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7話「綻んだゼラニウム」
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帰路。
どこか釈然としない"観測者"との邂逅。
俺が知らない存在、だが俺のことを知る存在。
それが不気味で……不要な存在であることなど言うまでもない。
ポタリ、ポタリ──
遠く、遠くから落とされた雫が一つ、手の甲に当たる。
その異変に空を仰ぐと、頬に、髪に、それは纏わりついた。
偶にある、色のない液体が降り注ぐこの現象を、人は雨と呼ぶらしい。
(急いで帰らないと)
そう考えるのは何故だろう?
無害な水滴は、少しばかり服を冷たく重くするだけ。
僅かな情緒を残して、やがて鎮まるのに。
そう、ここは元の世界とはあまりにもかけ離れているんだ。
俺は逃げるようにドアを閉めて、そのままもたれかかるように座り、目を閉じた。
平和という名の異常に、心は少しずつ疲弊していた。
*****
虚ろな意識の中、俺は再びあの屋敷の中に立っていた。
今度は部屋の中に居て、そこには床に寝そべる二人の少年が居る。
白い服の少年が、黒い服の少年に向けて、そっと本を読み聞かせていた。
『蝕まれた身と、椅子から崩れ落ちる肢体。
それが最初の狂気だったのかどうか、今ではもう判らないけれど──』
その時、在りし日の光景が脳裏に蘇った。
それは、『人口管理ゲーム』が始まってから数日後、最初に起こった騒動の記憶。
当初、俺たちは政府の意思を拒絶し、みんなで脱出する方法を探していた。
その最中、まだあどけない子供の食事に毒が盛られたんだっけな。
結局その子は一命を取り留めたけど、その日を境にみんな他人を疑うようになった。
少年の言葉は続く。
『奪う者、祈る者、救う者。
彼は全てを救おうと抱え込んだが、やがて一つの鼓動を取りこぼして割ってしまった』
『消えてしまった温もりに、二度と開かれない瞳に責められ、絶望した。
その姿を見た少女は、"もう誰も、死なせません"と真っ直ぐな眼差しで叫んだ』
『結局、己が選んだ道の先で数多の鼓動を見捨てた。
動かなくなった少女を見下ろす頃には、何も感じなくなっていた』
白い服の少年の声色は、話すその内容とは裏腹に、おとぎ話を話すように優しかった。
少年が語る度、記憶と記憶が繋がるように、情景が次々と頭の中に浮かんでくる。
その内容はどれもこれも、かつて自身が体験した状況に酷似していた。
『それが、役割を逸脱した者への報いだった。
そう、彼女の名は──"観測者"』
そう言って本を閉じる少年の姿を最後に、俺の意識はそっと夢から覚める。
(観測者……)
どうして、先ほど思い出さなかったのだろう?
その名は、かつてとある"少女"に与えられたものだった。
元の世界で出会った、とても可憐で、無邪気で、素直で……自分勝手な少女だった。
そして何より、彼女には謎が多かった。
『ねえ、観測者。観測者は……どこから来たの?』
『ふふ、秘密です』
『観測者。本当の名前は教えてくれないの?』
『はい、私は"観測者"。それ以外の名前は与えられていません』
『観測者は、どうしてみんなを助けようとするの?』
『……当然のことをしているだけです』
『観測者は、もしここから出られたらどうするの?』
『そうですね……みんなで、星空を見たいです』
『ほし……ぞら……?』
彼女の、自信のなさげな声が脳裏に浮かぶ。
毎日のように、色々なことを訊いた。
納得のいく答えが返ってくることは少なかったけれど……。
それでも、今思えば彼女は賢かった。
あのゲームの最中では、名前のような情報一つであろうとそれを明かすことが生死を分ける可能性すらあった。
観測者は、それにいち早く気付いていたからこそ偽名を使ったのだろう。
その重要性については、ある時、縁と話したことがあった。
観測者を含め、他の参加者たちに無計画に名乗ってしまった後悔や、そのリスクについて。
裏を返せば、そういった情報は隠すべきであると同時に、明かすことで信頼を得られる場合もある。
結局、生き残ることを優先し本心を隠すことを選んだ俺と縁は、二人の間でしか話せないことも多かった。
想いも、弱音も全て。
『ユンさんは……縁さんの弟を一緒に待っているのですよね?』
『うん、まだ生きているかもしれないから』
『……』
ある時、観測者から俺と縁がいつも一緒に居る理由を聞かれたことがあった。
そういえば、彼女の方から質問をしてくることは珍しかったな。
『ユンさん。一つ、約束をしてもいいですか?』
『えっ?』
『どうか、真実を見つけてください。
縁さんのためにも、そして……ユンさんのためにもです』
『俺の為?』
『はい。……約束、ですよ?』
だけど、日に日にそんな他愛ない会話は減っていった。
生きることに必死で、他人を思いやる心なんて持てなくなった。
みんな、そうだったんだ。
観測者との決定的な溝ができたのは……俺が、人を殺める瞬間を見られた時だろう。
『もう誰も、死なせません……!』
そんな彼女の必死な叫びを、俺は踏みにじったんだ。
『私がみんなを守ります。だから、安心して下さい』
『……』
それが、最後に交わした言葉だった。
俺は、返事すらしなかった。
零れ落ちたものが多すぎて、今更そんな希望を唱えられてもどうでもよかったのに。
そして……
次に見つけた時、観測者は心臓に杭を打たれ、動かなくなっていた。
名前も覚えていないような他人の身代わりになる形で。
彼女の呆気ない最期にも、俺は何も感じなかった。
(あれ……?)
そこまで回想して、漸く気づいた。
"観測者"は、既に死んでいる。
どうして、そんなことも忘れていたのだろう?
先ほどの青年は、自身を"観測者"と名乗った。
だけど、それが偽名であることは明白だ。
……なんとも、ややこしい話だ。
確かなのは、それが偶然などではなく意図的な口上だということ。
何故なら、彼女は──"観測者"は元の世界の住人だからだ。
ならば、俺と彼女の関係を知った上でその偽名を使った可能性が高い。
問い詰めておけばよかったが、既に遅かった。
閉じたカーテンの先で、窓に叩きつけられる雨の音が激しくなる。
その音色に心を乱され、後悔と疑問は滲んでいく。
もう、彼女はいない。
この世界には、たくさんの星があるのに。
一緒に星を見ようって言ったのに。
(何も……果たせなかったね)
ああ、この行き場のない想いを紛らわせないかな。
そう考えた俺は、視界の端に映り込んだ装飾のない本に、そっと手を伸ばす。
それはカラーボックスの中に、絵本と一緒に置かれていた最後の本だった。
背表紙にすら何も書かれていない本は、この世界に来たばかりの時にはさほど興味を惹く物ではなかった。
だからこそ、こういう時の読み物にするなら丁度いいのではないだろうか。
(……?)
その本を手に取った瞬間、メモ書きのようなものがその間からパラパラと零れ落ちた。
走り書きのように雑な文字に、×印がたくさんついている。
気になったので読解を試みるが、それは断片的な内容過ぎて到底読めたものではない。
余計な体力を使うくらいならばと、それを端に退ける。
雨の向こうでは、誰かが必死に叫んでいる気がしたが、きっと気のせいだ。
それを振り切るように、ベッドに寝そべりながら本を開く。
最初は、軽く目を通すだけのつもりだったんだ。
一枚、また一枚と頁をめくる手が、少しずつ震えてくる。
心臓が早鐘を打ち、見開いた眼が、視界が揺れる。
思わず、俺はその本を投げ出した。
(これ以上読んではいけない──!!)
乱雑に扱われたそれは、当然、ベッドの下へと落ちる。
「背筋が凍る」とはこういうことを言うのだろうか?
そういえば、雨は止んだのだろうか。
世界から音が消えたように、もう何も聴こえない。
(でも、でも──!!)
そんなこと、まだ分からないじゃないか。
もう少しだけ読んでみようと、再び本に手を伸ばす。
それは興味本位か、それとも使命感か。
そうして頁をめくった先には──何も書かれていなかった。
その後ろには、どこまでも白紙が続いていた。
「う……そだ……」
この感情を一言で表すならば、即ち"絶望"だろう。
俺はただ無力で、何もできなくて、それから……。
息苦しい重力に押し負けるように、俺はそのまま眠ってしまう。
俺の隣では、開かれたままの本がただ静かにベッドライトに照らされていた。
どこか釈然としない"観測者"との邂逅。
俺が知らない存在、だが俺のことを知る存在。
それが不気味で……不要な存在であることなど言うまでもない。
ポタリ、ポタリ──
遠く、遠くから落とされた雫が一つ、手の甲に当たる。
その異変に空を仰ぐと、頬に、髪に、それは纏わりついた。
偶にある、色のない液体が降り注ぐこの現象を、人は雨と呼ぶらしい。
(急いで帰らないと)
そう考えるのは何故だろう?
無害な水滴は、少しばかり服を冷たく重くするだけ。
僅かな情緒を残して、やがて鎮まるのに。
そう、ここは元の世界とはあまりにもかけ離れているんだ。
俺は逃げるようにドアを閉めて、そのままもたれかかるように座り、目を閉じた。
平和という名の異常に、心は少しずつ疲弊していた。
*****
虚ろな意識の中、俺は再びあの屋敷の中に立っていた。
今度は部屋の中に居て、そこには床に寝そべる二人の少年が居る。
白い服の少年が、黒い服の少年に向けて、そっと本を読み聞かせていた。
『蝕まれた身と、椅子から崩れ落ちる肢体。
それが最初の狂気だったのかどうか、今ではもう判らないけれど──』
その時、在りし日の光景が脳裏に蘇った。
それは、『人口管理ゲーム』が始まってから数日後、最初に起こった騒動の記憶。
当初、俺たちは政府の意思を拒絶し、みんなで脱出する方法を探していた。
その最中、まだあどけない子供の食事に毒が盛られたんだっけな。
結局その子は一命を取り留めたけど、その日を境にみんな他人を疑うようになった。
少年の言葉は続く。
『奪う者、祈る者、救う者。
彼は全てを救おうと抱え込んだが、やがて一つの鼓動を取りこぼして割ってしまった』
『消えてしまった温もりに、二度と開かれない瞳に責められ、絶望した。
その姿を見た少女は、"もう誰も、死なせません"と真っ直ぐな眼差しで叫んだ』
『結局、己が選んだ道の先で数多の鼓動を見捨てた。
動かなくなった少女を見下ろす頃には、何も感じなくなっていた』
白い服の少年の声色は、話すその内容とは裏腹に、おとぎ話を話すように優しかった。
少年が語る度、記憶と記憶が繋がるように、情景が次々と頭の中に浮かんでくる。
その内容はどれもこれも、かつて自身が体験した状況に酷似していた。
『それが、役割を逸脱した者への報いだった。
そう、彼女の名は──"観測者"』
そう言って本を閉じる少年の姿を最後に、俺の意識はそっと夢から覚める。
(観測者……)
どうして、先ほど思い出さなかったのだろう?
その名は、かつてとある"少女"に与えられたものだった。
元の世界で出会った、とても可憐で、無邪気で、素直で……自分勝手な少女だった。
そして何より、彼女には謎が多かった。
『ねえ、観測者。観測者は……どこから来たの?』
『ふふ、秘密です』
『観測者。本当の名前は教えてくれないの?』
『はい、私は"観測者"。それ以外の名前は与えられていません』
『観測者は、どうしてみんなを助けようとするの?』
『……当然のことをしているだけです』
『観測者は、もしここから出られたらどうするの?』
『そうですね……みんなで、星空を見たいです』
『ほし……ぞら……?』
彼女の、自信のなさげな声が脳裏に浮かぶ。
毎日のように、色々なことを訊いた。
納得のいく答えが返ってくることは少なかったけれど……。
それでも、今思えば彼女は賢かった。
あのゲームの最中では、名前のような情報一つであろうとそれを明かすことが生死を分ける可能性すらあった。
観測者は、それにいち早く気付いていたからこそ偽名を使ったのだろう。
その重要性については、ある時、縁と話したことがあった。
観測者を含め、他の参加者たちに無計画に名乗ってしまった後悔や、そのリスクについて。
裏を返せば、そういった情報は隠すべきであると同時に、明かすことで信頼を得られる場合もある。
結局、生き残ることを優先し本心を隠すことを選んだ俺と縁は、二人の間でしか話せないことも多かった。
想いも、弱音も全て。
『ユンさんは……縁さんの弟を一緒に待っているのですよね?』
『うん、まだ生きているかもしれないから』
『……』
ある時、観測者から俺と縁がいつも一緒に居る理由を聞かれたことがあった。
そういえば、彼女の方から質問をしてくることは珍しかったな。
『ユンさん。一つ、約束をしてもいいですか?』
『えっ?』
『どうか、真実を見つけてください。
縁さんのためにも、そして……ユンさんのためにもです』
『俺の為?』
『はい。……約束、ですよ?』
だけど、日に日にそんな他愛ない会話は減っていった。
生きることに必死で、他人を思いやる心なんて持てなくなった。
みんな、そうだったんだ。
観測者との決定的な溝ができたのは……俺が、人を殺める瞬間を見られた時だろう。
『もう誰も、死なせません……!』
そんな彼女の必死な叫びを、俺は踏みにじったんだ。
『私がみんなを守ります。だから、安心して下さい』
『……』
それが、最後に交わした言葉だった。
俺は、返事すらしなかった。
零れ落ちたものが多すぎて、今更そんな希望を唱えられてもどうでもよかったのに。
そして……
次に見つけた時、観測者は心臓に杭を打たれ、動かなくなっていた。
名前も覚えていないような他人の身代わりになる形で。
彼女の呆気ない最期にも、俺は何も感じなかった。
(あれ……?)
そこまで回想して、漸く気づいた。
"観測者"は、既に死んでいる。
どうして、そんなことも忘れていたのだろう?
先ほどの青年は、自身を"観測者"と名乗った。
だけど、それが偽名であることは明白だ。
……なんとも、ややこしい話だ。
確かなのは、それが偶然などではなく意図的な口上だということ。
何故なら、彼女は──"観測者"は元の世界の住人だからだ。
ならば、俺と彼女の関係を知った上でその偽名を使った可能性が高い。
問い詰めておけばよかったが、既に遅かった。
閉じたカーテンの先で、窓に叩きつけられる雨の音が激しくなる。
その音色に心を乱され、後悔と疑問は滲んでいく。
もう、彼女はいない。
この世界には、たくさんの星があるのに。
一緒に星を見ようって言ったのに。
(何も……果たせなかったね)
ああ、この行き場のない想いを紛らわせないかな。
そう考えた俺は、視界の端に映り込んだ装飾のない本に、そっと手を伸ばす。
それはカラーボックスの中に、絵本と一緒に置かれていた最後の本だった。
背表紙にすら何も書かれていない本は、この世界に来たばかりの時にはさほど興味を惹く物ではなかった。
だからこそ、こういう時の読み物にするなら丁度いいのではないだろうか。
(……?)
その本を手に取った瞬間、メモ書きのようなものがその間からパラパラと零れ落ちた。
走り書きのように雑な文字に、×印がたくさんついている。
気になったので読解を試みるが、それは断片的な内容過ぎて到底読めたものではない。
余計な体力を使うくらいならばと、それを端に退ける。
雨の向こうでは、誰かが必死に叫んでいる気がしたが、きっと気のせいだ。
それを振り切るように、ベッドに寝そべりながら本を開く。
最初は、軽く目を通すだけのつもりだったんだ。
一枚、また一枚と頁をめくる手が、少しずつ震えてくる。
心臓が早鐘を打ち、見開いた眼が、視界が揺れる。
思わず、俺はその本を投げ出した。
(これ以上読んではいけない──!!)
乱雑に扱われたそれは、当然、ベッドの下へと落ちる。
「背筋が凍る」とはこういうことを言うのだろうか?
そういえば、雨は止んだのだろうか。
世界から音が消えたように、もう何も聴こえない。
(でも、でも──!!)
そんなこと、まだ分からないじゃないか。
もう少しだけ読んでみようと、再び本に手を伸ばす。
それは興味本位か、それとも使命感か。
そうして頁をめくった先には──何も書かれていなかった。
その後ろには、どこまでも白紙が続いていた。
「う……そだ……」
この感情を一言で表すならば、即ち"絶望"だろう。
俺はただ無力で、何もできなくて、それから……。
息苦しい重力に押し負けるように、俺はそのまま眠ってしまう。
俺の隣では、開かれたままの本がただ静かにベッドライトに照らされていた。
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