ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION

蓮田 希玲

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CHAPTER1

Episode 4 / 紅茶と私

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「ベルジ起きろ。着いたぞ」

 三つ葉のように分かれた道の真ん中の敷地。上から見ると三角形に見えるであろう、ジェスターの家に到着したみたいだ。道中で聞いた彼の話によれば、家々が隙間なく並んでいるこの地区は、第二区。この街では一番賑わっていて、人口も多いようだ。区画分けされてるとは言っても、違いはそこまで無く、単に住民や街の管理を分担しているだけらしい。事故とはいえ、四区だけがあんなことになっているのは気がかりだ。

 ジェスターが足を強く踏み込むと、車が動かなくなった。何かを回すと、音楽も振動も無くなって静けさが戻ってくる。

「止まった……」
「ああ、着いたからな。よしベルジ、もう起きろよー」

 車は家に張り付くように、ギリギリ道を塞がず止まっていた。中は相当空気がこもっていたのか、ひんやりとして澄んだ外の解放感に、思わず体を伸ばした。道路は四角い平らな石のブロックが、幾何学模様に隙間なく敷き詰められている。

「ベルジくんー」と、後ろの扉を開けて彼の肩をゆらゆら揺らしてみた。すると目を擦って「わ、お、起きる起きる……着いた?」とカタコトな感じで言いながら起きた。彼があくびしているのを見て、私は自分の髪を触った。あれだけ動いたからか、ヘトヘトな様子だ。激しく瞬きをしながら、彼も髪をいじった。

 家を見ると、二階建てのオシャレな外装が目に飛び込んできた。第四区の殺風景な感じとは裏腹に、ここ一帯の建物は木などを使っていて温かい雰囲気がある。縦、横、斜めに組んだ木組みがしっかりと施してある。同じなのは、赤みがかった傾斜が急な屋根だ。窓際には花もあって、色彩が豊か。さっきいたあそこは、曇り空とほぼ同じ色で、生気のようなものがまるで無かった。

 ジェスターが玄関のドアを開けながらベルジへ口を開く。

「お前も上がるか?」
「いえいえ、俺はすぐ帰ります。もう遅いし親も心配しますんで」
「おん、そうか」

 ベルジは私の方に体を向けて「今日はほんとごめん、でも助かって良かった。また会おうな」と、下を見ながら言った。

「こちらこそ、いろいろ……ありがとね」

「今日はもうゆっくり休めよ」と残し、彼は笑顔を見せて去っていく。私は見えなくなるまで、ずっと小さく手を振っていた。誰かがいてくれたことに、心の底から感謝したい。出会い方は最悪だったけれど、今はただ、良かったと思える。

 彼の笑顔がしばらく目に焼き付いている。そういえばまだ、ぜんぜん笑っていない。自分の顔が今どうなってるのかって、何をどうすれば分かるのだろう。

「……ジェスター」
「ん?」
「私の顔、どう?」
「どうって?どう……てなぁ、あはは。べっぴんさんだ」
「はぁ」
「とにかく、上がってお茶でも飲もう。あったまるぞ?」

 愛想笑いをしながら、そういう意味じゃないんだよ、と言葉足らずだったと反省しながら、ジェスターの傍についた。小さな階段を登るのに足を上げると、膝の痛みが帰ってくる。

「ケガしてるのか、すまん気づかなかった」
「ひざ、擦りむいた……」
「そのスカート、明日明後日時間使って、破れたとこ直しとくな」
「ほんと?……そんことできるの?」

「ああ、まかせろ」とジェスターが言いながら、足でドアを二回軽く叩くと、ガチャっと音が鳴った。玄関のドアは木の香りが残る深い焦げ茶で、ところどころ節の跡が浮かんでいる。厚みがあって、まるで外と内をしっかりと分ける壁そのものだった。 

 鍵穴はあるのに鍵を使っていなかった。生きているみたいに開くなんて面白い。少し恐ろしくもある。

 入るとすぐに冷たい石の床があって、その先が木の廊下に続いている。境目には小さな段差で区切られており、壁際にあるのは大きな靴箱だ。上には写真立てや時計が並んでいる。

「靴は脱いでくれよ。お前ん家がどうだったかは、知らないけど」とジェスターはふわふわとした口調で言った。焦げ茶色で磨きのかかった靴箱に、ブーツを揃えてそっと置いた。ぐしゃぐしゃに濡れた靴下を足先の感触でふと思い出して、ため息が出た。

「これ、どうしよう。乾かしたい」
「あぁ、なんとかしよう」
「あと靴下も……」
「廊下歩いてったら洗面所あるから、そこに置いとけ」

 少しでも汚さないように慎重に、年季の入った床を歩いていく。すべすべしていて、歩くたびに小さく音が鳴る。その音がやけに家中に響く。真っ白の壁が、ランプでさっきの太陽みたいな色になっている。花を生けていたり、絵や写真を飾っていたり。あの人柄からは想像できないほど綺麗に整理整頓された家だ。もっと、絵は飾ってはいても傾いていたりしていそうだった。

 洗面所に行くと、部屋が私に気が付いたかのようにランプが密かに点いた。小さな錆び猫が籠に丸まっている。私の足音に気がついたのか、黄色い目を光らせている。

「ど、どうも……」と腰を低くして、靴下をそっと畳んでおいた。猫はずっと銅像みたいに固まって目を凝らしている。

「タオルかなんかあったらそれ使っていいからなー」と張った声が聞こえた。

「ありがとう」と返して、積まれてあった一枚で足を拭く。濡らしてしまった床も、軽く叩いて水分を取っておく。

「なんだ床まで」
「汚しちゃったから……タオルとか靴下も、自分で洗うから、大丈夫」
「そうか。ベルジよりちゃんとしてんだな」
「あはは……」
「お風呂は好き?」
「おふろ?」
「湯船。あったかいお湯に浸かるんだよ。俺は使わないから綺麗だぜ」
「入りたいかも」
「じゃあ沸かしておこう。それまでお茶でも飲んでリラックスだ。あっちの部屋で座って待ってろ」

 彼の指さした部屋は、外から見た時の想像よりもかなり広かった。天井は低く、黒ずんだ梁が何本も横切っている。

 大きな窓から夕暮れの光が差し込み、通りを行き交う人影が揺れている。暖炉では薪がパチパチと音を立て、部屋全体に仄かな温かさが広がっていた。外の冷たい空気から逃れてきた体に、その熱がじわりと染み込んでくる。

 奥の壁一面を覆う本棚には、背表紙の色褪せた本が隙間なく並んでいる。古い紙とインクの匂いが、暖炉の煙と混じり合っている。部屋の角には作業机があり、散らばった道具や紙が、彼の毎日を物語っているようだ。腰より少し高めのテーブルと木彫りの椅子が、部屋の中央に置かれている。

「珍しいものでも見たみたいな固まり方だな?」
「い、いろいろあるなーって……。素敵な部屋」
「ありがとう。さあ座りな」

 椅子に腰を下ろすと、木のきしむ音が長く鳴った。腕をテーブルに預け、上半身を前に倒してみる。体がくたばっているのがよく分かる。ため息が自然と漏れ、頭の中で今日の出来事が蘇り始めた。結局私は、どこの誰なんだろう。

「ふん、疲れたのか?」

 彼の声の方から、キンキンと甲高い金属の音と、香ばしい花のような香りが漂う。私は「うーん」と唸るように答えた。疲れず乗り切れるわけがないだろう。音がおさまると、彼がこっちへ歩いてきた。

「お疲れさん。はい、俺が一番好きなやつだ。口に合うかな」

 人差し指と親指の爪を無心に擦っていると、ジェスターがティーカップを持ってきた。ほんのりと甘くて、さっぱりした香りがする。姿勢を正してスプーンで軽く混ぜると、湯気とともにその香りが増す。こんなにいい匂いはたぶん、はじめてだ。

「俺、紅茶が好きでな。ほら、あの瓶ぜんぶ茶葉が入ってるんだ」
「……ほんとに?」

 自分のぶんを持ってきた彼は、私の前に座りながら衝撃的なことを呟いた。キッチンで一際目立っていた、数十本も並ぶ瓶。一段、二段、三段と。この人いったい何者なんだろう。

 紅茶を口に運んでみる。口の中全体に温かな香りが広がっていく。苦味か渋味か、私にはその辺はよく分からないけれど、それがいい塩梅だ。あの瓶のお茶をいろいろ飲み比べてみたくなってくる。体も温まっていく感じがする。

「こんなに美味しいのじめてかも」
「そいつは良かった。これ気に入らない奴は紅茶向いてねえからなー。ベルジとか」
「ベルジくんってそんなに私と正反対?」
「何もかもな」

 くすくすと笑いながら話すと、だんだん心のこわばりが解けていくようだった。半信半疑で彼を見ていたけれど、そのことも喉の奥で静かに謝った。ベルジともこうやって話してみたい。

「俺な、街の保安官やってるんだ。だから子供たちの顔はみーんな知ってるつもりだった。けどお前は――。落ち着いてからでいいから、覚えてることがあれば教えてくれないか。一刻も早くお前の家、見つけないと」
「そうだったんだ……すごい。ほんとに覚えてることは何も無くて。名前もほんとに私のか分からないし」
「困ったな。アヴァって響きの名前、聞いた事ないんだよ。もっとこう、女の子は丸っこい響きが多いんだけど」
「え、じゃあ私の名前じゃないのかな……」
「いやいや、すごく華があるっていうかその、なんつーか、お前にすごく合ってるよ。きっとお前のだ」
「なんか嬉しい。これ見て」

 オパールのような色をした繊細な網目模様をもつリストレットをはずす。黒地のものに金色で書いてあるのを、彼によく見えるように見せた。

「アヴァって書いてあるな。これは?」
「何のことか分からないから、これを今は、名前にしてるだけなの……」

 黒いプリーツドレスの上に羽織っていた、ベージュの重ね着を脱いで、ショルダーケープの裏面を見たりした。まだ少し湿っていた。雨を弾いた跡を細かく残していて、触れるとひんやりしている。

 何も無い。腰を締めている紐もただの紐。彼の言うとおり着心地がいいのは確か。保安官の彼であっても、せめて苗字くらいは聞き覚えがあって欲しかったものだけど、全くそんなことはなさそうだ。

「……俺もさっぱりだし、これはどう見ても、名前だろう。お前がつけてたなら、お前の名前なんじゃないか?」
「うーん……」
「ブランドの名前?とは思ったけど、知らない。らしくもないしな。やっぱお前の名前だろう」

 肌触りからすると安っぽくはない。包み込むような、しっとりとした優しい感触。それに、初めて見た時から、この服は気に入っている。やっぱり元々愛用していたのだろうか。使い古した感じは全く無い。

「なあ、これからのことなんだが。いいか」
「うん」

 自分の服を見ていると、間を開けて、ジェスターが低い声で言った。思わず両足の膝を合わせて、握りこぶしをそこに当てた。自分を上からつまむように、背中をまっすぐにした。

「俺にはその、自分の名前が分からないとか家が分からないとか、そういうの、正直理解してあげられる自信はないけど、お前がすごく、心配だ」
「えっと……ごめんなさい、なんていえば……」
「謝らなくていい。お前は悪いことしてないだろ?」
「それは、分からないよ……」
「……まあとにかく、家族が見つかるまでは、ここに居ていいからな」

 ジェスターは服を丁寧に畳んでくれて、私の目の前に置きながら言った。私はそれを聞いて、すかさず頷いた。もちろん、と言いたかったけれど、声にならなかった。それくらいに、ひとりぼっちが怖かった。反面、本当にいいのかどうかも脳裏によぎっている。さっき会ったばかりなんだ。あんな怪物も見た後。見てきたものが少なすぎる私にはとても、判断が難しすぎた。

「いいの?よく分かんない人なんだよ?よく、よく……」
「自分の状況、分かってるか?」
「え……えっと、分かんない。よく、分かんないの私」
「それを記憶喪失っていうんだ」
「きおく、そうしつ……?」
「覚えてるはずのことが、すっぽり抜けてるってことだ。お前のはそれが、尋常じゃないって話だ」

 どうしてこんなに自分のことが分からないのか。彼の目を通してそれが得られたのかもしれない。覚えているはずのこととはどういったことを指すのかまだ私には難しい。

「覚えてるはずのこと……って?」
「――自分。名前。家。家族。友達。常識。まあ、生きていくのに必要なことだ。この中で、言えるのは?」

 言われたことをひとつずつ、頭の中で唱え続ける。自分。自分は……。名前。私はアヴァ。かもしれない。家、家族、友達――どんなものかは分かるのだ。でも、どうしてこんなに何も無いのだろう。生きていくのに必要なこととはなんだろう。いま私は生きている。でもこれからは?また一人で私は歩けるのか?

「なんにも、言えないかも……」
「……辛いかもしれないが、それが今の、お前なんだ、アヴァ」
「私なにを信じたらいい?ジェスターは、ほんとのこと言ってくれてる?嘘、ついてない?」

 こんなことを人に聞くのも、正しいのかどうか分からない。彼の話し方が次第に重く慎重になっているのは確かだった。ただ私は、これからを考えた時、誰かが必要だと思った。たった一人では、あの廃墟を乗り切れなかったかもしれない。今ここにいるのは、彼やベルジが助けてくれたから。

「ああ。嘘なんてつかないよ。なんで俺が嘘つくんだ?」
「……変なこと聞いたかも」
「何を信じればいいかは――目の前のことをまず受け入れないと、分からない」
「そう、だよね……」
「ここが嫌だったらいいんだ、知り合いに世話好きのいい人がいるから」

 ジェスターはかなり心配性のようだった。眉間にしわを寄せて真剣に喋っていたからそう思った。悔しいような、なにかに対する苛立ちのような、そんなものを読み取れる。そっと彼の強ばっていた手に触れてみた。指輪がランプの光を跳ね返して、ゆらゆらと光っている。

「私がいても、迷惑じゃない?」
「迷惑だなんて。思わない。ここに居ていいって言ってるだろう?」
「ん……。ここで頑張ってみても、いいかな」
「安心した。俺の心配じゃなくて、自分のことを心配しなさい」
「怒らせちゃうかも。聞いてばっかりで、うんざりとか。邪魔にならない?」
「大丈夫。俺はこれでも保安官だぞ?はは、お前は優しいな」

 彼はもう片方の手で私の手を握った。紅茶の熱だけでは説明できない温かさがあった。
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