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「ところで、君、ゼノンのパラドックスって知ってる? アリストテレスも著作の中で触れているよね」

 サグレドの唐突な質問に、ガリレオは怒気を挫かれ、目を白黒させた。

「例えば、アキレスと亀の競争」

「ああ、亀がアキレスより先の位置から走り出した場合、アキレスの方が速くても計算上は追いつけないって奴だろ」

「亀のスタート地点Aにアキレスが到達した時、遅いなりに走った亀は、少し先のB点に進んでいる。で、アキレスがB点に到達した時、その更に少し先のC点へ亀は進む。幾ら差が縮んでも状況は繰り返される為、亀のリードが永遠に続くという理屈だね」

「大学では神の摂理への疑義とみなされ、考える事さえタブーなんだが」

「君、納得できないだろ?」

「……当たり前だ」

 ポツリと呟き、ガリレオは両腕を組んで、深く考え込んだ。

「え~、本質的に連続している時間や空間を切り刻んだ上、固定した動かない一点として取り扱う前提こそ、理不尽な結論に至る原因では?」

「うん、君達の時代なら、その結論で十分正解」

 サグレドは肩を竦め、拍手して見せる。

「……又、馬鹿にして」

「フフ、ゼノンが示した逆説は、時代の変わり目に、何度も再検討されていくのさ。何せ、時間の概念へ如何に向き合うかという難問が関わっているからね」

「時間の概念?」

「君が指摘した通り、時間は過去から未来へと連続して流れ、途切れない。それに対し、僕らの科学は、時を考慮に入れない抽象的な物量を表象する数字を、長きにわたって思考の主な道具にしてきた」

「抽象? 数字ほど、客観的に物事を図る基準は無いぞ」

「では、リンゴの数で考えてみよう。一個のリンゴにもう一個足すと二個、だね?」

「……馬鹿にするな」

「1+1は2。これは1の質量が不変である事を前提にしているが、現実に一個のリンゴの量は常に変化する。ホラ」

 サグレドが右手を差し出すと、そこにはうまそうなリンゴが乗っている。

「あ、魔術師か、君は!?」

 問いに答えず、サグレドはリンゴを齧って溢れる果汁を口元から拭った。

「見たまえ、リンゴの質量は今、およそ7分の5にまで減ったよ」

「君が食べたせいだろ」

「僕が食べずとも、微量の水分が常に表面から蒸発し、質量は変化し続けている。つまり『1』という不動の質量は、人間の概念の中にしか存在しないんだ」

「……だから、何? 当然すぎて、つっこむ気にもなれない」

「対象を計測し、演算で得られた数値の精度を上げていく手法は、確かに輝かしい成果を上げたが、同時に限界も露呈した」

「科学の進歩に限界があると言うのか!」

 ガリレオの声には苛立ちが滲んでいる。

 無理も無いとサグレドは思った。

 数学、物理、天文学が宗教から未分離で、知識の探求を阻害されている時代が16世紀だ。その闇に挑む事こそ、78才で生涯を閉じる迄、ガリレオ・ガリレイのライフワークとなる。

 勿論、まだ18才の彼がそんな運命を知る由も無いが、知識への渇望は既に滾っているらしい。
 
 サグレドは偉大なる先人への敬意を胸に、言葉を選んで語り出した。

「人が声を発し、コミュニケーションを始めたのは350万年前、アウストラロピテクスの時代からだと言われている。1~9までの数字にゼロを加えて、今に至る呈を成したのは六世紀。勿論、時間の概念や宇宙の果て、起源と言った深遠な知識を探る為に生み出された訳では無い」

「サグレド、君はそこに本質的な限界があると言うのだな」

 ガリレオの口調は、何時しか厳しい詰問の色を帯びている。

 サグレドは苦笑し、言葉を継いだ。

「科学の進歩に比し、数字を含む言語の体系は変わらない。故に、何時しか時代遅れの器になっていったんだよ」

「時代遅れ?」

「16世紀から21世紀まで、数学は飛躍的進歩を遂げる。特に数直線上に表せない数=虚数の発見は大きな功績だった。
虚数時間の概念により人は宇宙の起源にまで迫ったが、大局的に見ると、真理を色褪せた古い言語に合わせようとしただけだ」

「ピサ大学で、宗教学が他の学問を捻じ曲げている様に、か」

「うん、古い器へ新しい中身を押し込むという意味では、似ているかもな。
この状況を根本的に打破する為、言語そのものを再創造する必要があると、24世紀に人類は悟った。それまでの思考の限界を乗り越え、連続する空間、時間の概念を含む世界共通の言語体系を作り出したんだ。僕らはそれを、メタ語と呼んでいる」

「めた?」

「メタ。より高い次元という意味さ。旧来の多様な言語の上に一つの新言語が乗り、多重構造になったとイメージしたまえ」

「では、もう一つ教えてくれ、サグレド」

「次は何を聞きたい?」

「……君は一体、何者なんだ、僕の知らない知識を過去の遺物の様に語る君は?」

「言ったろ、真理を求める学究の徒だと」

 サグレドは幼子をあしらうかの如く、両肩を竦め、リンゴを齧って見せる。

「馬鹿にするなっ!」

 ラテンの熱き血が我慢の限界を超えた。
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