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CHAPTER1
Episode 6 / 月光と私
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「ふうさっぱりした」
ジェスターがシャワーを浴びて戻ってきた。タオルでわさわさとした髪を拭きながら、キッチンへ行った。
「あー、風呂どうだった」
「気持ちよかったよ。あんなにあったかいの、はじめてだったかも」
「そりゃよかった。俺使ってないから、好きに使ってくれ」
「ありがとう。せっかく、お風呂、入ったのに……あんなことしちゃってごめんなさい」
「そんな謝らなくても」
「でも、悪いことは悪いことだよ」
「はは、ほんと素直だな」
体はまたこわばっている。寒さや怖さが渦巻いて、それが指先にまで届いている。二の腕から肩にかけて自分を撫でる。あんなに恐ろしいものを放ってしまう自分が、ずっと怖い。自分は本当に何者なのか。
「ジェスター、私のこと、怖くないの?」
「なんでそんなこと聞く?」
「だって私あんなこと……」
「あれはしたくてやったことか?」
「いや……」
「ああいうの見ると、俺ほっとけないんだ」
「優しいんだね」
「ふん。まぁまぁ、別のお茶でも飲んでみるか?もうちょっと甘めで香りが強めなのとか、いろんなのがある。来てみろ」
手招きを見て、瓶が並んだ棚の前へ向かう。いろんな香りが混ざって、どこか不協和音のようにも思えるほどの、言葉に表し難い淀みを感じる。虫とか木とか、一見同じように見えてしまうものに違いを見出すのは、苦手かもしれない。いろんな種類があるのは分かるけれど、見分けがつかない。それと似ている。
「さ、選んでいいぞ」
彼はどこを見て違いを見つけるのだろう。色?香り?ラベルには入っているものの名前が殴り書きされているけれど、飲めそうなのは検討がつかない。選ぶって難しい。
「ごめん、私、お茶とかよく分からないかも……。さっき飲んだのは、美味しかった。でもこの中からってなると……」
「自分を見つける一番の近道は、自分の好きを探すことだ。ほら」
彼にそう促され、それもそうだと思いつつ、ひとつひとつ瓶の蓋を開けては香りを確かめた。華々しい香りや、絶対に苦い味がしそうな香り、鼻が曲がりそうになるほどに強烈な、もはや悪臭とまで言えるものまで。
ジェスターも一緒になって笑ってくれたりして、ただ選ぶだけなのに今この時が楽しいと思えた。彼のさっきの言葉が、強く胸に刻まれている。やっと、自分の見つけ方の答えのひとつを得られたんだ。
「うーん、これ、これ好きかも」
「なんだこれ、どこで買ったっけ?覚えてねーや。ま、これにするか」
最初に飲んだものよりも控えめな香りで、それでも奥深さがあるような感じ。ジェスターは香りが強くて色の濃いものを好んでいたけれど、私が選んだのは透明感のある色をしている。
お茶を選ぶだけだったのに、お風呂に入った時みたいな、背中が軽くなったような気分になった。こういう何気ないことに、私は憧れているのかもしれない。紅茶を入れてくれているジェスターを見てそう思った。
「味見したけど、結構クセ強めだな、これ。ほんとに好きかな?」
試しに一口飲んでみる。苦い。想像の数倍苦い。あの香りが口の中に入った途端顔色を変えて暴れている。嘘みたいに舌が縮こまる。声が漏れ出るほど鋭い味だ。
「ぃぃぃぃ、なんかすごい味……」
「あはは、お前苦いの弱いのか?確かにこれちょっと強いな」
「騙された気分……」
「あっはっは、顔が歪んでるぞ。俺も多分これはそんな好きじゃない。だからあんな端っこに置いてたのかもしんねえな」
もったいなく思って、勇気を出して全部飲み干す。口が嫌がっているけれど、何とか喉に通す。強烈に目が覚める味だった。
「私やっぱり……自分で選ぶとヤバいかも」
「お茶なんてな、とびっきり美味いの見つけるほうが難しいんだ。なんだって言えることだろうけど。回数重ねて、やっと見つけた時が最高なんだ」
よく考えると、自分で見つけて自分で確かめる、初めてだったと思う。それは当たり前のようで難しかった。このとびきり苦いお茶の味は二度と忘れない。
「ふん、そうだ、髪が暴れてるからこれ使え」
ビー玉みたいな小さな球体。ほんのりと温かい。ベルジがあの時使っていたものと似ている。
「なにこれ」
「ギュって潰してみろ」
言われた通り、人差し指と親指でつまんで、力を集中させて押し込んだ。思っていたよりも硬くて、なかなか潰れない。
「ははは、もっと力入れな?」
「む、むり……かたすぎない?これ……」
「じゃあ、手のひらに置いて、パチンってやってみな」
両手で勢いをつけて、球を挟むようにして潰す。すると火花がパチパチと控えめに起きて、風が顔の周りをぐるぐると巡った。重たかった髪がふわふわになっていく。
「すごい、サラサラ。なにこれ」
「便利だろ?最近流行ってるんだ。どういう仕組みか知らんが、髪が一瞬で乾くってな。そうだ、腹減ってないか?あはは、さっきから口に入れるもんばっかだな……」
「えへへ、今はいいかな、ありがとう」
彼はどこか慌てているようだった。次から次へと、私を元気づけようとしてくれてるんだということに、とっくに気づいていた。私の家族は今何をしているんだろう。私を探してくれているだろうか。それとも……。
「ふん、そうか。じゃあ、寝る時に使っていい部屋があるんだ。案内する」
二階には四つほど部屋があった。しかしどの部屋も、ドアの隙間から見える印象としては、長らく使われていないか、物置のどちらか。彼はほとんどを一階で過ごしているんだろう。インテリアの集中ぶりもそれを物語っている。廊下も何も飾られていたりしない。あれほどボロボロではないけれど、四区みたい。
「使ってないの?二階」
「え?あ、ああ。妻と娘が昔使ってたんだが、都に行ってるって言ったろ?」
「帰ってこないの?」
「……ああ、忙しくてな、二人。まそんなことだから、二階はお前にやる!」
「えぇ!?」
「二人のもんが残ってたりするけど、使ってくれ。あいつら、必要なもの以外は置いてったからな」
「う、うん。ありがたく使わせていただきます……」
ひとつは空き部屋。もう二つは彼の家族の部屋。そしてあとひとつは物置のようだ。特に物置は、窓から入ってくる月の光のカーテンで、雪のようにひらひらと埃が舞っている。そんな、丸ごと使ってくれと言われてもなと思いながら、指でこめかみを掻く。
「これ押せば電気が点くからな。じゃあ、おやすみ。アヴァ」
二階で一番広めの部屋で寝させてもらうことにした。大きな窓はたぶん、外から見えていたものだろう。丁寧に手入れされた鉢がある。銀色の月の光で、ほどよい明るさだ。暗くはないけれど、冷たさが残っていた。
年季の入ったワードローブやキャビネット、机、ドレッサーが目を引く。部屋のドアから覗くジェスターの影と、廊下の電気が暖炉の火のように映る。部屋の真ん中。ふわふわの毛布。大きなベッド。寝るには完璧だった。それでも、何かが布団の中に入らないような。
眠るということは、いずれ目を覚ますということ。それに底知れない恐れがあった。暗闇から扉を探して開くのと同じ。何が待っているか分からない。寝ることや目を覚ますことが、私をまた空っぽにしてしまうんじゃないかと、考えても無駄とわかっていても妄想が働いてしまう。あの扉が閉まると、私はまたたった一人――
頭が前に飛び出して、体がドアの方へ吸い寄せられていく。毛布を投げ捨てるように払いのける。糸でくっつけられて引っ張られる勢いで。
「待って……!」
一階に降りようとしていた彼に、私は後ろから力いっぱい抱きついていた。グッと力が入る。彼は黙ったまま私の手をおさえた。
「おっと」
「行かないで……」
「……どこにもいかないよ。ほら。大丈夫だ」
「一階で寝させて」彼の服にうずくまって、ごもごもとした声で言う。
「わかった。慣れてからでいいからな」
我ながら本当に幼い子供のようで恥ずかしかった。自制が効かず、気持ちが先走ってしまう。頭では分かっていても、体がいうことを聞かない。いざそれが試されるという時が来ても、思いどおりにするのは難しい。ごめんなさい、ジェスター。
「足元気をつけろよ」
階段を降りていく。ギシギシと音を立てながらあの落ち着く部屋へ向かった。なんだか怪物に襲われた後みたいな気持ちになった。傍から見れば、きっとジェスターのあとをつけていく私の姿は、あの時と同じように怯えていることだろう。
「あのソファー、背もたれを倒せる。あれを使いな」
暖炉の前はお風呂のように温まっていた。控えめな圧迫感を感じる。それはネガティブな感じとは程遠く、ペンギンたちがお互いに寄り添って寒さを凌いでいるのに近い。守られているという感覚がある。
前に動かしたり左右に揺らしたり、試行錯誤してようやく背もたれが駆動して、ベッドみたいになった。
「こんぐらいでいいか?」
ジェスターが毛布を持ってきた。木や葉っぱ、花の模様が刺繍してある。彼はかなり植物に関心があるのだろうか。表現しがたいが、この家特有の匂いが強い。ハーブか何かフレグランスか、あるいは香水か。いろんな要素が合わさってできているであろうこの匂いは、鼻がよく覚えておいてくれるだろう。
「ジェスター」
「ん?」
彼は暖炉の前にマットを敷いて横になった。
「何か……お話して?」
「話?」
「うん」
「何が聞きたい?」
「なんでもいい」
「やれやれ困っちゃうなそりゃ。じゃあ、お前にそっくりの女の子がいたって話、聞きたいか?」
「うそ、ほんと?」
「ああ。俺が子供の時に会ったんだ。ずいぶん昔のことだけど覚えてる。二十年か三十年前の話で、爺さんの葬式の後だった。名前とかは聞けなかった。あれからも会えてない。しばらく、一緒に遊んだりした。俺の話をめちゃめちゃ聞いてくれたけど、その子は自分のことをぜんぜん話してくれなかった」
背中を向けて、オレンジ色の輪郭を見せていたジェスターを私はじっと見ていた。そして、彼は振り返って、体の向きを変えた。横になった私の顔を見ながら、続けてくれた。
「ほんとにそっくりなんだよアヴァ。あの時の俺は恥ずかしがり屋で、ぜんぜんお返しとかできなかった。はは、かっこ悪いよな?」
「ううん。今のジェスターぜんぜんそんなことないよ」
「……そういうところ。そういうところだよ。ははは。今何やってるんだかな」
「そんな子に似てるだなんて。うれしいな」
ジェスターは背中を下げて、マットに寝転がった。両腕で枕を作る。暖炉の火花の音が大きくなった。
「記憶が無いって、どんな感覚なんだ?」
彼が天井を見ながら言った。
「ジェスターみたいに、話せないの。言われるまで、言葉が出てこないっていうか」
「そりゃ不思議だな」
「昔のこと話せるの羨ましいな。私ね、ずっと怖いの。何を知ってて何を知らないのか自分でも……わからない。言われるまで、わからない」
「一回、全部忘れて人生やり直したいとか、同僚がよく口ずさむんだ。そう上手くいきそうも無いな」
「なんじゃそりゃ……」
「お前にとっちゃスケールがデカすぎるか?ははは」
思い出や知っている言葉の積み重ねを、すべて取り消してまで人生をやり直したいとは、なんて願望なんだろう。想像がつかない。
「不味い紅茶だけ忘れたら、美味い紅茶の美味しさって気づけるのかって、いつも考えるんだ」
「えー……?」
「全部忘れたいとか、人生やり直したいとか。大抵、嫌なことがあったり行き詰ってたり、こんなはずじゃなかったって後悔してる人が言うんだよ。全部白紙に戻して、最初からってね」
「不味い紅茶……」
「ああ、俺はそう思わないのは、まさにそれだ。美味しい紅茶がもっと美味しくなる、そう思わないか?」
「……明日はいいの選ぶ!」
ジェスターは小さく笑いながら暖炉を指さして、スッと動かした。火花の音がバチバチと大きく鳴ると、静かに煙が解けていくように消えた。窓から入る白い月の光が、部屋を銀色にした。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ。ありがとうジェスター」
彼を見ながら小さくそう呟いた。
本当に、いい人に出会えてよかったと思える。とはいえ、私のせいで彼の生活に支障が出たらダメだ。保安官と言っていたし、ただのお仕事をしている訳でもなさそうだった。疲れていそうなのに。彼のことはまだまだよく分からないことだらけだけれど、複雑そうで、優しくて、疲れている。
自分を見つける一番の近道は、自分の好きを探すこと……。あの言葉が深く心に刻まれている。
ゴロゴロと喉を鳴らすマルを気にしながら、目をゆっくりと閉じて、息を深く吸って、吐いた。また明日、新しい一歩を踏み出せますように。
ジェスターがシャワーを浴びて戻ってきた。タオルでわさわさとした髪を拭きながら、キッチンへ行った。
「あー、風呂どうだった」
「気持ちよかったよ。あんなにあったかいの、はじめてだったかも」
「そりゃよかった。俺使ってないから、好きに使ってくれ」
「ありがとう。せっかく、お風呂、入ったのに……あんなことしちゃってごめんなさい」
「そんな謝らなくても」
「でも、悪いことは悪いことだよ」
「はは、ほんと素直だな」
体はまたこわばっている。寒さや怖さが渦巻いて、それが指先にまで届いている。二の腕から肩にかけて自分を撫でる。あんなに恐ろしいものを放ってしまう自分が、ずっと怖い。自分は本当に何者なのか。
「ジェスター、私のこと、怖くないの?」
「なんでそんなこと聞く?」
「だって私あんなこと……」
「あれはしたくてやったことか?」
「いや……」
「ああいうの見ると、俺ほっとけないんだ」
「優しいんだね」
「ふん。まぁまぁ、別のお茶でも飲んでみるか?もうちょっと甘めで香りが強めなのとか、いろんなのがある。来てみろ」
手招きを見て、瓶が並んだ棚の前へ向かう。いろんな香りが混ざって、どこか不協和音のようにも思えるほどの、言葉に表し難い淀みを感じる。虫とか木とか、一見同じように見えてしまうものに違いを見出すのは、苦手かもしれない。いろんな種類があるのは分かるけれど、見分けがつかない。それと似ている。
「さ、選んでいいぞ」
彼はどこを見て違いを見つけるのだろう。色?香り?ラベルには入っているものの名前が殴り書きされているけれど、飲めそうなのは検討がつかない。選ぶって難しい。
「ごめん、私、お茶とかよく分からないかも……。さっき飲んだのは、美味しかった。でもこの中からってなると……」
「自分を見つける一番の近道は、自分の好きを探すことだ。ほら」
彼にそう促され、それもそうだと思いつつ、ひとつひとつ瓶の蓋を開けては香りを確かめた。華々しい香りや、絶対に苦い味がしそうな香り、鼻が曲がりそうになるほどに強烈な、もはや悪臭とまで言えるものまで。
ジェスターも一緒になって笑ってくれたりして、ただ選ぶだけなのに今この時が楽しいと思えた。彼のさっきの言葉が、強く胸に刻まれている。やっと、自分の見つけ方の答えのひとつを得られたんだ。
「うーん、これ、これ好きかも」
「なんだこれ、どこで買ったっけ?覚えてねーや。ま、これにするか」
最初に飲んだものよりも控えめな香りで、それでも奥深さがあるような感じ。ジェスターは香りが強くて色の濃いものを好んでいたけれど、私が選んだのは透明感のある色をしている。
お茶を選ぶだけだったのに、お風呂に入った時みたいな、背中が軽くなったような気分になった。こういう何気ないことに、私は憧れているのかもしれない。紅茶を入れてくれているジェスターを見てそう思った。
「味見したけど、結構クセ強めだな、これ。ほんとに好きかな?」
試しに一口飲んでみる。苦い。想像の数倍苦い。あの香りが口の中に入った途端顔色を変えて暴れている。嘘みたいに舌が縮こまる。声が漏れ出るほど鋭い味だ。
「ぃぃぃぃ、なんかすごい味……」
「あはは、お前苦いの弱いのか?確かにこれちょっと強いな」
「騙された気分……」
「あっはっは、顔が歪んでるぞ。俺も多分これはそんな好きじゃない。だからあんな端っこに置いてたのかもしんねえな」
もったいなく思って、勇気を出して全部飲み干す。口が嫌がっているけれど、何とか喉に通す。強烈に目が覚める味だった。
「私やっぱり……自分で選ぶとヤバいかも」
「お茶なんてな、とびっきり美味いの見つけるほうが難しいんだ。なんだって言えることだろうけど。回数重ねて、やっと見つけた時が最高なんだ」
よく考えると、自分で見つけて自分で確かめる、初めてだったと思う。それは当たり前のようで難しかった。このとびきり苦いお茶の味は二度と忘れない。
「ふん、そうだ、髪が暴れてるからこれ使え」
ビー玉みたいな小さな球体。ほんのりと温かい。ベルジがあの時使っていたものと似ている。
「なにこれ」
「ギュって潰してみろ」
言われた通り、人差し指と親指でつまんで、力を集中させて押し込んだ。思っていたよりも硬くて、なかなか潰れない。
「ははは、もっと力入れな?」
「む、むり……かたすぎない?これ……」
「じゃあ、手のひらに置いて、パチンってやってみな」
両手で勢いをつけて、球を挟むようにして潰す。すると火花がパチパチと控えめに起きて、風が顔の周りをぐるぐると巡った。重たかった髪がふわふわになっていく。
「すごい、サラサラ。なにこれ」
「便利だろ?最近流行ってるんだ。どういう仕組みか知らんが、髪が一瞬で乾くってな。そうだ、腹減ってないか?あはは、さっきから口に入れるもんばっかだな……」
「えへへ、今はいいかな、ありがとう」
彼はどこか慌てているようだった。次から次へと、私を元気づけようとしてくれてるんだということに、とっくに気づいていた。私の家族は今何をしているんだろう。私を探してくれているだろうか。それとも……。
「ふん、そうか。じゃあ、寝る時に使っていい部屋があるんだ。案内する」
二階には四つほど部屋があった。しかしどの部屋も、ドアの隙間から見える印象としては、長らく使われていないか、物置のどちらか。彼はほとんどを一階で過ごしているんだろう。インテリアの集中ぶりもそれを物語っている。廊下も何も飾られていたりしない。あれほどボロボロではないけれど、四区みたい。
「使ってないの?二階」
「え?あ、ああ。妻と娘が昔使ってたんだが、都に行ってるって言ったろ?」
「帰ってこないの?」
「……ああ、忙しくてな、二人。まそんなことだから、二階はお前にやる!」
「えぇ!?」
「二人のもんが残ってたりするけど、使ってくれ。あいつら、必要なもの以外は置いてったからな」
「う、うん。ありがたく使わせていただきます……」
ひとつは空き部屋。もう二つは彼の家族の部屋。そしてあとひとつは物置のようだ。特に物置は、窓から入ってくる月の光のカーテンで、雪のようにひらひらと埃が舞っている。そんな、丸ごと使ってくれと言われてもなと思いながら、指でこめかみを掻く。
「これ押せば電気が点くからな。じゃあ、おやすみ。アヴァ」
二階で一番広めの部屋で寝させてもらうことにした。大きな窓はたぶん、外から見えていたものだろう。丁寧に手入れされた鉢がある。銀色の月の光で、ほどよい明るさだ。暗くはないけれど、冷たさが残っていた。
年季の入ったワードローブやキャビネット、机、ドレッサーが目を引く。部屋のドアから覗くジェスターの影と、廊下の電気が暖炉の火のように映る。部屋の真ん中。ふわふわの毛布。大きなベッド。寝るには完璧だった。それでも、何かが布団の中に入らないような。
眠るということは、いずれ目を覚ますということ。それに底知れない恐れがあった。暗闇から扉を探して開くのと同じ。何が待っているか分からない。寝ることや目を覚ますことが、私をまた空っぽにしてしまうんじゃないかと、考えても無駄とわかっていても妄想が働いてしまう。あの扉が閉まると、私はまたたった一人――
頭が前に飛び出して、体がドアの方へ吸い寄せられていく。毛布を投げ捨てるように払いのける。糸でくっつけられて引っ張られる勢いで。
「待って……!」
一階に降りようとしていた彼に、私は後ろから力いっぱい抱きついていた。グッと力が入る。彼は黙ったまま私の手をおさえた。
「おっと」
「行かないで……」
「……どこにもいかないよ。ほら。大丈夫だ」
「一階で寝させて」彼の服にうずくまって、ごもごもとした声で言う。
「わかった。慣れてからでいいからな」
我ながら本当に幼い子供のようで恥ずかしかった。自制が効かず、気持ちが先走ってしまう。頭では分かっていても、体がいうことを聞かない。いざそれが試されるという時が来ても、思いどおりにするのは難しい。ごめんなさい、ジェスター。
「足元気をつけろよ」
階段を降りていく。ギシギシと音を立てながらあの落ち着く部屋へ向かった。なんだか怪物に襲われた後みたいな気持ちになった。傍から見れば、きっとジェスターのあとをつけていく私の姿は、あの時と同じように怯えていることだろう。
「あのソファー、背もたれを倒せる。あれを使いな」
暖炉の前はお風呂のように温まっていた。控えめな圧迫感を感じる。それはネガティブな感じとは程遠く、ペンギンたちがお互いに寄り添って寒さを凌いでいるのに近い。守られているという感覚がある。
前に動かしたり左右に揺らしたり、試行錯誤してようやく背もたれが駆動して、ベッドみたいになった。
「こんぐらいでいいか?」
ジェスターが毛布を持ってきた。木や葉っぱ、花の模様が刺繍してある。彼はかなり植物に関心があるのだろうか。表現しがたいが、この家特有の匂いが強い。ハーブか何かフレグランスか、あるいは香水か。いろんな要素が合わさってできているであろうこの匂いは、鼻がよく覚えておいてくれるだろう。
「ジェスター」
「ん?」
彼は暖炉の前にマットを敷いて横になった。
「何か……お話して?」
「話?」
「うん」
「何が聞きたい?」
「なんでもいい」
「やれやれ困っちゃうなそりゃ。じゃあ、お前にそっくりの女の子がいたって話、聞きたいか?」
「うそ、ほんと?」
「ああ。俺が子供の時に会ったんだ。ずいぶん昔のことだけど覚えてる。二十年か三十年前の話で、爺さんの葬式の後だった。名前とかは聞けなかった。あれからも会えてない。しばらく、一緒に遊んだりした。俺の話をめちゃめちゃ聞いてくれたけど、その子は自分のことをぜんぜん話してくれなかった」
背中を向けて、オレンジ色の輪郭を見せていたジェスターを私はじっと見ていた。そして、彼は振り返って、体の向きを変えた。横になった私の顔を見ながら、続けてくれた。
「ほんとにそっくりなんだよアヴァ。あの時の俺は恥ずかしがり屋で、ぜんぜんお返しとかできなかった。はは、かっこ悪いよな?」
「ううん。今のジェスターぜんぜんそんなことないよ」
「……そういうところ。そういうところだよ。ははは。今何やってるんだかな」
「そんな子に似てるだなんて。うれしいな」
ジェスターは背中を下げて、マットに寝転がった。両腕で枕を作る。暖炉の火花の音が大きくなった。
「記憶が無いって、どんな感覚なんだ?」
彼が天井を見ながら言った。
「ジェスターみたいに、話せないの。言われるまで、言葉が出てこないっていうか」
「そりゃ不思議だな」
「昔のこと話せるの羨ましいな。私ね、ずっと怖いの。何を知ってて何を知らないのか自分でも……わからない。言われるまで、わからない」
「一回、全部忘れて人生やり直したいとか、同僚がよく口ずさむんだ。そう上手くいきそうも無いな」
「なんじゃそりゃ……」
「お前にとっちゃスケールがデカすぎるか?ははは」
思い出や知っている言葉の積み重ねを、すべて取り消してまで人生をやり直したいとは、なんて願望なんだろう。想像がつかない。
「不味い紅茶だけ忘れたら、美味い紅茶の美味しさって気づけるのかって、いつも考えるんだ」
「えー……?」
「全部忘れたいとか、人生やり直したいとか。大抵、嫌なことがあったり行き詰ってたり、こんなはずじゃなかったって後悔してる人が言うんだよ。全部白紙に戻して、最初からってね」
「不味い紅茶……」
「ああ、俺はそう思わないのは、まさにそれだ。美味しい紅茶がもっと美味しくなる、そう思わないか?」
「……明日はいいの選ぶ!」
ジェスターは小さく笑いながら暖炉を指さして、スッと動かした。火花の音がバチバチと大きく鳴ると、静かに煙が解けていくように消えた。窓から入る白い月の光が、部屋を銀色にした。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ。ありがとうジェスター」
彼を見ながら小さくそう呟いた。
本当に、いい人に出会えてよかったと思える。とはいえ、私のせいで彼の生活に支障が出たらダメだ。保安官と言っていたし、ただのお仕事をしている訳でもなさそうだった。疲れていそうなのに。彼のことはまだまだよく分からないことだらけだけれど、複雑そうで、優しくて、疲れている。
自分を見つける一番の近道は、自分の好きを探すこと……。あの言葉が深く心に刻まれている。
ゴロゴロと喉を鳴らすマルを気にしながら、目をゆっくりと閉じて、息を深く吸って、吐いた。また明日、新しい一歩を踏み出せますように。
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額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
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