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第一部〜ランゲ伯爵家〜

【閑話・ある二人の昔話】

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 辺境伯令息・ルトガーと、その妻アンネリーゼは仲睦まじい夫婦だった。

 互いを尊重しあい、思いやる。
 少なくとも、周りからはそう見えていた。

 ルトガーの腹心として常に側にいたアンリも、その仲の良さに笑顔になっていた。 


「聞いてくれ、アンリ!とうとう俺も父親になるんだ!」

 その日、辺境伯邸の鍛錬場に現れた腹心に、ルトガーは輝かんばかりの笑顔で報告した。

「そ、れは……おめでとう、ございます…?」

 唐突な報告に、アンリは驚きつい疑問形になってしまう。

「ははっ!ありがとう!」

 ルトガーはアンリの肩をばしばしと叩き、溢れんばかりの喜びを体現する。
 そして、その調子のまま他の騎士たちにも報告して回っていた。

 アンリはその光景を呆れ笑いしながら見ていたが、同時に理由の分からぬ喪失感を覚えていた。


 アンリには記憶が無い。
 自分がどうして辺境伯領の端に流れ着いたのか全く思い出せない。
 背中にある剣による傷も、どうして斬られたのかなんて分からない。

 けれど。
 辺境伯夫人のアンネリーゼを見た時、微かな何かが心を揺らした。
 それが何か分からないまま、アンリは毎日を過ごす。
 幸い彼に記憶が無いなど、周りは気にしなかった。
 出自が分からない事など関係ないくらい、彼の実力は確かで。
 また人格者でもあったのだ。

 そんな彼がルトガーの腹心として重用されるのは不思議な事では無かった。


「アンネ、あまり動き回ると疲れるだろう?
 無理はするなよ」

「大丈夫ですよ、あなた。少しは運動しなければ体力が落ちてしまいます」

「心配だなあ。……だいぶ大きくなってきたね。あとどれくらいで産まれるかな」

 ルトガーとアンネリーゼの会話を、アンリはただ穏やかに眺める。
 胸の奥がざわつくのは気のせいだ。
 どうしようもなく暴れたくなるのは勘違いだと己に言い聞かせながら。

 二人の間に入るなどできるはずもない。
 誰が見ても愛し合う夫婦ではないか。

 アンリはナニカに蓋をする。
 自分を保護してくれたルトガーに不義理があってはならないと。


 やがてアンネリーゼは女の子を産んだ。
 母親に似た子はリーゼロッテと名付けられ、辺境伯邸は勿論騎士団でも可愛がられすくすくと育っていく。
 ルトガーは妻を労い、アンネリーゼもホッと胸を撫で下ろす。

 夫婦二人は親子3人に変わっても、仲睦まじいのは変わらなかった。



 だが、アンリは見てしまった。

「ルトガー様……あとどれくらい待てばよろしいの?」

「それは……」

 寄り添う男女。
 男はルトガー。
 女は──妻ではない女。

 それを見たアンリの胸はどす黒くざわついた。

 なぜだ。
 なぜ、何故、ナゼなぜなぜ何故。
 アンネリーゼという、己が欲しても手に入れられなかった女性を手にしながらこの男は平気で裏切っていた。
 それがアンリは許せなかった。

 アンネリーゼは知らない。
 ルトガーの側で笑っている。

 とても、幸せそうに。


 望まぬ婚姻だったはず。
 政略結婚で、愛する者は別にいたはず。

 記憶が無いし、アンネリーゼに愛人がいるような形跡も無いのにアンリは漠然とそう思う。

 そうして、ナニカを思い出しかけながら小さな戦に出陣し。


 アンリは全てを思い出した。


 己の本当の名を。
 己の愛する者の名を。

 愛する者には既に夫と子がいて───

 その夫は愛する者を裏切っている事を。


「答えろルトガー!なぜ……なぜアンネリーゼを裏切った!!」

 アンリはルトガーの胸ぐらをつかむ。
 ルトガーはアンリの態度に戸惑った。

「アン……リ?何言って……」

「しらばっくれるな!妻ではない女と抱き合っていただろう!
 俺が……喉から手が出る程欲しい女性を妻としながら、なぜ貴様は…っ」

「お前は……まさか……」

「リーゼが……お嬢様が幸せならそれで良かった!だがお前は……」

 ぎり、と音がする。

「あの女はリーゼより良いのか?
 リーゼを裏切ってまで欲するのか!?」

「……………ああ。本当ならあいつと結婚したかったんだ」

 その言葉にアンリは憤怒を宿しルトガーを睨み付けた。

「父が勝手に持って来たんだよ。俺は彼女を愛していると散々言ったのに勝手に……」

 ガスッ!

 アンリはルトガーを殴りつけた。

「嫌なら断れば良かっただろう!!」

「貴族として、辺境伯子息として後継を設ける義務があったんだよ!
 彼女は平民で身分が足りないから貴族女性と結婚するしか無かったんだ!
 アンネはちょうど良かったんだよ!
 駆け落ちしてキズモノになった彼女なら、夫に愛人がいても文句は言えないだろう!?」

「ふざけた事を言うなぁ!!」

 再びアンリはルトガーを殴る。
 ルトガーが口の中に溜まった物を吐き出すと、白い物も出てきた。

「アンネにも……忘れられない男がいる」

 そう呟いたルトガーの瞳は揺れ、苦しみを隠していた。
 だが小さな声はアンリに届かない。

「ルトガー、剣を抜け。俺に負けたらリーゼを解放しろ」

「俺に勝つ気でいるのか、万年副団長さんよ」

 ルトガーは挑発する。
 ぎり、と奥歯を軋ませたアンリはルトガーに斬りかかった。


 いつの間にか降り出した雨は二人を泥まみれにする。
 小競り合いの鎮圧に来て、騎士団の団長と副団長は任務を放り出して私闘を繰り広げる。
 団員に見つかれば怒られるかな、とルトガーはぼんやり考えた。

 だから気付かなかった。


 夢中になりすぎて、じりじりと崖っぷちに追いやられている事に。

 そして、ルトガーは足を踏み外し、崖から落ちそうになった。
 それを見たアンリは手を伸ばしルトガーの手を掴んだ。


 だが、ズルリと、雨で湿った手が滑る。


「ルトガー!!」


 そうして、ルトガーは崖下に転落してしまったのだった。

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