入っているアルコールも、このあとの展開に背中を押しているのかもしれない。
 達彦は小さく肩を竦めてから奥へ進み、空室のランプが点滅している部屋に入った。
 もう、どうにでもなれだ。
 自分の運の良さで乗り切るしかない、と達彦は腹をくくる。
「なんだか、……レトロですね」
「古ぼけているの間違いだろ」
 マリアの言い様に達彦は苦く笑った。
 いまどき、丸い回転ベッドに天井も壁も鏡張りなんてところ、探しても珍しい。達彦だって、よほどの事情がない限り、こんなところに用はない。
 まあ、そっちの方は、もう長い間ご無沙汰だが――と彼は心の中で自嘲する。
 マリアが丸いベッドの前で、きょろきょろとあたりを見回している間に、達彦は風呂の準備を口実に、浴室に向かった。ご丁寧に、浴室内にも大きな鏡が一枚設えてあって、そのセンスの悪さにも苦笑する。

(本当に、これでよかったのだろうか)
 浴槽にたまっていく水が作る小さな渦を見ながら、達彦はじっと考える。
 美恵子の店を出てから、ずっと頭の中でその疑問がぐるぐると廻っていた。
 正直、あの一言でこんな展開になるとは思ってもいなかった。
 あんなに簡単に、自分を誘ったマリアの真意が分からない。
 可能性は、二つだ――本当に自分を好きだからという理由と、枕営業という可能性。
 もちろん、そんな営業をされたところで、仕事の割り振りを変えるのも面倒だし、そんなことを考える彼女ではないとも思う。
 だが、果たしてこんなくたびれた自分を、マリアが本気で好きだとは信じ難い。
 ――で、結局、どうすればいいのか、わからない。

「どうしたものかな……」
 達彦は、お湯の温度を調節しながら口に出してみた。
 マリアとそうなることを全く望んでいなかったといえば嘘になるが、問題はマリアの気持ちだ。
 彼女を過剰なほど意識していたからこそ、意識的に彼女のことは見ないようにしてきた。だから、彼女が本当はどう思っているのか、普段なら簡単に推測できるはずのことが、できなくて、達彦は今悩んでいる。

「柏木さん……?」
 あまりに遅いので、マリアが浴室の外から声をかけてきた。
 まだ、達彦の考えはまとまっていない。
 彼はとっさに服を脱ぎ、脱衣場に放り投げながら「先、シャワー借りるわ」とシャワーの栓をひねった。
 さすがに古いホテルだけあって、温水器の性能も良くないらしい。
 シャワーヘッドから最初に出てきた冷たい水が頭を冷やすのにちょうどいい。
 これで稼いだ時間がマリアを酔いから醒ましてくれたらいい、とも。
 浴槽の水がいっぱいになる頃には、達彦の理性はすっかり戻って来つつあった。
 やはり、ここはマリアのためにも、なにもせずに帰すのが正解だと結論づける。
 どんな理由であれ、こんなくだらない男に体を差し出すべきではない。
 だが、幸か不幸か、実際は思い通りにはならなかった。
 ガタンと扉が開いて、そこに白いバスタオルを一枚だけ巻きつけたマリアが立っていた。
「……私が、誰にでもこんなことをしていると、思わないでください」
 うつ向いたままちいさく言った彼女は、バスタオルをはらりとそこへ落とす。
「――っ!?」
 達彦が驚いている隙に、彼女はシャワーの下に立っていた達彦に抱きついてきた。あまりの驚きに、彼女の体をじっくりと鑑賞する余裕もない。
 降り注ぐ湯にしっとりと彼女の髪が濡れ、立ち上った甘くて清しい香気と、しっとりと吸い付くような肌の感触が、達彦の本能を揺さぶる。
 密着しているマリアの体がわずかに震えているような気がして、ようやく達彦は湯温を低めにしていたことを思い出した。
 これで頭を冷やしてくれるならいいが、風邪を引かせるわけにはいかない。
 だが、静かに解こうとした彼女の腕は思ったよりも固く巻きついていて、仕方なく彼は手探りで湯温を上げる。
 そうして、努めて冷静に彼は「どうした?」と尋ねた。心中では、先程の出した結論が揺れ始めている。

「柏木さんが、遅いから……」
 私も一緒に、と思って――との後半部分は水音にかき消されながらも、かろうじて達彦の耳に届いた。
 声は小さかったが威力は相当なものだった。
(こっちの気も知らないで――)
 達彦は観念したように、大きく息を吐いて、彼女の頭に直接シャワーの湯がかからないようにヘッドの角度を調節した。

「怖じ気づきましたか?」
 胸に頬を押しつけたままマリアが聞く。その声が、ダイレクトにねじ込まれたかのように、胸の奥がくすぐったい。
「いや、こんなことされて――、逆に抑えられなくなりそうで怖い」
「抑え……ないでください」
 達彦にしがみつく腕が、わずかに強くなった。思わず抱き返しそうになって達彦は、中空で拳を作る。
「君の未来がかかってるのに? ……こんなことをしても俺は、君になにもしてやれないし――」
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