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第一部〜ランゲ伯爵家〜
男の事情〜オスヴァルト⑮〜
しおりを挟む階下のざわめきを聞きながら、アーベルは自身の剣を手入れしていた。
間もなく悪役を断罪しに、英雄がやって来るだろうからと。
アーベルにはアンリの時の記憶があった。
それゆえ、信頼していた男の妻への裏切りが理解できなかったし許せなかった。
同時にアンネリーゼを『駆け落ちというレッテルを貼られたキズモノ』にした自分に憤ってもいたのだ。
とはいえ、ルトガーを殺すつもりは無かった。
夫を失ったアンネリーゼは見る間に窶れ、床に伏せるようになった。
そして、ルトガー亡き後、アンネリーゼも後を追うようにして亡くなってしまった。
アーベルの心はどす黒く染まり、淀み。
だが怒りの矛先をどこにも向けられず胸を掻き毟った。
己の、アンネリーゼの不幸の始まりはと考えた時。
まず向かった矛先はべレント伯爵家。
アンネリーゼの実家であるべレント伯爵家は、悪質な薬物を流通させたとして取り潰され、当主一家は行方が掴めなくなっていた。
アンネリーゼは辺境伯邸へ嫁いでいた為咎めは無かった。
それならばと次は辺境伯邸へと向いた。
ルトガーがアンネリーゼを裏切ってなければ。
アンネリーゼがルトガーと結婚してなければ。
許せない。許さない。
ルトガーは自分の信頼を反故にした。
アンネリーゼは自分を裏切った。
リーゼロッテを見る度、裏切りの証を突き付けられているようで苦しい。
そもそも身分の差が無ければ。
王都で騎士団に入団し、騎士爵を賜われていれば。
自分を入団させなかった、試験官であったあの男が憎い。
苦しいのはルトガーのせい。
苦しいのはアンネリーゼのせい。
苦しいのはリーゼロッテのせい。
苦しいのはべレント伯爵家のせい。
苦しいのは王都騎士団副団長のせい。
記憶喪失のままで良かった。
記憶が戻らなければ、ルトガーとアンネリーゼを温かく見守れた。
それが例え束の間の幸せでも、優しい嘘で騙されていたかった。
アーベルは剣を鞘におさめる。
濁りきった瞳には、もう何も映らない。
復讐に取り憑かれた心は、誰にも取り戻せない。
ただ、愛しい女性と共にありたかった。
望まぬ結婚を、阻止したかった。
「来たか」
扉から入室した男を見る。
「よう、拗ね男。引導を渡しに来たぞ」
それはアーベルからすれば思いもよらぬ男。
自分を王都騎士団に入れなかった副団長では無く、どうでもいい存在の男だった。
「誰だお前……。英雄では無いのか」
「お前も兄上狙いか。残念だったな、来たのが俺で」
「まあ、いい。肩慣らしにお前でも」
ゆらりと、無表情に剣を繰り出す。
オスヴァルトもそれに応える。
攻めと守りの攻防は、両者譲らず続いた。
「やるな」
「そっちも」
互いに肩で息をする。
剣で語り合うかのように、鍔迫り合う。
ずっと続くと思われたそれは、片方の剣が弾き飛ばされた事で決着を見せた。
「…………」
「鍛錬不足だろ」
「殺せ」
「誰が殺すかバカ。テレーゼ様たちにまず謝れ」
「殺せ」
「ふざけるな。生きろ。生きて償え」
「殺せ」
「絶っっっ対嫌だね」
虚ろな目を向けるアーベル。
だがオスヴァルトはじっと真っ直ぐ見据えていた。
アーベルはその視線が苦しかった。
かつては自分も騎士として罪人を見据えていた。
だが今の自分は理想も何もかもどうでも良くなった。
どこで道を誤ったのか。
憎しみに囚われ、何もかもどうでも良くなった。
ルトガーの裏切りも、アンネリーゼがそれを知らず幸せそうに笑っているのも。
「……トラウト卿、あなたに見てほしい物があります」
項垂れているアーベルに、やって来たテレーゼが差し出したのは一冊の日記。
辺境伯邸から持って来たのものだった。
「これを読めば……義姉さんの気持ちが分かるかもしれません」
そう言って、アーベルの手元にそっと置いた。
暫く動かなかったアーベルだったが、おもむろにページを開く。
そこには、アンネリーゼの想いが綴られていた。
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