たそがれに咲く花なれば

ちみあくた

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 およそ四半時が過ぎてから多門が小屋を出ると、群生する葦の穂の間に、立ち尽すさきが見えた。

 相変わらず虚ろな瞳を、暮色深まる空へ向けている。

 その後ろ姿があまりに儚げで、多門は出会った頃の、十四のさきを思い出した。





 真ん丸な顔をし、勝気の癖に人見知り。

 ふふっ、あやつ、見合いの席ではまともに俺の顔を見れなんだのう。





 そう、思えば無理もない話なのだ。
 
 年端のゆかぬまま夫婦になり、その後は慌しく諸国を巡る羽目に陥る。
 
 武家の妻という教えられた処世の枠組みを守り、ひたすら日々の拠り所としてきたのであろう。
 
 その枠を壊そうとしたなら、己を見失うのも道理。
 
 小さく頷き、多門はさきの背にそっと歩み寄って同じ黄昏を見上げてみた。
 
 赤みが失せ、暮れなずむ空を、ゆっくりと「く」の字の影が過ぎていく。
 
 渡り鳥を目で追う妻が、徐々に穏やかな表情を取り戻し、懐かしげな微笑みさえ浮かべるのに多門は気付いた。
 
「なぁ、すまなんだ、さき」

 夫の声に振り向いたさきは、驚きと戸惑いに少し頬を赤らめている。
 
「お前に隠したは俺の過ちじゃ。先に相談した上、事を進めるべきであった」

「いえ、私の方こそ、先程はどうかしておりました」

「雁を見ていたのか」

「はい、何やら近江の夕暮れが思い出され、あなた様にも見せて差し上げたいと、思っていた所でございます」

 多門は、ふっと笑った。

 見失いかけた妻の心が自分と同じ景色へ見入り、同じ感慨を抱いた偶然に、不思議な喜びを感じていた。
 
 遠くて近き、とは良く言ったものだとつくづく思う。
 
「どうなさいました」

「いや」

「おかしいですわね、自分から離縁を申し出ておきながら、私……」

 笑い返そうとしてさきは俯き、夫から目を逸らした。

 だが、再び向けられた背中に、先程の如く多門を強く拒む意志は感じられない。

 代わりに震えている。

 何かにひどく怯え、為す術も無く一人で途方に暮れている。

「さき、何を恐れておる」

 躊躇いが、乱れる妻の息遣いに現れた。

「教えてくれ。何がそんなにお前の心を乱しておるのだ」

 答えを待つ僅かな間にも暮色は深まり、足元に闇の領域を広げつつある。

「叔母が私と同じ病だった事、前にお話し致しましたね」

「ああ」

「旦那様も優しい方で、二人して養生に努められたのですが、最後はやはり……」

 又、口ごもり、さきが奥歯を強く噛み締めた。

「ひどかったのか」

「激しい痛みが続き、薬も効かなくなりました。そして遂に耐えきれず、叔母は旦那様に死を願ったのです」

 事の詳細は語らなかったが、多門の脳裏に自ずと浮かんだ。目の前で苦しむ妻の頼みを断れる筈など無い。





 斬ったのだろう、未練もろとも、渾身の太刀で一思いに。





「間も無く旦那様も亡くなりましたが、食事を取らず、眠れず、魂が抜けて落ち窪んだ目を、私は良く覚えております」

「俺に離縁をせがみ、離れようとした理由はそれか」

「あなた様に同じ思いをさせとうない!」

 さきの秘め続けた本音が弾け、叫びとなって迸った。

「でも、あなた様の傍で、最後まで耐え抜く自信も無いのです。きっと負けてしまう、あの叔母の様に」

 多門に向けたままの背中が一層強く震え、微かな嗚咽の声が漏れた。

「怖い……怖いのです」

 その背を両手で包み込み、抱きしめる事しか多門にはできなかった。

 語る言葉が何になろう。

 明日と言う日は濃い暗雲に閉ざされ、確かな約束など何一つありはしない。
 
 多門も怖かった。

 もし、さきを手に掛ける日がくれば、同時に己の心も砕け散るであろう。
 
 でも、だからこそ二人でいたいと思う。
 
 武士でもなく、その妻でもなく、ありのままの俺とお前で身を寄せ合える今のみ、愛おしむ日々を重ねたい。

 たとえ、ともに白髪になり果てる日へ決して辿り着けないとしても。





 互いに動かず、温もりを確かめ合う一時がどれ程に続いた事か。

 夕日が山の端へ没しきる間際、多門とさきは掘立小屋を目指して歩き出した。
 
「あの、旦那様」

「何だ」

「確か、業平橋の蜆を手に入れたとおっしゃいましたね」

「おう、滅多にない上物ぞ」

 すっかり落ち着きを取り戻した様子で、さきが弾んだ声を上げる。

「折角のお味噌汁、彩りをもう一つ増やしませんか」

 上目遣いの眼差しが悪戯っぽく輝き、伸ばした右手の人差し指が、葦の間のカタバミを指す。

 幼女の如き、あどけない笑み。

 これも多門には見慣れない顔だ。二十五年を共に過ごし、まだまだ俺はコイツを知らぬな、と思う。

 別れの日まで後どれくらい、未だ見知らぬ妻の顔と出会う事が叶うのであろう。

 多門は思案顔で立ち止まり、さきの指す野草を見下ろした。

「そうさな、摘んで参るか」

 さきは嬉しそうに肯き、多門と並んで膝を折った。

 二人が見つめる先、黄色い五弁の花がまだ淡い月明かりに照らされ、そよ吹く風に揺れていた。
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