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婚儀 2

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 これでよかったのだろうかという疑問は残る。
 だが、サーシスのためにはこれ以上の話はないと、その夜、カペラは冴え冴えと光る薄い月を見上げながら自分に言い聞かせていた。
「眠れないのですか?」
 遅くまで明かりの消えないカペラの部屋に、心配そうにエリックが顔を出した。
「良かったら、いかがですか。身体を冷やしてはいけませんので、赤ワインにシナモンとオレンジの皮をいれて温めてまいりました」
 そう言って、手にしたポットとカップを載せたトレイを少し持ち上げる。
 サイドテーブルの上でカップに深紅の液体を注ぐと、それを手渡しながらエリックは微笑んだ。
「……これで、よかったのよね?」
 カップを両手で受け取りながら、カペラはエリックに訊いてみる。
「チャップマン男爵との、婚礼の件ですか?」
 肯定するように小さく頷くと彼女は、そのままカップに唇を寄せた。
 アルコールと甘くスパイシーな香気が鼻腔から入り、固く冷え切った脳を柔らかくほぐしていく。
 喉の奥に流れ込んだ液体は、すぐに吸収され、身体中を巡って、各所を温めてくれる。
 心の制御ができなくなりそうな気がして、慌ててカペラはずっと考えていたことを口にした。
「だって、そうしないと、ここはどんどん荒れていく一方だものね?」
「そうですね。お嬢様がそうお決めになったのであれば、正しいか正しくないかは問題ではないと思います」
「難しいことを、言うのね」
「夢や希望があるから、人は充実した生を送れるのではないでしょうか。カペラ様はいつも、この地に金色の海を取り戻したいとおっしゃっていました。今回の婚姻がその手段となるとのお考えであれば、自信をお持ちになって良いと思います」
「自信……」
「僭越ながら、小麦畑の話をされているときのお嬢様は、とても素敵ですよ」
 カペラはエリックの髪に目を向けた。
 燭台の炎の揺らめきに合わせて影が――まるで金の波の様に揺れている。
 手に入れたいのは、本物の小麦畑なのかそれとも――
 それに触れたい衝動に駆られたカペラは、思わず手を伸ばしそうになって、慌ててカップを手にして飲み干した。
 今ここで彼に触れ、その先をせがめば、彼は受け入れてくれるだろうか。
 それとも、やんわりと拒否をして彼女をたしなめるのだろうか。
 どちらにしても、せっかくの決断が揺らいでしまいそうな気がして、カペラは何も言えない。
「そうね。……エリックがそういってくれるなら、きっと、そうね」
「さあ、そろそろお休みください。明日からまた忙しい日々が始まります」
 エリックに促され、カペラは素直に寝台に横になった。
「寝付くまで、手を、握っててくれる?」
 暗い部屋に一人残されるのが怖くて、カペラは明かりを消した彼の背に請うた。
「お安い御用でございます」
 カペラの手を取ったエリックの白い絹の手袋が、月明かりに眩しい。
 ――金色の畑は夢だけど、でも……
 このままこの手を強引に引っぱって、この状況から連れ出してくれたらとも、思う。
 アルコールに誘われ遠くなっていく意識の中で、面と向かって口には出せなかった気持ちが彼女の頭に滲むように広がって、消えた。


 婚礼の日はあいにくの小雨だった。雨季が近づいているのも理由の一つだが、もともと雨の多いサーシスのことなので、特に珍しくはない。
 それに、カペラは、なんとなく空が自分を慰めてくれているようにも感じた。
 これで二人の門出を祝福するような快晴だったら、神を呪っていたところだ。
 サーシス伯爵邸には小さな礼拝堂しかないため、儀式は街の教会で執り行われることになっていた。
 教会前の広場には、朝早くから領民が集まってきている。誰でも参加し新しい伯爵家の跡取りを祝福できるよう、チャップマン男爵が無料で食事をふるまうように手配していたのだ。
 にぎやかな演奏や座興が行われている広場に男爵とカペラが姿を現すと、より大きな歓声が上がった。
 人々の間を歩きながらカペラは、地震以来、暗い話題しかなかったこの街が、喜びと祝福に包まれるのを目の当たりにして思いもかけず目頭を熱くする。
 自分の選択は間違っていないのだと、彼女はもう一度自分に言い聞かせた。
 その一方で彼女の目は無意識にここにいるはずのないエリックを求めていた。
 教会での儀式が終わった後は、場所をサーシス邸に移し、宴は夜通し続けられる予定となっている。エリックを含めた使用人たちはその準備に追われているはずだ。
 広場でのにぎやかな演奏を後に教会に入ると、一瞬で空気が変わった。
 先ほどまでうるさいぐらいに耳をついていた演奏や歓声が、くぐもって聞こえる。
 もう後戻りは、できない。
 一瞬足を止めた彼女は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
 祭壇の前に跪いた二人に司祭が声をかけ、式が粛々と始められる。
 だが、彼女の耳には、読み上げられる祈祷文や祝詞など耳に入ってこなかった。
 カペラにとってはそれらは終身刑を言い渡す呪いの言葉であり、これは――自ら望んだことではあったが――人身御供の儀式の様でもあった。
 いや、神に身を捧げる人身御供の方がまだましかもしれない。

 誰か、異議を申し立ててくれないだろうか。
 あるいは、誰でもいいから、ここから連れ出してくれないか。
 叶いもしないと分かっているから余計にそんな思いが頭から離れない。

「……花嫁、……カペラ様?」
 司祭に小さく注意を促された時には、チャップマン男爵が厳かに一礼し、差し出されたトレイから指輪を手に取ったところだった。
「ここに、契約の証を――」
 彼女はゴクリと喉を鳴らした。
 契約の証――カペラにとっては隷属の証でしかないそれに、彼女のこれからの人生は縛られるのだ。
 跪くチャップマン男爵の左手に預けた彼女の手は、かすかに震えていた。
 にやり、と彼のいやらしい笑みが勝ち誇ったように彼女を見上げる。
 その瞬間を焼き付けたくなくて、カペラは目を背けた。
 そして、冷たい金属を指先に感じた、その瞬間――
 背後で大きな音を立てて扉が開け放たれ、外のざわめきが直接教会内に入り込んできた。


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