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張り裂けるほどに

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 朝霧の不安と裏腹に、その後の峯屋は平穏な日々を重ね、涼香にも特に変わった様子は見られなかった。

 いつも通りのほほんと張見世に座り、常盤屋の来訪にも明るく接している。

 変ったと言うなら、それは巷の評判の方であろう。

 ぐっと色気が出ただの、一皮むけた大輪の花だのと、吉原雀が騒がしい。
 
 中には床上手になったと言う奴までいて、常盤屋が磨き上げた賜物と、称える声も引きを切らない。

 毎夜の半見世には、評判の美女を一目見る為、野次馬の類が溢れた。ごった返す人の群れを目の当りにし、涼香は艶やかな笑顔を絶やそうとしない。

 だが、隣の朝霧は気づいていた。

 涼しげな眼差しが、時に宙を彷徨い、人ごみの中で誰かの姿を探している事。
 
 彷徨って、求めて、見つけられず……俯いた顔がすぐまた笑う。

 切れていく瀬戸際の糸を朝霧は感じた。

 同じ遊女だからこそわかる痛みの欠片を推し量る内、客が退けたある朝、二人しかいない部屋で涼香がふと漏らす。





「……あの人、どうして、来てくれないんだろ」

 思いが堰を切り、細い肩が震えた。

「伊佐さん、別れる間際に約束したのよ。簪ができたら届けに来る。必ず花魁道中へ間に合わせるって」

 伊三次の腕なら、凝った簪だろうと一本仕上げるのに数日あれば十分な筈。

 でも、あれから既に半月が過ぎ去り、最早、花魁道中が行われるまで三日しか残っていない。

 このままでは間に合わない。

「涼香ちゃん、御免っ!」

 朝霧は懐から隠し持っていた常盤屋の簪を取り出し、床へ置いた。

「あ……何で、姉さんがこれを!?」

 愕然としている涼香へ、どうしても話す勇気が出なかった悪戯の仔細を朝霧は告白し、三つ指ついて、深く頭を下げる。

「あんたの身請けが羨ましくてさ、やすやすと玉の輿へのっちまう前に、軽く一泡吹かせようと思った」

 涼香はポカンと口を開け、姉貴分の言葉へ耳を傾けている。

「あのアリジゴクと二人きり、一悶着起きた時、すぐ止めに入るつもりでいたの。本気であいつに惚れるなんて、思いもつかなかったから」

「……許せない」

 顔を上げる朝霧の目に、銀の簪を握り締める女の姿が飛び込んできた。

「……戯れで逢わせたの、あの人と?」

「あ、あたし、あんたを傷つける気は無かった」

「伊三さん、私の事、この世でたった一人の女って言った」

「え?」

「鈍くて、とろくて、呑気に笑うしか取り柄が無くて……親にまで見放された私に、掛け替えが無いと……」

 それは廓にくる男の常套句。そう朝霧は言おうとした。朝霧自身、似たような言葉は何度となく巳代松から聞かされている。

 でも違う。

 そんな程度の駆け引きは涼香だって知っている。笑顔の仮面の裏で、嘘を操る吉原の流儀を教え込まれてもいる。

 だが、朝霧があの夜、覗き穴から見た光景は、廓遊びの手練手管とは無縁。

 もっと遥かに拙く、切羽詰まっていた。
 
 長い廓暮らしを経ても未だ知らない物が、そこにある気がした。

 これからどれだけ吉原で時を過ごそうと朝霧が知らぬまま終わるかもしれない真摯な何か、偶然から生じ刹那に育まれたからこそ偽りを含む余地のない感情の迸りに、涼香は出会ったのかもしれない。

 嘘から出たまことって奴かしら?

 ちくりと心の奥をまた嫉妬の針が刺す。

「私が、あれから、どんな気持ちでいたか……姉さん、わかる? あの人に会いたくて、会いたくて……」

 言葉は途切れ、最後は呻きに変わる。許しを請う暇もない。涼香を包む青白い焔の揺らめきを感じ、朝霧は怯えて、後ずさった。

 姉と慕う女に弄ばれた怒りより、満たされない心の飢えが半ば狂気と化し、涼香の内側から噴き出しているようだ。

 簪を振り上げる涼香は駄々をこねる幼女にも似て、普段以上に幼く見える。

 おぼつかない足取りで迫り、動けない朝霧を激情のまま貫くかに思えたが、振り下ろされる簪の切先は頬を掠め、空を切った。

 勢い余って畳に突き刺さった簪を見つめ、それを引き抜く頃には涼香の全身から怒りの気配は消え、瞳は虚ろに宙を彷徨う。

「……きっと伊三さん、怒る。簪が大好きだもん、京の職人さんが精魂込めた簪、血で汚したら」

 床に涙の落ちる音がした。

 すすり泣く妹分にまだ近づく気持ちにはなれず、朝霧は躊躇いがちに涼香の背後から声を掛けた。

「涼香……ごめん」

 振り向く涼香は、力無く朝霧を見やる。

「……私がまだ禿だった頃、嫌な男に抱かれる時は目を閉じて惚れた相手を思えって、そう姐さんに教わった」

「ああ、良く覚えてるよ」

「今ならあたし、それができる。伊佐さんの事だけ思って……固く目をつぶって」

「確かにあんた、変わった」

「でも目を開けて別の人が隣にいると、張り裂けそうに胸が痛い」

 嗚咽する体が小さく見えた。

「これじゃ……こんな気持ちじゃ、常盤屋さんの所へなんか行けない。どうしよう、姉さん……私、どうしよう!?」

 朝霧は途方にくれた。

 あの呑気な素顔と、妖艶に伊三次を求める顔、怒りに荒れ狂う夜叉、そして、無心に泣きじゃくる目の前の幼な顔が、同じ一人の女だとは。

 自分の事をさておき、つくづく不思議な生き物だと思わずにいられない。

 だが、そんな感慨に浸る暇は無かった。
 
 迫る身請けまでの間に、ほんの少しでも焦がれる想いを満たしてやらないと、きっとこの娘は壊れてしまう
 
 只、それだけを思い、涙が止まらない涼香の髪を撫でながら、朝霧は必死で頭を巡らせていた。
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