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婚儀 1
しおりを挟む翌朝早く、カペラはエリックに頼んで馬を用意させた。
「どこへ、行かれるおつもりですか?」
「いつものところへ。……気持ちの整理をつけたいの。心配しないで、午後の予定には間に合うように戻ります」
午後にチャップマン男爵の使者を迎えることになっていた。
あんなことがあったのに、と思ったが、下手に騒ぎ立てれば彼の立場も悪くなるのだろう。
断ることができないのはわかっている。
だからその前に、せめて気持ちの整理だけでもつけておきたかったのだ。
「……ご一緒しても?」
「いいの?」
「お嬢様がそうおっしゃるだろうと思いまして、午後の準備はすべて済ませておきました。もちろん、馬の方のご用意も」
頬を撫でる爽やかな風、小気味良いリズム、木々の香り――彼女はこれまでの人生を思い返しながら、木漏れ日の中を黙って馬を駆った。
エリックは彼女の邪魔にならないようにリズムを上手く合わせて後ろをついてくる。
いつもの小高い丘の上から馬に乗ったまま眼下を見渡すと、サヌール川を挟んだ向こうのなだらかな丘陵に昨夜訪れたアルダートン城が小さく見えた。
優しくそよぐ風に彼女は目を閉じる。そうしてみると、昨夜のことが、まるで夢のようにも思えてくる。
――夢であったなら、いいのに。
視界を遮ると、すべてのものが彼女の世界から遮断された。
その遮断された真っ暗な世界に、彼女は小さな頃に見た金色の海が波打つ様をはっきりと思い浮かべる。
初めてここを訪れた時、カペラはまだ七つだった。
その頃はまだサーシスでも茶会や狩猟が催され、客人も多く、その中の一人が退屈そうにしていたカペラを連れ出してくれたのだった。
夕日を受けて金色に波打つ草原に、一目で彼女は心を奪われた。
その次の夏に訪れた地震のせいで、彼女は二度とその光景を自分の目で見ることは出来なくなったが、それでも、目を閉じれば鮮明に思い出せほど、彼女の脳裏にくっきりと刻み込まれている。
いつか、エリックにもあの光景を見せてあげたい。カペラは、これまでいく度となく彼に夢を語っていた。
夢を、夢で終わらせないための方法を、カペラは修道院でずっと考えていた。
左手――川の上流の方へ視線を辿っていくと、国境となる小高い山が幾つかある。
あのあたりは特に雨が多く、度重なるサヌール川の氾濫の原因の一つになっている。
「ねえ、サヌール川を堰き止めることができたら、麦は育つと思う?」
「そうですね……保証はできませんが、いくらかの効果は見込めると思います」
「……堰を造るのに、どのくらいの費用が必要かしら?」
カペラの唐突な質問にも慌てることなく、顎に手を当てて考えながらエリックは誠実に答える。
「規模にもよりますが――、本格的な堰を造るとなると、石だけでなく良質の粘土も必要かと存じます。ただ、わが国では入手するのは難しいですね。船で運んで来るしかないですが、そうなるとかなり費用が嵩みます」
「……そう、よね」
どのくらいの金額が必要か、彼女には計算はできないが、それでも海の向こうから持ってくるとなれば、莫大な費用がかかることくらいはわかる。
「――加えて、港からここまでの輸送、造成のための人夫、その日数などをざっと見積もっても、数百から数千万……」
試算に耽りそうになっているエリックに、慌ててカペラは「ありがとう」とそれを遮った。
彼は、一旦考え込み始めると長くなる。
どのみち、カペラの取れる道は一つしかないのだ。
「……決心がついたわ。戻りましょう」
彼女は馬の鼻を帰路へ向けた。
その日の午後、正装したチャップマン男爵が使者とともにきれいな布や珍しい食材などを携えて屋敷を訪れた。彼の使者が通された二階の貴賓室で、持参した羊皮紙を声高々に読み上げるのを男爵は満足そうに頷きながら隣で聞いている。
内容は昨夜思い描いた通りだ。ただ、婚礼の日取りだけは伯爵家の全員を驚かせた。
「一週間後、ですって!?」思わず、伯爵夫人が声を上げた。
「それは、婚約が、ではなく?」伯爵も驚きを隠せずに確認する。
「ええ、結婚です」チャップマン男爵は、当然という様子で頷いた。「――ここに、許可状も用意してあります」
言いながら、男爵は上着のポケットから仰々しくもう一枚の紙を取り出す。
古くからフォンセ王国における貴族の婚姻は、国王の許可を得ることになっている。勢力争いの激しかった時代の名残で、王のあずかり知らぬところで貴族同士が手を結ぶのを禁止するためだ。反勢力となりそうな縁談は却下されることもあった。しかし、情勢が安定している今では婚姻許可は形骸化し、書類さえ出せば王――あるいは任命を受けた公爵の署名がもらえる。
それにしても、昨日の今日でこれを用意できるというのは早すぎる。
伯爵は、サインが本物であるのかを確認するかのように、その書類を手に取りじっくり見つめた。
「グリブレイユ公爵のサインも入っています」
チャップマン男爵はベストのボタンが弾けそうなほど胸を張る。
確かに、そこにはグリブレイユ公爵の署名も入っていた。
「……ですが普通は、ある程度の婚約期間を経た後、――たとえば跡継ぎの生まれた時点で正式に婚姻というのが普通で――」
あまりにも急な展開に伯爵夫人の声は上擦っている。
打算的しかない貴族同士の結婚では、跡取りの存在が重要だ。そのため、不妊と判断された時点で縁談の意味がなくなるのだが、宗教上離婚はできないため、その分婚約期間を長く取るというのが通例となっている。
「離婚するつもりはありません。たとえ、跡継ぎが生まれなかったとしても。――それほど私は彼女を愛しています」
このように言われてしまっては伯爵も伯爵夫人も何も言えない。
「一週間の告知さえ怠らなければ、時期はいつでも構わないでしょう。実際に、庶民は告知期間終了後すぐに式を執り行っています」
「庶民の結婚とは規模が違うし、それに準備も必要だ。一緒にするのはどうかと思いますが」
なんとか猶予期間を伸ばしたいと、伯爵は反論をひねり出すが、男爵はそれも想定の内なのか、ふふんと笑い飛ばした。
「なに、すべての準備はこちらで行いますよ。――もちろん、それが気に入らないというのであれば、この話はなかったことにしていただいて構いませんが」
あくまでも男爵が強気なのは、伯爵家の内情を知っていて強く出られないと分かっているからだろう。
だが、カペラにはどうしても譲れない部分があった。
昨夜あんなことがあったばかりなのに、それでも婚姻を申し込んできたこの様子からすると、この結婚に一番熱心なのは彼なのかもしれない。
「いかがですか?」と、満悦の表情で一同を見渡す。
「条件があります」
カペラは思い切って勝負をかけた。
まさか、これ以上反論の声が上がると思っていない男爵は、「条件?」と訝しげに彼女を見る。
伯爵と伯爵夫人は、彼女が何を言い出すのかと気が気でない様子で見守っている。
「サヌール川上流に堰の造成。それから、現在の使用人を同じ条件かそれ以上で引き続き雇うこと。それをお約束いただけるなら、この話、――お受けします」
しばらく考え込んだ後、男爵はにやりと嫌な笑みを見せた。
「いいでしょう。その条件、飲みましょう。では、婚礼の儀は一週間後ということで」
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