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第二章/ユリアーナの幸せ
25.胸の小さな傷
意を決して、扉を叩く。
別にやましいことなんて無いはずだ。
返事を待つ間が気まずくて、薬を渡したらすぐに自室に帰りたくなった。
「……どうぞ」
どこか元気がないような返事がして、扉を開ける。
ここに入るのは前回も含めて初めてだ。
婚約していたときも、交流は主に応接室だった。
一歩、足を前に出して入ることすら緊張が走る。
ティアナは入ったことあったかしら。
まあ、あるわよね。夫婦だったんだもの。
前世で私はずっとユリアーナに付いていたから二人がどうしていたかは知らない。意図的に見ないようにもしていた。
もしかしたら目の前にあるソファに座って語らったりしていたのだろうと思うと、胸がざわついた。
「誰だ。クラークか? ……すまないが、胸焼けがスッキリする薬を持ってきてくれないか?」
近寄ってみれば、信じられないことに、カールハインツはソファでぐったりと横になっていた。
腕で目を隠しているせいか、入ってきたのが私とは気づいていないらしい。
「……さすがにクリームたっぷりのケーキは無理しすぎたようだ。だが、ユリアーナは喜んでいたから……まあ、無理したかいがあった」
私以外の前ではこんなに饒舌になるのか、と複雑な気持ちがする。
すっかり声をかけるタイミングを失ってしまった。
「マリーとも、久しぶりにゆっくり過ごせたんだ。ユリアーナの指示で隣に座った。あまり話せなかったが、少しずつ……少しずつでも歩み寄りたいと思っている。だがまだ緊張が先にくる。何年経っても慣れないな……」
はは、と自嘲するように笑う。
この先、私が聞いてもいいものなのだろうか?
そもそも、この人は何が言いたいの? ここにいるのがクラークと思っているからペラペラと話すの?
緊張が先にくるってなに? 何年経っても慣れない? いや、慣れて? もう十年以上の仲じゃない。
半ば呆れながら、漏れ出そうになため息を呑み込んで近づいた。
「ああ、すまない、クラー……ク……」
「クラークは手が離せないそうで、私が持って参りました」
「マリー?」
驚いたような声を上げられ、思わず眉間にシワが寄った。
呆けた彼を無視してテーブルに薬を置くと、すぐに踵を返す。
「マリー、待ってくれ」
「きゃぁっ!?」
だが、カールハインツに腕を掴まれ、引っ張られた。
バランスを崩してテーブルに頭をぶつけそうになったが、それをかばうようにして引き込まれる。
目を開ければ私はソファに横たわり、目線の先にカールハインツが覆い被さっていた。
ボタンを緩めたシャツの隙間から引き締まった白い胸が目に入り、その視界の端で小さな傷があるのを捕らえた。
彼が私の前に素肌を晒したことはない。
ユリアーナを授かったときでさえ、夫婦の寝室は窓から月明かりが差し込むだけだった。
だからこの傷が、いつついたものなのか知らない。
「っ、すまない!」
顔を真っ赤にしたカールハインツは、私の上から飛び退いた。
銀の髪に金の眼。薄い色合いだから顔の赤さが
際立っている。
「ケガはないか? 頭を打ったりはしていないか?」
「別に……」
焦燥が安堵に変わり、縋るような揺れる瞳に見つめられ、昔の私がいとも簡単に呼び起こされそうだ。
金の瞳に囚われたら、また虚しい気持ちがぶりかえってしまう。
「マリー……」
目をそらしたのに、その頬に冷たい指先が触れた。
壊れ物をなぞるように、ゆっくりと。
その冷たさに背中がゾッとして思わず叩いてしまった。
「触ら……ないで……」
触れられたところが熱くなる。
見られているだけで胸の奥の燻るものが、性懲りもなく燃えてしまいそうになる。
カールハインツに愛されたがっていた私が出てきそうになって、けれども唇を噛んで引っ込めた。
「すまない。……ケガが無いなら、よかった」
カールハインツは柔らかに笑み、傷ついたような顔をして胸の辺りの痛みを堪えるかのように握りしめている。
傷ついたみたいな顔して被害者ぶらないでほしい。
この人を見ていると腹が立って仕方がない。
どうして、と罵る言葉をぶつけたくなる。
死んでいた時に習った罵詈雑言を全て吐き出したくなる。
これ以上醜い自分にはなりたくなくて、目をそらした先に見えたのは、持ってきた薬だった。本来の目的を思い出し、今度こそ部屋を出ようと思った。
「そういえば、薬。飲みなさいよ」
身体を起こし、テーブルに置いた薬を指す。
先程ぶつかってしまったせいか、少し水がこぼれていた。
カールハインツは手を延ばしてそれを取り、煎じられた薬を飲み干した。
「ありがとう」
「……甘いものが苦手なのに、調子に乗るからよ」
「甘いものが苦手だと、自分でも気づいていなかったんだ。……きみは、知っていたのか?」
婚約していたときの交流の際も、クリームが乗ったケーキはあまり手がつけられていなかった。
それに気づいたあとは、甘さ控えめのものを選んでいた。
「あなたは……いつもさっぱりしたものを食べていたわ。甘くて重いケーキなんかは避けていたわ」
カールハインツは目を見開いた。もしかすると、無意識の行動だったのかもしれない。
とはいえ、ユリアーナから勧められたものを無碍に返すことがなくて、良かったとも思う。
「ああいうときは、ゆっくり食べるものよ。……でも、あなたが無理をしたおかげで、ユリアーナはとても嬉しそうに笑っていたわ」
思い出しただけで自分でも分かるくらい、顔が緩む。
ユリアーナは、ただ私たちが食べる様を、にこにこして見ていた。
陽が傾きかけてお開きになる頃には、もっとこのままでいたいと、残念そうだった。
もっと小さな頃から、特別な時間ではなく、当たり前の事のようにできていたら、と苦い気持ちが押し寄せる。
過ぎた時間は戻らない。
神様もどうせなら、ユリアーナが生まれたくらいからやり直しさせてくれたらよかったのに。
「……これからは、今日みたいな時間を作る。なんなら、執務の合間に毎回してもいい」
カールハインツの言葉に、期待はしていない。
「無理はなさらなくていいのよ」
「無理ではない」
「宰相のお仕事があるでしょう?」
「宰相は辞める。もう王太子殿下には告げている」
……は?
いやいやいやいやいやいやいやいやいや、ちょっと待って?
「これからはきみたちに時間を使う」
「待って、待って。あなた宰相でしょう? 国の重鎮。それを放棄するって正気?」
「ああ、正気も正気だ」
真剣な眼差しに息が詰まる。
今まで顧みなかった人が急に変わることってある?
「辞めなくていいわよ。そもそも、リュディガー殿下は許可しないでしょう」
「元々俺はフォルクハルト殿下の側近候補だった。繰り返さないようにと召し上げられたが、実際は……。それにそろそろリュディガー殿下の元々の側近たちに座を明け渡さないといけないだろう」
カールハインツが宰相となったのは、リュディガー殿下たっての頼みだった。
それで忙しく、家に帰らなかったくせに……
「今更ずっと家にいてもらっても、息が詰まるわ」
「だが……!」
「辞めなくていいわよ。私たちの事は気にしないで、好きなだけ仕事していてちょうだい」
「それは……」
迷い犬みたいな顔をするのはやめてほしい。
せっかくのユリアーナとの時間を、この人がノイズになってはたまったものではない。
「俺は……もう見ていないことで知らないことがあるのは嫌なんだ。毒を盛られたり、使用人に虐げられたり、取り返しがつかなくなるのはもう嫌なんだ……」
また、胸の辺りをギュッと掴む。無意識なのか、クセなのか。
婚約していたときはしていなかったから、最近からなのか。
「……急に辞めるのは周りに迷惑よ。徐々に……減らしていけばいいんじゃないかしら」
明日からずっと家にいます、とかは冗談じゃないわ。こっちにも色々と気持ちの準備とかあるし。
「それは、俺を受け入れてくれるということか?」
「わ、私は嫌だわ。別に離婚しても構わない。でも、ユリアーナが……嬉しそうにするから」
そうだ、これはユリアーナが言うから仕方ないことだ。
そんな言い訳を自分にしながらカールハインツを見れば、穏やかな表情で微笑っていた。
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