ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION

蓮田 希玲

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CHAPTER1

Episode 13 / 後味の残る朝の私

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 翌朝。綺麗に歯も磨いてから寝たはずなのに、昨日の夜のとんでもない紅茶の後味がまだ残っている。紅茶に対しては"香り"という言葉を使うのが正しいだろうけど、これはもう"臭い"だ。よりによって大ハズレを続けて引いてしまうなんて、我ながら感心する。本当に美味しいものを飲んだ時は失神するかもしれない。
 あれは本当に、大切な日記帳にこぼしてしまったコーヒーの跡みたいに残ると思う。いい日かと思ったのに、最後の最後の締めが本当に残念だった。
「起きたか。口がへの字になってるぞ?」
 ジェスターはあの小さな黒い板、スマホをいつものテーブルで見ていた。慣れていないとは言っていたけれど、私には使いこなしているように見える。どんなものなのかまだ分からない。写真を撮るためだけの代物ではないだろう。
「好きなの選ぶどころか、嫌いなの増えてるんだけど……」
「ハズレ全部引けば、残りは当たりだ」
「もう……」
「本当に美味いやつ見っけた時は絶対嬉しくなる。そん時のための……なんだ、なんかだと思え」
「それも……そっか」
 紅茶の入っている瓶には原産地の名前や茶葉の名称が書かれたラベルが、丁寧に貼られていた。同じ茶葉の名前も、産地によって微妙に風味が異なっていた。この街ネーベ産を始めとして、あのルネ産、さらに知らない地名がたくさんあった。その一つ一つを見ても、何も記憶は蘇らなかった。――ポノロエといったか、そこで作られた茶葉はもう、見たくもない。
「スマホ?だっけ」
「なんだ」
「ちょっとみして」
 彼はこんなものをいつも見ているのか、と思った。いろんな人がこの中にいるみたいだ。指を下から上に滑らせると、違う場所が映る。橋からいたずらに男の子が別の男の子を突き落とす。なんてひどいことをするんだろうと思いながらも、お互い笑いあっている。おふざけにしては刺激が強すぎる。もっと指を滑らせると、草木ひとつない砂漠が、どうやって撮ったのかも想像のつかない空から見た滝。
「こんなのいつも見てるの?」
「いや、これはただ……流れてくるんだ」
「流れてくる?流れる……?ずらーって……?」
「あはは、なんて言ったら伝わるかな。ほら、あなたにおすすめの本はこちらですって、スマホがどんどん持ってきてくれるんだ。こういう、動画をね」
「どうが、動画っていうのね……。へぇー……」

 まだ頭がぼーっとしている。特に何も考えず、部屋を見る。写真なのに動くもの、それが動画。そういうものだと考えないといけない気がした。
 ジェスターが紅茶を飲む音と、マルがカリカリと音を立てて餌を食べる音だけが耳に入る。私は寝たのだとふと頭に浮かぶ。昨日のことを箇条書きするように、また思い出す。繰り返し繰り返し、忘れないように書き留めるように。あるところから、肌寒さが戻ってきた。

 ジェスターが夕焼けを見ていた時の顔が、妙に目に焼き付いている。ずっと私を守ってくれるような、堅い芯を持っている感じを出している彼。あの時の顔は、誰かにお願いをするみたいで、見ていて彼がより近く感じた。私も、帰ってこないものに対して願い、考え、悩み続けているから。

「そうだ、朝飯だな」
 彼は立ち上がって、キッチンへ向かい、籠に盛り付けてあった細長いパンを手に取った。私はそれを横目に、そっと席についた。金物の音が鳴り、ジェスターが何かを取り出した。お手頃サイズの金網と台座。彼はパンを三つ乗せると、指を鳴らす。火が起こり、音を立てながらパンが焼けていく。部屋の木の香りの隙間を埋めるように、棘のない香りが沸いている。燃え移ったりしないか、煙を吸っているジェスターが少し心配になる。ほどよく表面を濃くすると、何の合図もなく火が蛍の光が消えるようにスッとなくなった。
「いいにおい。おいしそう」
「これに――ジャムだ。苺に、葡萄に……これはブルーベリーかな」
 ジェスターは私の顔を伺いながら、鮮やかなジャムをパンに塗っていく。楽しそうに塗るものだから、彼の顔に合わせてつい口角が上がる。ナイフがパンの表面をザラザラと擦り、花束みたいに盛り付けられた。
「食べにくければ、これ使え」
「怖いから、切ってくれる……?」
「仕方ない」
 少々形は潰れてしまったけれど、食べやすい大きさに切ってくれた。刃物はまだ怖い。大袈裟に塗っているものだから、口の周りのことも気になって、さすがにそのまま頬張る気にはなれなかった。でも、いざ口に入れてみると、一気にまるごといってみたい気もしてくる。ふわふわのクッションの上に甘酸っぱい果物の味が乗っているみたいでたまらない。大粒を噛み潰した時に出てくる果汁が音を立てる。どれもいいけれど、私は葡萄が一番好き。
「さっきの火……ジェスターの?」
「これか?」
 ジェスターが指を鳴らすと、彼の人差し指の小さな火の玉が現れた。私の顔まで熱が伝わってくる。火花がときどき蜘蛛の巣のように編み模様を作っている。普通の火には見えない。彼はこっちを見ながら、机に向かって指先をくっつける。燃え上がってしまうと思って席を立ちそうになった。寒いわけでもないのに血が抜けていくような感じが残る。しかし、何にも燃え移ったりしなかった。
「びっくりしたか?」
「だって……」
「手、出してごらん」
 パンを置いて、両手をそっと出す。彼の真っ直ぐな目を見ながら。火の玉が自分の手に落ちる。思わず目を瞑る。変な声が出る。温かいだけ。恐る恐る目を開けると、火の玉が自分の手に乗っている。
「火に見えるだけだ」
 彼が手の指をふらっと動かすと、火の玉が消える。毛糸でできた玉が解けていく感じだった。

 指を鳴らしてみる。まず、綺麗な音が鳴ってくれない。どうやったらあんな良い音が鳴るんだろう。鳴らない、鳴らない、指が痛くなってきた。間違いなく、こうやって火の玉を出していた。なにがいけないのか分からない。不気味な氷よりも、あの温かい火が欲しかった。
「まあまあ、これは練習っていうか、ちゃんと勉強しないと」
「……どれくらい?」
「俺はあんまり得意じゃなかったから、数ヶ月かな」
「なにか見えない?」
「なにかって?」
「泣き声とか」
「それは無い。お前には、なんて言えばいいんだ……うーん、優しい魔法って言うと、伝わるか?」
「そう……。いいね。私のはなんだか、乱暴で痛そうで。正直言うと嫌いなの」
「あれとはちょっと違う。コツを掴んで練習を重ねると、誰だってできるようになる。あの氷とは根っこから違うんだ」
「何が違うの?」
「あー、信じてもらうっていうか……。私はパンを焼くのに少しばかり火が必要だって、お願いするんだ。そしたら、パンにしか通らない火が出てくる」
「なんじゃそれ……」
 そんなことを言うなら、おいしいものをいくらでも出せたりできるのだろうかと思ってしまう。自由に立派な家が建てられたり……。そもそもお願いって誰に向かってするのだろうか。魔法の話になると彼はふわふわしたことしか言ってくれないから、よくわからない。ジェスターには私が試行錯誤しているのがお見通しのようだった。
「イメージが無いとダメだ。細かいところまで。絵を描いてもらう時だって、細かくあーしろこーしろって説明してあげないと、思ってたのと違うのが返ってくるだろ?だから、練習が必要なんだ、伝える練習が」
「そんなこと言ったって――その、お願い?って?もうちょっとさぁ……」
「それはまあ、身の回りのものに。おっと、電話だ」
 マルが足で首をかく音。スマホが光って、低い音を響かせて震える。何の音沙汰もなく、急にそれは来た。テーブル越しにその振動が胸の奥まで伝わってくる。ひとりでに震え出すスマホという存在は、やっぱり慣れない。
「ちょっと失礼」

 ジェスターが口を開けたままスマホを目を細めながら見る。指を滑らせ、耳元へそれを当てる。知らない人の声が聞こえる。スマホは喋れるのだろうか。
「――今どこにいる」
「家だ。飯食ってたところだ」
「――悪い、今すぐ来てくれないか?」
「どうした」
「――レインとエベリスがやられた、だから」
「…………わかった、どこだ、どこにいる、そこにいろ」
「――四区東通りの瓦礫に隠れてる、周りに数体いて動けない。いきなり現れた」
 良くないことが起きたのは明らかだった。彼は繰り返し息を飲み続けている。早足で歩きながら身支度をしている。誰かと話している。言葉が流れる速さがどんどん速くなる。彼のスマホを持っている手が少し震えている。
「アヴァ、留守番を頼む」
「どうしたの?」
「仕事だ」
 ジェスターは足音を大きく鳴らして部屋中を歩き回り、手荷物を集めだした。彼は保安官と言っていたのを思い出す。命綱を賭けたような仕事をしているんだ。この後たぶん、あの時出会った怪物と同じようなのと出くわす。今コートに忍ばせた銃なら、数発で仕留められるのかもしれない。彼ならきっと大丈夫だという気持ちと、"やられた"という二人の存在から来る危機感が混ざっている。
「四区?」
「あぁ……聞こえてたのか、そうか」
「えっと、気をつけてね……」
「もちろんだ」
 彼はたばこをくわえながら玄関の扉を押すように開ける。朝日が隙間から差し込んで、足元が暖かくなる。いってらっしゃい、と手を振ることしかできなかった。ついていって、恩返しという意味で彼の力になったほうが良かった?逆に足手まといか。
 開く勢いとは裏腹に、風と空気にゆっくりと押されながら閉まるドア。たばこの臭いだけが外からもドアの隙間から入ってきているのか、ドアが閉じた後も空気は動いていた。私は思わず鼻をつまんで、息を止めながらリビングに歩く。ジェスターには見せたくない顔をしながら。
 机の上には、ジェスターの食べかけのパンが残っていた。ほんのさっきまで、のんびり喋っていたのが嘘みたいだった。彼の顔色も、焦げていくみたいに悪くなっていっていた。そう、彼は保安官だ。街の安全が脅かされないようにする人だ。あの怪物のようなものを常日頃から見ていて、命をかけて戦っているんだと思うと、彼を引き止めたいという気持ちも生まれてくる。
 ひとりで静かに、朝ごはんの残りを食べて、そのまま体を机に任せて、ぼーっとした。
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