シャッターチャンス

ちみあくた

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 安アパートの錆びた外階段を上り、通路一番奥のドアを開くと、警官はうっと呻いた。

 血の匂いが恐ろしく濃い。

 寝室から廊下にかけて菅野と須美、二人分の鮮血が泥濘を作り、足の踏み場にも困る程だ。

 こみ上げる吐き気を堪え、寝室へ踏み込むと、うずくまる須美の顔色は真っ白で、壊れた陶製の人形に見えた。

 その足元には包丁とフルーツナイフが落ちており、爪先で蹴飛ばして彼女を抱き起こした時、周囲に漂うのは血の匂いより更に濃い死臭なのだと気付く。

 助からないな、と実感したよ。

 既に救急車は「メゾン・カリオペ」へ向っていたけれど、多分、いますぐ到着しても結果は同じ。廊下と寝室の境目に立って菅野の亡骸を確認していた警官も、同じ思いだったろう。
 
 それでも俺、目を閉じた須美の耳元で、できるだけ優しく囁いたんだ。

「おい、起きろよ、須美ちゃん。もう大丈夫だ、もうすぐ救急車が来てくれる」

 気休めでも良い。初めてリアルな彼女になるかも、と思えた女の気持ちを少しでも楽にしてやりたいと思った。

 きっと、その思いは通じたのだろう。

 彼女は薄く目を開き、俺と、その後ろにいる警官を交互に見つめた後、か細い声を振り絞った。

「ヒトゴロシ……」

「え?」

「お巡りさん、こいつ、ストーカーのヒトゴロシ……」

「あ、お、おい、何、言ってんだよ!? 俺、お前の為に、さぁ」

 言い訳しようとする俺の言葉は、最後の力を振り絞って俺の方へ片手を伸ばす女の顔を見た途端、喉の奥へ引っ込んじまった。

 刺すような眼差しって、多分、ああいうのを言うんだろうな。

 死にかけの癖しやがって、捕まったら最後、ズタズタに引き裂かれそうな気がしてさ。

「つかまえてよ……私のカレを殺した奴」

 途切れ途切れに言い、震える指先を俺へ突き付けたまま、須美は意識を失った。

 その刹那、怒りでも憎しみでも、勿論、俺への愛情でもない何かの感情が彼女の顔に浮かんだ気がしたけれど、それが何かは見当もつかなかったよ。

 只、抱き起こす俺の腕の中で柔らかい体が痙攣し、夜の道路をすっ飛ばす救急車の音が遠くから聞こえてきた。





 そのまま現行犯逮捕された俺は、交番ではなく本庁の拘置所へ送致され、翌日の朝から取り調べを受けたんだ。

 マスコミは面白おかしく枝葉をでっちあげ、俺を超ド級の凶悪犯に仕立てる報道を繰り返していたらしいね。

 警察の方も、ハナっからストーカーの前科を持つ俺を犯人と決めつけてた。
 
 ま、無理ねぇや。

 菅野に関しちゃ、頭をカチ割ったのは確かに俺。おまけに、奴が須美の首を絞めた画像は、スマホと一緒にペッチャンコ。
 
 何より死ぬ間際、須美が何もかも俺のせいってニュアンスを警官へ直接伝えたのが致命的だわな。正直、頭を抱えたぜ。

 他にも取り調べ中、わけのわからない話を刑事から聞かされた。

 ま、刑事の側からすりゃ、判明した事実を俺へぶつけ、供述の矛盾をついて自白を促すつもりだったんだろうけどね。
 
 須美が予定より早く自分のアパートへ帰って来た理由……ブックエンペラーでのイベント中止がさ、トラブルのせいじゃない、単なるゲストの体調不良の為だった、って言いやがる。
 
 あの夜、菅野は確かに「ゲストの作家が須美をくどき、フラれた鬱憤でバッくれたのが原因」なんて言っていた。

 あぁ、はっきり覚えてるよ。でも事実は違う。オッサン作家のセクハラ騒ぎなんか起きていない。

 そもそもイベント当日のメインゲストはアニメ化されたラノベの主題歌を歌う声優アイドル・グループだったそうで、須美を口説くなんてありえねぇ。

 菅野恵一の人となりにせよ、俺の見たやばい「趣味」は、奴の本性じゃなかったらしい。根は内気で生真面目。大人し過ぎる程、大人しい男だったと言う。

 最近、身なりが派手になってきたものの、好きな女の首を絞めるドSの傾向なんて、家族や友人に聞いても全く無かったそうだ。

 じゃ一体、何であんな真似を!?

 警察やマスコミは俺のでまかせだと決めつけたが、生憎、俺は自分が嘘をついてないと知ってる。

 全くよぉ、狐につままれるってぇのは、こういう感じかねぇ?
 
 誰も会いに来ない分、拘置所じゃ時間はたっぷりあるから、無い頭をひねって結構、悩んだわ。
 
 俺みたいなケダモノは死刑確定、なんて世間様が騒ぐ間も、な。
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