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CHAPTER1
Episode 5 / 鏡面の私
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「あの人って……」
ジェスターの背景に見えたのは、壁にかけられた写真。彼を挟むように、二人の女性が映っている。左には彼より少し背の低い、肩まで伸ばした金髪の綺麗な人。右には私と同じくらいの子が、とびっきりの笑顔でポーズをとっている。ジェスターはひまわりみたいに明るい表情だ。芝生の向こうには一階建ての家がうっすらと見える。木も生い茂っていて、透けた黄緑の葉が点描のようだ。
「ああ、これか?俺の家族だ。あの二人は今、都に行ってる。……あっちで色々頑張ってる」
「みやこ?」
ジェスターは写真の二人に目を合わせながら言った。 車の中で話している時、彼の目を見ていると、どこか誰かを待っているような、そんな感じがしていた。この二人のことを考えていたのだろうか。
「まあまた今度見せてやる。海沿いに行けば見えるからな。いい眺めだ。お城はいつ見ても、びっくりするよ」
「楽しみ」
ここが海の近くだと知って不思議と嬉しくなった。いつでも行けるならもっといい。私の中には何も残っていないと思っていたけれど、海のあの心地良さは知っている。さざなみの音が想像できる。都という場所は海沿いか、それとも海の向こうにあるのだろうか。お城というのも気になる。
洗面所にいた錆び猫が静かに歩いてきた。こっちを向いて鳴く。
「風呂が沸いたようだな。そいつ、すげえだろ?」
「教えてくれるの?偉いね~」
しゃがみこんで撫でてみた。スっとしてしなやかな毛並みに長いしっぽ。首の裏側が好きみたいだ。目を瞑ってゴロゴロと喉を鳴らしながら首筋を伸ばしている。撫で続けているとしっぽを上に立てた。ごきげんみたいだ。
「名前は?」
「あー、つけてない」
「……えぇ?かわいそう」
「いつの間にかここに住み込んでるんだ……」
「私みたいね」
相変わらず奇妙なことばっかりの家、ここにいるのもやっぱり落ち着かない気もしつつ、「さっきまんまるになってたから、マルちゃん、どう?」と咄嗟に思いついたから言ってみた。
「あ、安直な……まあいいさ。名前のありがたみは、お前の方が知ってるかもな」
私の目を見て、にゃーと鳴いてくれる。すごく愛おしい。
「いつからいるの?」
「二、三年前か……?」
「え、なんて呼んでたの?」
「猫。……二階から着替え取ってくる。妻のか娘のか、もう長く着てないのが結構置いてあるから」
「あ、ありがとう」
ジェスターが持ってきてくれた湯浴みに着替え、風呂場のドアを開けると、大広間みたいに音が響いて驚いた。床は冷たい石でできていて、足裏がキンとする。それでもお腹から上は湯気で温められて、変な感じだ。
ツヤのある木製の湯船に、暖かいお湯が海みたいに溜まっていた。体を数回流して、ゆっくり慎重に入ってみる。足先がびっくりして声が出そうになりながらも、誰かの眠りを妨げないような感じで、自分の体を沈めていく。少し熱い。でも、痛い熱さじゃない。まるでお湯が生きているみたいに撫でてくる。
なんとも言えない心地良さから、ふぅ、と一息つく。じんとくる熱が筋肉痛か、こわばったところをほぐしてくれるような感じがする。さらさらとしたお湯のおかげか、肌にもツヤが出ている。すこし花の香りも漂っている。力を抜いて頭を縁に任せて天井を見ると、白い湯気が雲のようになっていた。
「湯加減はどうだー」と扉の奥から張った声が聞こえた。
「ちょうどいいー」
「そりゃよかった」
心の内側まで洗われる。やはり雨のぬるま湯のような感じと、体に吸い付いてくる服ときたら、気分が悪くなるものだった。
自分の手、足、体。お湯の揺れに答えるように、温かい波を感じる。自分で動かしてるんだ、と思う。両手ですくって顔にかけると、ほんの一瞬の温もりのあとにじわじわと冷えていく。こんなにお湯に浸かっているのにも関わらず、寒く感じて首も沈めた。擦りむいた膝は、浸した時にはチクリと痛んだが、次第にそれも誤魔化されていく。
それにしても、あの怪物はなんだったんだろう。とても自然に生きているものとは思えない。そんなものが街の廃墟をさまよっているのもおかしい。ジェスターの言っていた花だとか魔法だとか。こんなところで本当に生きていける?私は結局、誰なのか。一時でも忘れたい悩みだけど、これしか考えることが無い。
本当はみんな、明日何しようとか、昨日どこどこ行ったね、楽しかったね、と思いを馳せるのだろうけど。私にはそれがない。じっと、お湯の表面にできた分裂する泡を見ながら、口でぶくぶくと泡をさらに作る。私を取り戻す魔法とか、ないのだろうか。取り戻しても、取り戻した後、何をするんだろうか。
ジェスターに教えてもらった通り、瓶の蓋をそっと開ける。中から淡い花の香りが広がって、湯気の中に溶けていった。手のひらに落とした透明な液体を、指の腹でゆっくりと髪に馴染ませると、それが泡立っていく。ぬるりとした感触が、頭の奥まで染み込んでいくようで不思議だ。
鏡に映っている自分の顔かもしれないものを見ながら、シャワーを使って流す。これが自分、これが自分、と言い聞かせる。思っていたより自分の髪は長い。結んでいたから気が付かなかった。
苔をこそげ落とした石みたいにさっぱりとした。全身の水分を拭き取って、ちょっとした寒さを感じつつ、用意されたオーバーサイズな無地の服を着る。風呂場から出て、タオルで顔をしっかり拭く。
私。私と目が合う。洗面台の鏡。本当に自分の顔なんだ。目を瞑る瞬間に、まぶたが同時に降りるのが見える。猫みたいな目。水たまりで見たのと同じ。口に手を当てる。鏡に映る彼女も、唇に指を滑らせる。髪をよけるのも真似してくる。何から何まで、全部真似。
「ねえ、どこから来たの?」と鏡に向かって話しかけてしまう。何があってここに来てしまったのか。
ここが嫌なわけじゃない。でも、私だけがこんな目に遭わなければならなかった理由は何だろうか。ジェスターにとって、本当に私は迷惑じゃないのか。あれは彼なりに無理しているんじゃないか。私があそこにいなければ、ベルジは大変な思いをせず済んだかもしれない。ああ、全く洗い流せていない。全部流してしまいたい。
悔しい。目尻から何かが滑り落ちて、洗面台に滴る音がした。
目を開けてから、周りの音が聞こえなくなった。耳鳴りかもしれない。分からない。
涙が落ちたところに、あの怪物と同じような黒があった。
一輪の蓮のような花。
息が苦しくなる。とんでもないものを自分は出してしまったのだろうか。ジェスターの言っていたことを思い出す。恐怖などが怪物を呼び寄せてしまうということ。おかしい。分からない。自分の目が勝手に閉じていく。それは嫌気からくるようなものだった。喉と指先の震えが襲う――
鏡に向かってそれを放ってしまったんだろう。凄まじい轟音で、洗面所が瞬時に氷の部屋になってしまった。
寒い。せっかくお風呂用意してくれたのに。せっかく、私のために。ガラスの破片が飛び散っている。映っていた自分の顔が分裂している。私は小さくなって頭を覆い隠す。たくさんの私が泣いている。
「アヴァ!?アヴァ!」
ドアは氷で固められてしまっていた。向こうでジェスターが私の名前を呼びながら、激しく叩いている。ひび割れていくのは分かるが、ビクともしていない。
部屋はだんだん冷たくなっていく。結晶が生気を吸い取るように見えた。白い息。詰まりそう。誰かここから出して――
ドアから小さな熱を感じた。氷が水みたいに弾けながら塵になっていく。何度も何度も蹴って、ついにこじ開けられた。ジェスターはすぐに私を見た。こんな有様、こんなことをしてしまった私を見て欲しくなかった。怒られるのではないかとも思った。そんなことはなかった。
「ああぁ、アヴァお前ってやつは……!」
ジェスター震えた声で言いながら、駆けつけて私を抱きしめた。頭に手を当てて撫でてくれた。彼の顔が見れない。でも手が震えているのが分かる。寒さからじゃないと思う。背中をさすってくれる。汚れを落とすようにそっと。毛布もかけてくれた。
鼻のあたりがけいれんしている。大きく泣いた後の余韻みたいだ。
「私なんでこうなっちゃうんだろ……」
「いいか、落ち着くんだ。深呼吸だ。何も、考えるな」
マルが廊下から頭を傾けてこっちを見ていた。表情はないはずだけれど、心配してくれているようだった。ジェスターはゆっくりと背中をさすり続けた。
だんだんと、息が整ってきた。辺りを見る。洗面台には尖った氷が突き刺さっているように見えた。そこを起点として、部屋全体が青い膜で覆われている。ひっきりなしにヒビの入る音が、カタカタとあちこちから聞こえてくる。
「ごめんなさい……」息を吸ってなんとか口に出す。
「いいんだ。頑張ったな」
「私やっぱり、ひとりが怖いの」
彼の息が詰まった。どこかを見ている。口を開けて――背中に置いた手に力が入っている。
「……ちょっと、ジェスター?」
「これは……キッツいな……ははは……」
「聞こえるの?」
「痛いほどな、よしよし落ち着け」
ジェスターの手の温もりが増していく。いつしか部屋全体、元通りになっていた。壊れたものは戻らなかった。鏡は粉々、洗面台はぐちゃぐちゃ。ランプも目を覚ましたように点滅しながら細々とした光を灯した。
自分のことを意識しだすと、取り乱してしまう。本当はみんな分かっているはずのこと、知っていて当然のことさえ私には無いのだ。魔法なのかなんなのか分からないこの氷だって、制御できないし、頭を狂わせるような暗い言葉や妄想が繰り返される。この捨てられたような気持ちはなんだろう。
「変な……変な花が出てきた。ねえなんなのか教えて」
私の涙から現れた、黒く染まった蓮の花。濃い青の光を仄かに放っている。ジェスターは二度見をしたようだった。顎が外れたように口を開けている。
「なんだこの……」
よく知らないけれど、驚くのにも納得ができた。彼の言っていた花っていうのも、このことなんだろう。こんな色の花が普通なわけない。よく考えなくても察しがつく。それくらいに、禍々しい。
「とりあえずリビングに戻ろうか。体も冷えてる」
「ほんと……ごめんなさい」
じっと見ていると、涙から咲いた花はだんだん砂のように粉々になって、形を無くしていった。あの氷が出た瞬間、出た後、聞こえた人の声。よく聞き取れなかったけれど、それは絶対に泣いている。
ベルジが使ってはいけないと言っていた。氷は、何らかの形で良くないものを呼び寄せてしまうのかもしれない。それから、それが私の頭の中をぐちゃぐちゃにするんだ。あの時に彼は気づいてくれていたんだ。
リビングは目を休ませてくれる色で満たされていた。温かい。ふわふわの毛布がより優しく包んでくれる。
「ふぅ。派手にやったな。まあ、仕方ない」
「私あんなことしたのに。怒らないの?」
「まあ、仕方ないからな」
「なにか知ってるの?」
ジェスターは手を前に出して、空気をそっと掴むような合図をした。するとマッチ棒の火がつくように、煌びやかな光の粉を出しながら淡く光る赤い花が現れた。私とは違って、黒いところがひとつとして無さそうに見える。
「それ……!綺麗……」
「俺のだ。形見?みたいな。人を象徴する花なんだ」
グッと服の袖を掴んだまま、必死に彼の言っていることをよく理解しようとする。私のあの花が自分を象徴――私のどこがあんな様子にしているんだろう。
「あの氷……なんなの?よくない考えとか、いろいろ浮かんでくるの。嫌になるくらい」
「あれは魔法だよアヴァ。お前の。良くないものが流れてくる感じがするだろ?」
「うん……ベルジくんも言ってたね」
「自分の魔法に負けるとさっきみたいになるんだ。余計なこと考えなかったか?」
「顔はじめて見てさ、私ほんとに私なのか、分かんなくて」
「そうか……俺にはどんな気持ちか想像つかねえな……。でも、お前はちゃんと、お前だ。ここにいるぞ」
「ありがとう。……鏡に写ってたのは、本当に私なの?」
「どうして?」
「だって、よく分からないものに、よく分からない氷。よく分からない所に、よく分からない自分……!気持ち悪い生き物も、花も、魔法なんて、ぜんぶよく分からない。私は、自分の目さえ信じられないんだよ……?ジェスターは、ほんとに私の事知らないの……?知っててこんなことしてる?だったらどうして私のこと素直に……!」
「落ち着け」
「落ち着いてる……もん」
自分ではそのつもりだった。頬が麻痺でもしていたのかもしれない。色のついた氷の粒が床に落ちている。
「お前の目がどんなふうに、ここを見ているか分からない。でも俺もベルジも、ちゃんとお前のこと、見てたし、一緒に歩いただろう?俺はお前の妄想か?ベルジも?」
「いや……ちがう」
「そうだろう?全部を疑いたくなるかもしれないが、キリがないぞ」
「じゃあ、どうすればいい……?」
「うーん。じゃあ明日、病院に行ってみないか。いろいろ体のこととか、精神面のことも診てもらえる。俺もそこまで花に詳しいわけじゃない。記憶喪失と関係してるか、知りたくないか?」
私は頷いた。前に進めることはとことんやるべきだと思った。逃げられない現実に背いていても、苦しい毎日が続くだけだろうから。もっと勇気が必要だ。すぐにそれは芽生えないだろう。自分の魔法と戦わなくてはならない。自分の弱みに付け込んでくる、氷の魔法と花と。
ジェスターの背景に見えたのは、壁にかけられた写真。彼を挟むように、二人の女性が映っている。左には彼より少し背の低い、肩まで伸ばした金髪の綺麗な人。右には私と同じくらいの子が、とびっきりの笑顔でポーズをとっている。ジェスターはひまわりみたいに明るい表情だ。芝生の向こうには一階建ての家がうっすらと見える。木も生い茂っていて、透けた黄緑の葉が点描のようだ。
「ああ、これか?俺の家族だ。あの二人は今、都に行ってる。……あっちで色々頑張ってる」
「みやこ?」
ジェスターは写真の二人に目を合わせながら言った。 車の中で話している時、彼の目を見ていると、どこか誰かを待っているような、そんな感じがしていた。この二人のことを考えていたのだろうか。
「まあまた今度見せてやる。海沿いに行けば見えるからな。いい眺めだ。お城はいつ見ても、びっくりするよ」
「楽しみ」
ここが海の近くだと知って不思議と嬉しくなった。いつでも行けるならもっといい。私の中には何も残っていないと思っていたけれど、海のあの心地良さは知っている。さざなみの音が想像できる。都という場所は海沿いか、それとも海の向こうにあるのだろうか。お城というのも気になる。
洗面所にいた錆び猫が静かに歩いてきた。こっちを向いて鳴く。
「風呂が沸いたようだな。そいつ、すげえだろ?」
「教えてくれるの?偉いね~」
しゃがみこんで撫でてみた。スっとしてしなやかな毛並みに長いしっぽ。首の裏側が好きみたいだ。目を瞑ってゴロゴロと喉を鳴らしながら首筋を伸ばしている。撫で続けているとしっぽを上に立てた。ごきげんみたいだ。
「名前は?」
「あー、つけてない」
「……えぇ?かわいそう」
「いつの間にかここに住み込んでるんだ……」
「私みたいね」
相変わらず奇妙なことばっかりの家、ここにいるのもやっぱり落ち着かない気もしつつ、「さっきまんまるになってたから、マルちゃん、どう?」と咄嗟に思いついたから言ってみた。
「あ、安直な……まあいいさ。名前のありがたみは、お前の方が知ってるかもな」
私の目を見て、にゃーと鳴いてくれる。すごく愛おしい。
「いつからいるの?」
「二、三年前か……?」
「え、なんて呼んでたの?」
「猫。……二階から着替え取ってくる。妻のか娘のか、もう長く着てないのが結構置いてあるから」
「あ、ありがとう」
ジェスターが持ってきてくれた湯浴みに着替え、風呂場のドアを開けると、大広間みたいに音が響いて驚いた。床は冷たい石でできていて、足裏がキンとする。それでもお腹から上は湯気で温められて、変な感じだ。
ツヤのある木製の湯船に、暖かいお湯が海みたいに溜まっていた。体を数回流して、ゆっくり慎重に入ってみる。足先がびっくりして声が出そうになりながらも、誰かの眠りを妨げないような感じで、自分の体を沈めていく。少し熱い。でも、痛い熱さじゃない。まるでお湯が生きているみたいに撫でてくる。
なんとも言えない心地良さから、ふぅ、と一息つく。じんとくる熱が筋肉痛か、こわばったところをほぐしてくれるような感じがする。さらさらとしたお湯のおかげか、肌にもツヤが出ている。すこし花の香りも漂っている。力を抜いて頭を縁に任せて天井を見ると、白い湯気が雲のようになっていた。
「湯加減はどうだー」と扉の奥から張った声が聞こえた。
「ちょうどいいー」
「そりゃよかった」
心の内側まで洗われる。やはり雨のぬるま湯のような感じと、体に吸い付いてくる服ときたら、気分が悪くなるものだった。
自分の手、足、体。お湯の揺れに答えるように、温かい波を感じる。自分で動かしてるんだ、と思う。両手ですくって顔にかけると、ほんの一瞬の温もりのあとにじわじわと冷えていく。こんなにお湯に浸かっているのにも関わらず、寒く感じて首も沈めた。擦りむいた膝は、浸した時にはチクリと痛んだが、次第にそれも誤魔化されていく。
それにしても、あの怪物はなんだったんだろう。とても自然に生きているものとは思えない。そんなものが街の廃墟をさまよっているのもおかしい。ジェスターの言っていた花だとか魔法だとか。こんなところで本当に生きていける?私は結局、誰なのか。一時でも忘れたい悩みだけど、これしか考えることが無い。
本当はみんな、明日何しようとか、昨日どこどこ行ったね、楽しかったね、と思いを馳せるのだろうけど。私にはそれがない。じっと、お湯の表面にできた分裂する泡を見ながら、口でぶくぶくと泡をさらに作る。私を取り戻す魔法とか、ないのだろうか。取り戻しても、取り戻した後、何をするんだろうか。
ジェスターに教えてもらった通り、瓶の蓋をそっと開ける。中から淡い花の香りが広がって、湯気の中に溶けていった。手のひらに落とした透明な液体を、指の腹でゆっくりと髪に馴染ませると、それが泡立っていく。ぬるりとした感触が、頭の奥まで染み込んでいくようで不思議だ。
鏡に映っている自分の顔かもしれないものを見ながら、シャワーを使って流す。これが自分、これが自分、と言い聞かせる。思っていたより自分の髪は長い。結んでいたから気が付かなかった。
苔をこそげ落とした石みたいにさっぱりとした。全身の水分を拭き取って、ちょっとした寒さを感じつつ、用意されたオーバーサイズな無地の服を着る。風呂場から出て、タオルで顔をしっかり拭く。
私。私と目が合う。洗面台の鏡。本当に自分の顔なんだ。目を瞑る瞬間に、まぶたが同時に降りるのが見える。猫みたいな目。水たまりで見たのと同じ。口に手を当てる。鏡に映る彼女も、唇に指を滑らせる。髪をよけるのも真似してくる。何から何まで、全部真似。
「ねえ、どこから来たの?」と鏡に向かって話しかけてしまう。何があってここに来てしまったのか。
ここが嫌なわけじゃない。でも、私だけがこんな目に遭わなければならなかった理由は何だろうか。ジェスターにとって、本当に私は迷惑じゃないのか。あれは彼なりに無理しているんじゃないか。私があそこにいなければ、ベルジは大変な思いをせず済んだかもしれない。ああ、全く洗い流せていない。全部流してしまいたい。
悔しい。目尻から何かが滑り落ちて、洗面台に滴る音がした。
目を開けてから、周りの音が聞こえなくなった。耳鳴りかもしれない。分からない。
涙が落ちたところに、あの怪物と同じような黒があった。
一輪の蓮のような花。
息が苦しくなる。とんでもないものを自分は出してしまったのだろうか。ジェスターの言っていたことを思い出す。恐怖などが怪物を呼び寄せてしまうということ。おかしい。分からない。自分の目が勝手に閉じていく。それは嫌気からくるようなものだった。喉と指先の震えが襲う――
鏡に向かってそれを放ってしまったんだろう。凄まじい轟音で、洗面所が瞬時に氷の部屋になってしまった。
寒い。せっかくお風呂用意してくれたのに。せっかく、私のために。ガラスの破片が飛び散っている。映っていた自分の顔が分裂している。私は小さくなって頭を覆い隠す。たくさんの私が泣いている。
「アヴァ!?アヴァ!」
ドアは氷で固められてしまっていた。向こうでジェスターが私の名前を呼びながら、激しく叩いている。ひび割れていくのは分かるが、ビクともしていない。
部屋はだんだん冷たくなっていく。結晶が生気を吸い取るように見えた。白い息。詰まりそう。誰かここから出して――
ドアから小さな熱を感じた。氷が水みたいに弾けながら塵になっていく。何度も何度も蹴って、ついにこじ開けられた。ジェスターはすぐに私を見た。こんな有様、こんなことをしてしまった私を見て欲しくなかった。怒られるのではないかとも思った。そんなことはなかった。
「ああぁ、アヴァお前ってやつは……!」
ジェスター震えた声で言いながら、駆けつけて私を抱きしめた。頭に手を当てて撫でてくれた。彼の顔が見れない。でも手が震えているのが分かる。寒さからじゃないと思う。背中をさすってくれる。汚れを落とすようにそっと。毛布もかけてくれた。
鼻のあたりがけいれんしている。大きく泣いた後の余韻みたいだ。
「私なんでこうなっちゃうんだろ……」
「いいか、落ち着くんだ。深呼吸だ。何も、考えるな」
マルが廊下から頭を傾けてこっちを見ていた。表情はないはずだけれど、心配してくれているようだった。ジェスターはゆっくりと背中をさすり続けた。
だんだんと、息が整ってきた。辺りを見る。洗面台には尖った氷が突き刺さっているように見えた。そこを起点として、部屋全体が青い膜で覆われている。ひっきりなしにヒビの入る音が、カタカタとあちこちから聞こえてくる。
「ごめんなさい……」息を吸ってなんとか口に出す。
「いいんだ。頑張ったな」
「私やっぱり、ひとりが怖いの」
彼の息が詰まった。どこかを見ている。口を開けて――背中に置いた手に力が入っている。
「……ちょっと、ジェスター?」
「これは……キッツいな……ははは……」
「聞こえるの?」
「痛いほどな、よしよし落ち着け」
ジェスターの手の温もりが増していく。いつしか部屋全体、元通りになっていた。壊れたものは戻らなかった。鏡は粉々、洗面台はぐちゃぐちゃ。ランプも目を覚ましたように点滅しながら細々とした光を灯した。
自分のことを意識しだすと、取り乱してしまう。本当はみんな分かっているはずのこと、知っていて当然のことさえ私には無いのだ。魔法なのかなんなのか分からないこの氷だって、制御できないし、頭を狂わせるような暗い言葉や妄想が繰り返される。この捨てられたような気持ちはなんだろう。
「変な……変な花が出てきた。ねえなんなのか教えて」
私の涙から現れた、黒く染まった蓮の花。濃い青の光を仄かに放っている。ジェスターは二度見をしたようだった。顎が外れたように口を開けている。
「なんだこの……」
よく知らないけれど、驚くのにも納得ができた。彼の言っていた花っていうのも、このことなんだろう。こんな色の花が普通なわけない。よく考えなくても察しがつく。それくらいに、禍々しい。
「とりあえずリビングに戻ろうか。体も冷えてる」
「ほんと……ごめんなさい」
じっと見ていると、涙から咲いた花はだんだん砂のように粉々になって、形を無くしていった。あの氷が出た瞬間、出た後、聞こえた人の声。よく聞き取れなかったけれど、それは絶対に泣いている。
ベルジが使ってはいけないと言っていた。氷は、何らかの形で良くないものを呼び寄せてしまうのかもしれない。それから、それが私の頭の中をぐちゃぐちゃにするんだ。あの時に彼は気づいてくれていたんだ。
リビングは目を休ませてくれる色で満たされていた。温かい。ふわふわの毛布がより優しく包んでくれる。
「ふぅ。派手にやったな。まあ、仕方ない」
「私あんなことしたのに。怒らないの?」
「まあ、仕方ないからな」
「なにか知ってるの?」
ジェスターは手を前に出して、空気をそっと掴むような合図をした。するとマッチ棒の火がつくように、煌びやかな光の粉を出しながら淡く光る赤い花が現れた。私とは違って、黒いところがひとつとして無さそうに見える。
「それ……!綺麗……」
「俺のだ。形見?みたいな。人を象徴する花なんだ」
グッと服の袖を掴んだまま、必死に彼の言っていることをよく理解しようとする。私のあの花が自分を象徴――私のどこがあんな様子にしているんだろう。
「あの氷……なんなの?よくない考えとか、いろいろ浮かんでくるの。嫌になるくらい」
「あれは魔法だよアヴァ。お前の。良くないものが流れてくる感じがするだろ?」
「うん……ベルジくんも言ってたね」
「自分の魔法に負けるとさっきみたいになるんだ。余計なこと考えなかったか?」
「顔はじめて見てさ、私ほんとに私なのか、分かんなくて」
「そうか……俺にはどんな気持ちか想像つかねえな……。でも、お前はちゃんと、お前だ。ここにいるぞ」
「ありがとう。……鏡に写ってたのは、本当に私なの?」
「どうして?」
「だって、よく分からないものに、よく分からない氷。よく分からない所に、よく分からない自分……!気持ち悪い生き物も、花も、魔法なんて、ぜんぶよく分からない。私は、自分の目さえ信じられないんだよ……?ジェスターは、ほんとに私の事知らないの……?知っててこんなことしてる?だったらどうして私のこと素直に……!」
「落ち着け」
「落ち着いてる……もん」
自分ではそのつもりだった。頬が麻痺でもしていたのかもしれない。色のついた氷の粒が床に落ちている。
「お前の目がどんなふうに、ここを見ているか分からない。でも俺もベルジも、ちゃんとお前のこと、見てたし、一緒に歩いただろう?俺はお前の妄想か?ベルジも?」
「いや……ちがう」
「そうだろう?全部を疑いたくなるかもしれないが、キリがないぞ」
「じゃあ、どうすればいい……?」
「うーん。じゃあ明日、病院に行ってみないか。いろいろ体のこととか、精神面のことも診てもらえる。俺もそこまで花に詳しいわけじゃない。記憶喪失と関係してるか、知りたくないか?」
私は頷いた。前に進めることはとことんやるべきだと思った。逃げられない現実に背いていても、苦しい毎日が続くだけだろうから。もっと勇気が必要だ。すぐにそれは芽生えないだろう。自分の魔法と戦わなくてはならない。自分の弱みに付け込んでくる、氷の魔法と花と。
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