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しおりを挟む子供の頃、楓はホラー映画が苦手だった。
特にモンスターが執拗に追いかけて来る場面は、つい目をつぶってしまう。寝苦しい夜になると、いつも正体不明の何かから逃げ惑う悪夢を見たから尚更だ。
ブランコのユーレイ少年・相羽武弘によれば、楓には霊を引き寄せる特異体質があるらしい。
悪夢の幾つかはその影響かもしれないが、実際、追われる立場がこれほど怖いと思わなかった。
篠崎日奈の家の前から走り出して数分……息を切らせて電柱に凭れると、ヒタヒタ、迫る足音と掠れた声が聞こえる。
「待て……待てぇ……」
振り返ると、大股ステップの檄オコおば~ちゃんが、暗く落ちくぼんだ眼窩の底で炎を滾らせていた。
まっすぐ伸ばした腕の先、尖った爪先が獲物を求め、せわしなく宙を掻きむしる。
「止まれ……お前、引き裂いてやる……」
ヤバい。ヤバ過ぎる。万一に備え、スニーカーを履いてきて良かった。
向うがサンダルだから、何とか追いつかれずに済んでいるのだ。それでも足を止めたらアウト。何をされるか分からない。
ゾンビ映画の1シーンさながら、貪り食われる己の姿が目に浮かんで、臆病な楓は心底震え上がった。
え~ぃ、相手は只のば~ちゃんじゃない! こんなんでビビッてたまるか!
逆に追い詰められたのが良かったかもしれない。
バテバテの楓にいつもの逆ギレ・パワーが沸き起こり、走る速度も若干上がって、老女を少しずつ置き去りにしていく。
やっとこさ逃げ切って人気の無い公園まで戻ってきた頃、夕日はすっかり落ち、時刻は午後六時を過ぎている。
とにかく、逃げ切れて良かった。
極端な老女の振舞いも然る事ながら、楓が逃げ出すと同時に、風に乗って流れて来た日奈の笑い声が未だ耳に焼き付いたまま離れない。
今時のいじめっ子って、あんな感じなのね。
見た目は完璧に良いコだけど、悪知恵がアップデートされてる分、あたしらの頃よりヤバいかも……
何にせよ、楓が挑んだミッション・インポッシブルは文字通りの不可能に終わった。成果はゼロ。なんも無し。
重い気持ちを抱えたまま「使用禁止」の遊具へ近づくと、風に揺れるブランコを月明かりが照らし、次第に武弘の姿がうっすら浮かび上がった。
「どうしたの、君? 前より存在感が希薄って言うか、すぐにでも消えちゃいそうなんだけど」
「うん、遊具撤去が早まった。市の係員が来て、明日、工事って言ってたよ」
「明日!? 嘘っ!」
「もう力が抜けてさ。今日は、ず~っと霞みたいにこの辺を漂ってたんだ」
楓は黄色いテープをまたぎ、前と同じように隣のブランコへ座った。
「ごめん」
「見つからなかったんだね、あの子?」
「君が言う特徴に合う少女なら見つけたの。でも、人違いみたい」
楓が口ごもると、今度は武弘が「ごめん」と呟いた。
「何で、君が謝るの?」
「うん、実はね。僕、まだお姉さんに話していない事が……」
その時、ヒュウと生暖かい風が路地の方角から吹いて、武弘の言葉は途切れる。
振返る彼の視線を追い、楓も公園入口に立つ人影を見つけた。
「あ、ヤバっ!」
先程の老女だ。
完全にまいた筈なのに、何て執念深いのだろう。目の奥底に滾る炎は相変わらず……いや、前より怖い。
明らかな殺気を帯びている。孫の為に不審者を罰するつもりだとして、あの年齢で、あそこまで激怒するものだろうか?
「ここに……こんな所にいたのか、お前!!」
低く、乾いた叫びを老女が発するまで、余りのド迫力に楓の全身は強張ったまま動かなかった。
「あ、ゴ、ゴメンナサイ!? 私、あの……お孫さんを傷つける気、コレっぽっちも無かったんですぅ」
老女は言葉へ耳を貸さない。
小柄な体を怒りで震わせ、長い髪を振り乱して、こちらへ突進してくる。
「あ、あのね……おばあちゃんには見えないでしょうけど、私の隣に幽霊……いや、地縛霊の子供がいるの」
「うるさい」
「嘘じゃありません。その子がね、死ぬ前に一度だけ、お孫さんへ謝りたいと言うから、あたし」
「うるさいっ!」
衰えを知らない大股ステップで、ハードルよろしくブランコの柵を飛び越え、老婆は両手で首を締めに来た。
蛇に睨まれた蛙状態の楓だが、老女の皺だらけの指が巻き付き、力任せに締め上げたのは彼女ではない。
武弘の細い首筋を鷲掴みだ。
「え? 何で?」
幽霊であり、人の手で触れられない筈の武弘が苦し気に顔を歪めた。
「ど、どうなってんの、これ!?」
動転する楓へ武弘が声を振り絞る。
「……良いんだよ、これで」
「このおばあちゃん、日奈ちゃんの家からあたしを追いかけてきたのよ。なのに、何故、君を?」
微かに呻き、答えられない武弘の顔を、老女は憎々し気に覗き込んだ。
「許さない、相羽武弘……どんなに時が過ぎようとも、お前だけは絶対に」
楓は目を丸くして老女を見る。
武弘の名を呼んだ事で、老女の狙いは楓ではなく、初めから武弘だった事に気付いたのだ。
「恨みはね、消えないんだよ! この年老いた胸の奥、お前にいじめられた時の辛さが、いつまでも残ってる」
「……ヒナちゃん、ごめん」
「謝ったって、あたしは許さない!!」
楓の目は一層丸くなった。
この老女がヒナ?
あの生意気な少女ではなく、この老女こそ武弘の探す相手だとしたら、交通事故は何時起きたのだろう?
楓は、すぐ問い質したかった。
でも武弘の方はそれ所じゃない。渾身の力で老女が首を絞める苦しみを、何ら抵抗せず甘んじて受け入れている。
老女は更に罵倒を重ねた。
「何より……何よりも許せないのは、お前があの時、死んでしまった事」
「ヒナちゃん、見てたの!?」
「ドンッて音がして、道の途中で振り返ったら、跳ね飛ばされたお前の体が見えた。怖くて、怖くて、家まで走って」
「あぁ……見てなきゃいいって、思ったけど……」
首を絞める老女の力が増した。
激しく振り回され、揺さぶられ、武弘の首は不自然な形でポキリ、と折れ曲がる。
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