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男爵 2

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「寝台は空いていないようですね。では、私たちは長椅子で――」
「長椅子って、え、あ、ちょっ――」
 ベッドの上の二人に情欲を高まらせた男爵は、先ほどよりも強い力で手首を引っ張り、前室にあった長椅子の上に彼女を突き倒した。
 ホールでのダンスのたどたどしさとはまるで正反対の素早い動きで彼女の上に覆いかぶさり、まくり上げたスカートの中に手を突っ込んでくる。
 カペラは、反射的に抵抗した。
「恥ずかしがるほどの歳でもなかろうに」
「やめてくださいっ!!」
「ああ、そうか。貴族の娘は、嫁に行くまでは、生娘を通すんだったか」
 チャップマン男爵の瞳が、まるで極上の肉を目の前にしたかのようにいやらしく光る。
 こんなことになるなら、やはり昼間にエリックに最後までせがめば良かった。
 心の片隅で後悔しながら、カペラは思い切り足をばたつかせる。
 おとなしくしろと言われても、素直に従えばそのあとがどうなるのかわかっている。だから、彼女は抵抗し続けた。
 やたらにばたつかせた足が、彼の股間を捉えた。ぐふっと痛みに顔を歪ませ彼が、一瞬怯む。
 その隙に逃げ出せば良かったのだろうが、何が起こったかわからずにいる間に彼は身を立て直した。
 そして、恐ろしい形相でカペラに馬乗りになったまま身を起こし、がっちりとその足と体重で彼女を押え付ける。

「暴れるな」
 そう言われて素直に聞けるはずもなく、カペラはなんとか彼から逃れようと、さらに激しく拳を叩きつけたり足を蹴り上げたりする。
「言うことを聞けないのなら――」と、男爵が上着のポケットから取り出したのは小さな小瓶だった。
「これを試してやろう」
「なんですか」
「気持ち良くなる薬、だ。痛みも感じない。――ほら、蜜液シロップになっているから、ちょっと我慢して飲み込めばいい」
 まるで子どもの相手をするように、笑顔を作った男爵がシロップを顔を近づけてくる。しかし、いくら笑顔を作っても、下心は隠し切れていない。
 カペラは迫りくる瓶と彼の脂ぎった顔から逃れるように、顔をそむけた。
「いやっ!」
 拳を叩きつけても、足をばたつかせても、男爵にはさほどダメージを与えられない。せいぜい椅子がガタガタ揺れる程度だ。だが、手出しができないという点では、効果がないわけではなかった。
 埒が明かないと踏んだチャップマン男爵は、瓶を口に咥え、左手で彼女の両手を押さえつける。それから、瓶を右手に持ち直し、口で栓を抜いて彼女の口に、強引に押し込もうとし始めた。
 腕の自由を奪われたカペラに残された抵抗は、首を左右に振ることだけだ。
「おとなしくしないか。これだけしかない貴重な薬なんだぞ」
 そういわれても、抵抗を止めない彼女に手こずった男爵は、蓋を開けたままの瓶を再び自分の口に加え、空いた右手でカペラの頬を横から押さえつけると、顎関節あたりをぐっと掴んで、彼女の口元が緩んだ隙に顔を寄せた。
「――んっ――」
 強引に唇を重ねた彼がそのまま瓶を半分ほど押し込むと、トロリと粘度の高い液体が彼女の口の中へ流れ込んでくる。
 首を横に向けたかったが、顔を押さえられているので、動かすことさえできない。
 そうこうしているうちに、液体は歯の裏から舌下へと伝い落ちていき、唾液と混ざり始めた。
 濃厚な草の香りが口の中に広がり、舌根が少しピリピリした。匂いと刺激で唾液がたまっていく。その感覚が我慢できなくてカペラはそれを嚥下した。
 カペラの喉がなった瞬間、達成感からかチャップマン男爵の力が一瞬緩んだ。
 その一瞬を逃さず、カペラは自由になった両手で彼の胸を思い切り押し返し、続けざま、浮いた体の下で自由になった足で、今度は狙ってそこを思いっきり蹴り上げた。
 腿がチャップマン男爵の針たぎった股間をとらえ、呻きながら彼が後ずさる。
 それを待ち構えていたカペラは長椅子から身を起こし、部屋を飛び出した。
 無我夢中で適当に廊下を何度か曲がって、回廊を走り抜け、気が付いたときには外庭へ出ていた。
 息が荒く、身体が熱い。
 夜気が、熱く火照った頬を撫でていくのが気持ち良かった。
 改めて考えてみると、いくら相手が礼儀や順序を無視する成り上がりの男だとしても、サーシスの頼みの綱である事は間違いない。いずれは彼をマイヤーズ家に迎え入れなければならないのだから、あそこは我慢しておくべきではなかったのか。

 ――いや。それでも。

 チャップマン男爵のカペラに対する態度は、どうしても許せない。
 思い出せばふつふつと怒りが湧き返して来る。ホールに戻る気にもなれずカペラは気持ちを落ち着けるため庭を歩き始めた。
 館の光が届く薄闇に包まれた庭にも、何かが潜んでいる気配はなくならない。
 あの体格で、あの状況で、チャップマン男爵がすぐに追いかけてこられるとは考えられないが。
 警戒しつつ、自分の息を抑えながら耳をそばだてる。と、荒い息遣いと喘ぎ声が聞こえてきた。
 城内だけではなく、闇にまぎれて、この庭でも情事が行われているのだ。
 先ほど出くわした、突然の他人が扉を開けても気にもとめず悦楽に没頭する男女を思い出し、頬が熱くなった。
 またもしそんな現場に遭遇してしまったら自分の方が動転しそうな気がする。
 カペラは熱くなった頬を手のひらで冷やしながら、人の気配がなくなるところを求めて歩き続けた。
 他人の情事を実際に目にしたせいか、あるいは強引に犯されかけたせいか、先ほどからずっと胸のドキドキが止まらない。
 あのまま逃げ出さなかったら、自分もあの二人のように、他人が急に現れても気がつかないほど乱れることになったのだろうか――そこまで考えて、チャップマン男爵の顔を思い出したカペラは、頭を横に振ってそのおぞましい想像を断ち切った。
 そして、相手をエリックに変えて続きを想像しかけ、恥ずかしくなったカペラは、その想像も打ち消した。

「なんて、下品な――」
 口にして自分を戒め、意識を庭へ向ける。
 所々に配置してあるランタンを頼りに歩いていたのだが、どうやら城の明かりがかすかにしか届かないほどの暗闇の中に迷い込んでしまったようだ。
 きれいに刈り込んだ背の高い木でいくつかのパートに区切られ、観賞用の花々が見た目を重視して植えられている庭の中心部とは違い、植物が小さな区画に分けて種類別に植えられている。外縁部付近に設えてある使用人用の菜薬草園ハーブガーデンのようだ。
 カペラは脇に備え付けられていたベンチに腰を下ろす。
 ようやく一人になれると、安心すると同時に、冷静に考える余裕も出てきた。
 反射的に逃げてきてしまったが、良かったのだろうか。
 しかも、たまたまとはいえ、男性の大事なところを思いっきり蹴り上げてしまったし。
 そのせいで破談になったとしたら、領民には悪いが、それはそれで構わないような気がした。
 カペラは大きく息を吐く。
 まだ、燻ったものが残っているのか、身体の奥の熱さはひかない。
 ひんやりとした空気を体の中に取り入れ、息を整えようとするのだが、どれほど深呼吸してみても荒い息も動悸も治まらなくて――それどころか、庭へ出た時よりも激しくなっているようでもある。
 意識はしていなかったが、チャップマン男爵とのあの体験がそれほどのショックだったのかもしれない。
 などと考えている時、背後でがさりと垣根が揺れた。
「誰っ!?」
 カペラは反射的に身構え、振り返る。
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