15 / 25
CHAPTER1
Episode 12 / いつか今日を懐かしむ私
しおりを挟む
「じゃ、またな。元気そうでよかった」
外に出るとすっかり、太陽は寝る準備を始めていた。雲にできた影が、彼の炎の魔法のようにきらきらと煌めいている。残った青色との境目は、上から砂浜を見ているみたいだった。その下、大好きなカフェの前で、ベルジとも今日はお別れ。彼はあの路地裏で会った時の顔をかき消すような表情をしていた。
「待て、まだ帰るな。ほら」
ジェスターはベルジを呼び止めて、ごつごつとした長財布からお金を取り出した。カフェで払っていた分より、気持ち多めに見えた。カフェに行く前は嫌々な顔をしていたのに、今は力を抜いているように見える。
「え、せっかく俺払ったのに……」
「いいんだ。俺一人じゃ、アヴァはあんなに楽しそうにしなかった」
そんなことないよ、と彼らに聞こえないように口の中で私は言った。事実、ベルジがいたから、今日はより楽しくなったんだと思う。彼に対するちょっとしたモヤモヤや偏見も、少し晴れた。あの落ち着きのなさ、それが彼らしさなのだと受け止められた。衝動的なところを思い返すと、また何かにしがみつきたくなるけれど、きっと大丈夫。
「じゃあ、ありがたく」
ジェスターから両手で受け取ったお金を、ベルジは大事そうに胸のポケットにしまった。
「ベルジくんも、元気でね。また」
「あ、ああ。次はもっと……なんか遊べるとこ行こうぜ!」
「もちろん。気をつけて」
彼の目は輝いていた。私は小さく手を振り続ける。昨日と似ている。でも違うのは、彼がスキップでもするみたいな足取りで帰っていくところ。私はまだ知らないこともいっぱいあるし、彼より未熟なところはたくさんあると思う。そんな立場から言えることかは分からないが、どこか子供らしさを、彼の後ろ姿から感じた。
「ベルジくん、おもしろいね」
「ふん、あんなに楽しそうなのは久々に見た。お前にもお礼しないとな」
「もう十分。私、今とっても楽しいよ。こうやって、気を逸らしてくれるっていうか、嫌なことを忘れられる時間って大事だと思う」
「はは、お前が言うと説得力があるな。まあそう言わずに」
ジェスターは私の背中を軽く叩いて、「行くぞ」と小声で言った。
カフェ前の緩やかな坂道。肌寒さが吹き飛びそうなオレンジ色に染まっている。帰るのかと思いきや、ジェスターは坂道を登り始めた。帰らないの?と聞いてみたかったけれど、横顔を見て、その答えを得られた気がした。
商店街を抜けると、広場に出た。それなりに高い場所で、木でできた柵のそばへ行くと、海が地平線の向こうまで広がっているのが見える。磨かれた宝石の放つ小さな光みたいに、ゆらゆらと太陽と空からの光を私の目に届けている。時折それが星の形に見えたりもする。
「わあ、きれい」
見れば見るほど、夕焼けの色が濃くなっていく。絵の具で上から塗り重ねていくように。
ジェスターが「見てみろ」と指をさす。その先には、影絵みたいにシルエットだけを見せた、とてつもなく大きなお城。先の尖った塔がいくつも組み合わさっているように見え、時計塔もたくさん見える。ネーベを囲んでいた塀が向こうまで伸びている。海の上ではアーチを作って、長く続く橋になっていた。その上を、笛の音を鳴らす乗り物が走っている。
「あれが都、ルネだ」
「あれが?すっごい……。あんなのどうやって建てたの?」
「さあな。俺はあんまり歴史詳しくない」
「海の上だよ?」
「島まるごと、お城になってるんだ」
「ええ……」
ジェスターの家族がいるという都は、想像を絶していた。ネーベと比べて堅牢で、二区で感じた華やかさは無いように見える。影のせいで黒く見えているからかもしれない。ケーキのように何層にも重なっているみたいで、雲がかかるほどの高さの塀もあった。尖った屋根はまるで蝋燭だった。四区で感じた寂しさを醸し出しているようでもあった。
「たまにここで、じっと海を見てるんだ。ロマンチストだろ」
「なになに?」
ジェスターは脚に苔がこびりついた、低めのベンチに腰掛けて言った。隣を手でトントンと叩いて合図された。私は隣に静かに座り、帽子を取って膝の上に置いた。彼の横顔は、誰かの帰りを待っているかのようだった。目線を海へ映すと、あのカフェでの何気ない時間に心を奪われているのが分かった。頭から離れない。この気持ちは、ベルジを見送った時からずっとあるが、不思議とそれが強まった。
「どうだ。何か、こう、出てこないか、あれを見て」
たしかに言われてみればそんな感覚がある。けれど言葉にできない。見れば見るほど、初めて見るわけではないような気がしてくるのに、確かな感覚とは程遠い。
「うん。今日ほんとに楽しかったなって」
「はは、良かった。なんでか分からんが、夕陽を見ると、なんかこう、一気に込み上げてくるんだよな。俺はそれが好きで」
「こみあげる?」
「ああ、いろいろとな。戻りたいなーとか、こうすればよかったーとか。いろんなこと考えるんだ」
「綺麗だから?」
「ううん、一言じゃ片付かない。懐かしいってのにもちゃんと色があるんだ。花と一緒さ」
海の面と空の面がひとつになる。歪んだ像が互いに干渉しあって、不思議な瞳のような模様を作っている。それに向かって、後ろから這い上がってくる夜空が手を伸ばして、太陽を押さえつけていく。それでも光はまだ、雲を使ってメッセージを送り続けている。
「私は……よく分かんないな。懐かしいって、どんなだろ」
「帰りたいような、会いたいような……?言葉じゃちょっと安すぎて。たぶん、人によって違う」
「夕焼け、綺麗だけどさ。なんだか寂しいような、切ないような。今日も終わっちゃうんだな、って思う」
「ふん、それも確かに。あと俺は、空だけはどれだけ経っても変わらないからか、子供ん時も思い出すんだ。そういうのが、懐かしいって感じを呼ぶ」
「ん……。私、そういうのは、ないかも」
「……そうか。最高の魔法なんじゃないかと思ったんだけどな。記憶って脆いな」
ジェスターは自分ごとのように悔しそうだった。木の葉の擦れ合う音が歯ぎしりに聞こえた。彼は空気が抜けていく風船みたいに肩を落として、両手の指を絡ませていた。
「こんなこと言える立場かどうか、分からんが、お前がほんとに、かわいそうだ。本当に。……子供ん時のこととかはな、だいたい結構、覚えてるもんなんだ」
「そう、なの?」
彼の話に少し置いて行かれそうになって、帽子を手で押しつぶしていた。ジェスターは歯をこするように口を横に動かしている。
「どっかでふと思い出したり、知り合いと笑い話にしたり、写真を見て、そんで、時代の移り変わりとかも、変わり果てた街並みを見て、感じて。どんなに時間が経とうと、みんな大切に持ってるもんなんだ」
「そう……」
「だからだ。お前がベルジと話してるときにずっと、考えてた」
私は自分の思っているよりも、ずっと酷い状態なのかもしれない。私の、ある意味空っぽな頭からは実感が難しいのだと思う。当たり前にあるはずのものが当てはまらないって、他人から見ると不気味なことなんだろう。かわいそう、という言葉も、そう思われているんだと言われるまでは想像ができなかった。
「好きなものは?アヴァ」
「え、好きなもの?好きなもの――うん、紅茶」
「はは、お前ってやつはほんとに……」
ジェスターは頭の後ろのほうをかきながら何かを考えている。こっちに顔を見せないまま、立ち上がった。虫の声が聞こえてくると、彼は口を開いた。
「いつかこの日を懐かしむ時が来る。そん時のために、目に焼き付けとけ。今日の思い出もしっかりな」
この景色は忘れるはずがない。彼の前向きな言葉も含めて、この瞬間は絶対に。太陽もまた、手を振るようにして去っていくが、あなたのこともはじめてこうして見たんだ。カフェだって、ベルジだって。病院で言われた残念なことも、あの信じられないことだって、はっきりと思い出せる。
「懐かしいって、カフェのこと思い出したりすると感じるもの?」
「ちょっと違うな」
「え?」
「何かを懐かしむには、時間が必要だ。それに記憶も。覚えてないと」ジェスターは自分の頭を指でつつきながら言った。
「それか、昔のことを思い出せたら感じられるかもな。まあ、時が経てば分かる。欲しくてもすぐに手に入るもんじゃない。手に入れようとするより、ふっと来てくれた方がいいしな?」
膝元で潰していた帽子を、彼は手に取って形を整えた。何も言わずに、ただこっちに微笑みかけて。瞬きがおさまらないままにただ微笑み返した。
「カフェ気に入った?」ジェスターが帽子を私の頭に乗せてくれた。自分で整えながら「うん。また行きたい」と返す。
「今度はもうちょっと、ベルジで遊んでみるか」
「えへへ、楽しみ」
「よーし。……ああ、そうだ。せっかく来たんだ。写真、撮るぞ」
ジェスターがポケットからなにやら黒い板のようなものを取り出す。光沢のある面が光って、写真か何かが映っている。彼が指で触れると、それに合わせて動く。指を滑らせると同時に、絵も滑る。なんだろう。私は空き缶の口みたいに口を開けたまま、ぼーっと見ていた。
「これも覚えてないのか」
「うん。なにこれ」
「若い子はみんなつっついてるんだけどなこれ。それはいいんだ、これはな。えーっと、なんて言えばいいんだろうな。スマートフォンだ。スマホ。まあ、色々できるんだ。えーっとカメラは……」
写真の上に写真。その上にたくさんの絵が動く。カードを上からいろいろ重ねているみたいだ。街灯の明かりより眩しく感じるのはなぜだろう。こんなに小さなものから……。今まで見たどんなものよりも魔法に見える。生活を便利にしてくれるものに違いない。スマホ。不思議な道具。
「あった、これだ。ふう、あんまりまだ慣れないんだよなこれが……。よしこっち来い。はやくしないと真っ暗になっちまう」
消えかかる夕陽を背にして、ジェスターの傍に立つ。頭二つ分くらい身長差がある彼は、腰を低くして私の頭の高さと合わせた。スマホには私の顔と彼の顔が鏡のように映っている。瞬きをして、本当に自分かを無意識に確かめた。
「ああ……、写真撮る時はな、手をこうやって、ポーズとるといいぞ。最近の流行りはこんなのか?まあ、何かしらすりゃいんだ」
人差し指と中指をめいっぱい伸ばす形。親指と人差し指を交差させる形。握りこぶしや手のひらを広げる形。最初の、めいっぱい伸ばす形にしよう。顔の近くに手を寄せてみる。ジェスターも同じポーズをとった。
「よし撮るぞ、はい――」
カシャ、という音と一緒に、眩い閃光が目に突き刺さる。私もジェスターも、「うわ」と声を出した。赤いような緑のような、光の形が視界に残っている。
「今の、なに……!?」
「悪い……フラッシュだ。切り忘れた。もっかい、いくぞ」
彼のミスのようだった。とんでもない事でも起きたのかと思った。けれど今度は、カシャ、という音だけだった。鏡みたいに私たちを映し出して、一体何をやっていたんだろう。
「ふう、ほら」
私とジェスター。さっき映っていたのと同じ。写真だ。しっかりと撮れている。私の顔は──今まででいちばん良い笑顔。ジェスターに負けないくらい。肉眼で見るより色が鮮やかだ。私と彼の間から、太陽が少し顔を出している。二人の輪郭を、オレンジ色が縁取っている。
「すごい……!良い!」
「よく撮れてる。はは、ベルジと一緒にカフェの前でも撮ればよかったな」
「また会った時撮ろ?」
「そうだな」
かつてこうして、きっと絶対に忘れたくないと願った一瞬一瞬も、今は跡形も無くなっている。今日の記憶もいつか、ふとした時に消えてしまうのだろうか。いや、そうはさせない。
いつかこの日を懐かしむ時が来る──私は、彼が夕陽を見て感じていたもの、言っていたことを掴もうと思ったけれど、難しかった。それでも確かなのは、十年後、二十年後に、またここにこうしてジェスターと来た時は、絶対に今日を思い出すんだということ。何を感じるかは、まだ想像がつかない。けれど、決して悪いものじゃないということだけはわかる。
この写真、手元に取っておきたい。私はそれじゃなくて――もっと……。大きなもので……。なんなのだろうか、この何を描くのかを決めているのに、描き方が分からなくていつまで経っても形にならない感覚は。
「さて、帰ろうか。帰ったら――そうだな、また紅茶でも選んでみるか?」
「今度は美味しいの選んでみせるよ」
「さあどうかな」
街灯がともり始め、霧が屋根と屋根の間に溜まっている。車が石を踏む音も、すっかり聞こえない、静かな夜がやってきた。
「お前の家が見つかったら、写真刷ってやるからな」
「今日のだけじゃなくて、これからのもね」
帰り道、黄金に光る時計の影絵を、鐘の音と合わせて写真を一枚。噴水広場で一枚。撮るたびに溶けていく感覚があった。洗われるようでもあった。こういう時間の永遠を願った。また寝る時間が近づいてきて、また朝がやってくる。明日は何が起きるのかわからない。また今日みたいなことがあるんだと知っていれば、こんな気持ちにはならないのかもしれない。
外に出るとすっかり、太陽は寝る準備を始めていた。雲にできた影が、彼の炎の魔法のようにきらきらと煌めいている。残った青色との境目は、上から砂浜を見ているみたいだった。その下、大好きなカフェの前で、ベルジとも今日はお別れ。彼はあの路地裏で会った時の顔をかき消すような表情をしていた。
「待て、まだ帰るな。ほら」
ジェスターはベルジを呼び止めて、ごつごつとした長財布からお金を取り出した。カフェで払っていた分より、気持ち多めに見えた。カフェに行く前は嫌々な顔をしていたのに、今は力を抜いているように見える。
「え、せっかく俺払ったのに……」
「いいんだ。俺一人じゃ、アヴァはあんなに楽しそうにしなかった」
そんなことないよ、と彼らに聞こえないように口の中で私は言った。事実、ベルジがいたから、今日はより楽しくなったんだと思う。彼に対するちょっとしたモヤモヤや偏見も、少し晴れた。あの落ち着きのなさ、それが彼らしさなのだと受け止められた。衝動的なところを思い返すと、また何かにしがみつきたくなるけれど、きっと大丈夫。
「じゃあ、ありがたく」
ジェスターから両手で受け取ったお金を、ベルジは大事そうに胸のポケットにしまった。
「ベルジくんも、元気でね。また」
「あ、ああ。次はもっと……なんか遊べるとこ行こうぜ!」
「もちろん。気をつけて」
彼の目は輝いていた。私は小さく手を振り続ける。昨日と似ている。でも違うのは、彼がスキップでもするみたいな足取りで帰っていくところ。私はまだ知らないこともいっぱいあるし、彼より未熟なところはたくさんあると思う。そんな立場から言えることかは分からないが、どこか子供らしさを、彼の後ろ姿から感じた。
「ベルジくん、おもしろいね」
「ふん、あんなに楽しそうなのは久々に見た。お前にもお礼しないとな」
「もう十分。私、今とっても楽しいよ。こうやって、気を逸らしてくれるっていうか、嫌なことを忘れられる時間って大事だと思う」
「はは、お前が言うと説得力があるな。まあそう言わずに」
ジェスターは私の背中を軽く叩いて、「行くぞ」と小声で言った。
カフェ前の緩やかな坂道。肌寒さが吹き飛びそうなオレンジ色に染まっている。帰るのかと思いきや、ジェスターは坂道を登り始めた。帰らないの?と聞いてみたかったけれど、横顔を見て、その答えを得られた気がした。
商店街を抜けると、広場に出た。それなりに高い場所で、木でできた柵のそばへ行くと、海が地平線の向こうまで広がっているのが見える。磨かれた宝石の放つ小さな光みたいに、ゆらゆらと太陽と空からの光を私の目に届けている。時折それが星の形に見えたりもする。
「わあ、きれい」
見れば見るほど、夕焼けの色が濃くなっていく。絵の具で上から塗り重ねていくように。
ジェスターが「見てみろ」と指をさす。その先には、影絵みたいにシルエットだけを見せた、とてつもなく大きなお城。先の尖った塔がいくつも組み合わさっているように見え、時計塔もたくさん見える。ネーベを囲んでいた塀が向こうまで伸びている。海の上ではアーチを作って、長く続く橋になっていた。その上を、笛の音を鳴らす乗り物が走っている。
「あれが都、ルネだ」
「あれが?すっごい……。あんなのどうやって建てたの?」
「さあな。俺はあんまり歴史詳しくない」
「海の上だよ?」
「島まるごと、お城になってるんだ」
「ええ……」
ジェスターの家族がいるという都は、想像を絶していた。ネーベと比べて堅牢で、二区で感じた華やかさは無いように見える。影のせいで黒く見えているからかもしれない。ケーキのように何層にも重なっているみたいで、雲がかかるほどの高さの塀もあった。尖った屋根はまるで蝋燭だった。四区で感じた寂しさを醸し出しているようでもあった。
「たまにここで、じっと海を見てるんだ。ロマンチストだろ」
「なになに?」
ジェスターは脚に苔がこびりついた、低めのベンチに腰掛けて言った。隣を手でトントンと叩いて合図された。私は隣に静かに座り、帽子を取って膝の上に置いた。彼の横顔は、誰かの帰りを待っているかのようだった。目線を海へ映すと、あのカフェでの何気ない時間に心を奪われているのが分かった。頭から離れない。この気持ちは、ベルジを見送った時からずっとあるが、不思議とそれが強まった。
「どうだ。何か、こう、出てこないか、あれを見て」
たしかに言われてみればそんな感覚がある。けれど言葉にできない。見れば見るほど、初めて見るわけではないような気がしてくるのに、確かな感覚とは程遠い。
「うん。今日ほんとに楽しかったなって」
「はは、良かった。なんでか分からんが、夕陽を見ると、なんかこう、一気に込み上げてくるんだよな。俺はそれが好きで」
「こみあげる?」
「ああ、いろいろとな。戻りたいなーとか、こうすればよかったーとか。いろんなこと考えるんだ」
「綺麗だから?」
「ううん、一言じゃ片付かない。懐かしいってのにもちゃんと色があるんだ。花と一緒さ」
海の面と空の面がひとつになる。歪んだ像が互いに干渉しあって、不思議な瞳のような模様を作っている。それに向かって、後ろから這い上がってくる夜空が手を伸ばして、太陽を押さえつけていく。それでも光はまだ、雲を使ってメッセージを送り続けている。
「私は……よく分かんないな。懐かしいって、どんなだろ」
「帰りたいような、会いたいような……?言葉じゃちょっと安すぎて。たぶん、人によって違う」
「夕焼け、綺麗だけどさ。なんだか寂しいような、切ないような。今日も終わっちゃうんだな、って思う」
「ふん、それも確かに。あと俺は、空だけはどれだけ経っても変わらないからか、子供ん時も思い出すんだ。そういうのが、懐かしいって感じを呼ぶ」
「ん……。私、そういうのは、ないかも」
「……そうか。最高の魔法なんじゃないかと思ったんだけどな。記憶って脆いな」
ジェスターは自分ごとのように悔しそうだった。木の葉の擦れ合う音が歯ぎしりに聞こえた。彼は空気が抜けていく風船みたいに肩を落として、両手の指を絡ませていた。
「こんなこと言える立場かどうか、分からんが、お前がほんとに、かわいそうだ。本当に。……子供ん時のこととかはな、だいたい結構、覚えてるもんなんだ」
「そう、なの?」
彼の話に少し置いて行かれそうになって、帽子を手で押しつぶしていた。ジェスターは歯をこするように口を横に動かしている。
「どっかでふと思い出したり、知り合いと笑い話にしたり、写真を見て、そんで、時代の移り変わりとかも、変わり果てた街並みを見て、感じて。どんなに時間が経とうと、みんな大切に持ってるもんなんだ」
「そう……」
「だからだ。お前がベルジと話してるときにずっと、考えてた」
私は自分の思っているよりも、ずっと酷い状態なのかもしれない。私の、ある意味空っぽな頭からは実感が難しいのだと思う。当たり前にあるはずのものが当てはまらないって、他人から見ると不気味なことなんだろう。かわいそう、という言葉も、そう思われているんだと言われるまでは想像ができなかった。
「好きなものは?アヴァ」
「え、好きなもの?好きなもの――うん、紅茶」
「はは、お前ってやつはほんとに……」
ジェスターは頭の後ろのほうをかきながら何かを考えている。こっちに顔を見せないまま、立ち上がった。虫の声が聞こえてくると、彼は口を開いた。
「いつかこの日を懐かしむ時が来る。そん時のために、目に焼き付けとけ。今日の思い出もしっかりな」
この景色は忘れるはずがない。彼の前向きな言葉も含めて、この瞬間は絶対に。太陽もまた、手を振るようにして去っていくが、あなたのこともはじめてこうして見たんだ。カフェだって、ベルジだって。病院で言われた残念なことも、あの信じられないことだって、はっきりと思い出せる。
「懐かしいって、カフェのこと思い出したりすると感じるもの?」
「ちょっと違うな」
「え?」
「何かを懐かしむには、時間が必要だ。それに記憶も。覚えてないと」ジェスターは自分の頭を指でつつきながら言った。
「それか、昔のことを思い出せたら感じられるかもな。まあ、時が経てば分かる。欲しくてもすぐに手に入るもんじゃない。手に入れようとするより、ふっと来てくれた方がいいしな?」
膝元で潰していた帽子を、彼は手に取って形を整えた。何も言わずに、ただこっちに微笑みかけて。瞬きがおさまらないままにただ微笑み返した。
「カフェ気に入った?」ジェスターが帽子を私の頭に乗せてくれた。自分で整えながら「うん。また行きたい」と返す。
「今度はもうちょっと、ベルジで遊んでみるか」
「えへへ、楽しみ」
「よーし。……ああ、そうだ。せっかく来たんだ。写真、撮るぞ」
ジェスターがポケットからなにやら黒い板のようなものを取り出す。光沢のある面が光って、写真か何かが映っている。彼が指で触れると、それに合わせて動く。指を滑らせると同時に、絵も滑る。なんだろう。私は空き缶の口みたいに口を開けたまま、ぼーっと見ていた。
「これも覚えてないのか」
「うん。なにこれ」
「若い子はみんなつっついてるんだけどなこれ。それはいいんだ、これはな。えーっと、なんて言えばいいんだろうな。スマートフォンだ。スマホ。まあ、色々できるんだ。えーっとカメラは……」
写真の上に写真。その上にたくさんの絵が動く。カードを上からいろいろ重ねているみたいだ。街灯の明かりより眩しく感じるのはなぜだろう。こんなに小さなものから……。今まで見たどんなものよりも魔法に見える。生活を便利にしてくれるものに違いない。スマホ。不思議な道具。
「あった、これだ。ふう、あんまりまだ慣れないんだよなこれが……。よしこっち来い。はやくしないと真っ暗になっちまう」
消えかかる夕陽を背にして、ジェスターの傍に立つ。頭二つ分くらい身長差がある彼は、腰を低くして私の頭の高さと合わせた。スマホには私の顔と彼の顔が鏡のように映っている。瞬きをして、本当に自分かを無意識に確かめた。
「ああ……、写真撮る時はな、手をこうやって、ポーズとるといいぞ。最近の流行りはこんなのか?まあ、何かしらすりゃいんだ」
人差し指と中指をめいっぱい伸ばす形。親指と人差し指を交差させる形。握りこぶしや手のひらを広げる形。最初の、めいっぱい伸ばす形にしよう。顔の近くに手を寄せてみる。ジェスターも同じポーズをとった。
「よし撮るぞ、はい――」
カシャ、という音と一緒に、眩い閃光が目に突き刺さる。私もジェスターも、「うわ」と声を出した。赤いような緑のような、光の形が視界に残っている。
「今の、なに……!?」
「悪い……フラッシュだ。切り忘れた。もっかい、いくぞ」
彼のミスのようだった。とんでもない事でも起きたのかと思った。けれど今度は、カシャ、という音だけだった。鏡みたいに私たちを映し出して、一体何をやっていたんだろう。
「ふう、ほら」
私とジェスター。さっき映っていたのと同じ。写真だ。しっかりと撮れている。私の顔は──今まででいちばん良い笑顔。ジェスターに負けないくらい。肉眼で見るより色が鮮やかだ。私と彼の間から、太陽が少し顔を出している。二人の輪郭を、オレンジ色が縁取っている。
「すごい……!良い!」
「よく撮れてる。はは、ベルジと一緒にカフェの前でも撮ればよかったな」
「また会った時撮ろ?」
「そうだな」
かつてこうして、きっと絶対に忘れたくないと願った一瞬一瞬も、今は跡形も無くなっている。今日の記憶もいつか、ふとした時に消えてしまうのだろうか。いや、そうはさせない。
いつかこの日を懐かしむ時が来る──私は、彼が夕陽を見て感じていたもの、言っていたことを掴もうと思ったけれど、難しかった。それでも確かなのは、十年後、二十年後に、またここにこうしてジェスターと来た時は、絶対に今日を思い出すんだということ。何を感じるかは、まだ想像がつかない。けれど、決して悪いものじゃないということだけはわかる。
この写真、手元に取っておきたい。私はそれじゃなくて――もっと……。大きなもので……。なんなのだろうか、この何を描くのかを決めているのに、描き方が分からなくていつまで経っても形にならない感覚は。
「さて、帰ろうか。帰ったら――そうだな、また紅茶でも選んでみるか?」
「今度は美味しいの選んでみせるよ」
「さあどうかな」
街灯がともり始め、霧が屋根と屋根の間に溜まっている。車が石を踏む音も、すっかり聞こえない、静かな夜がやってきた。
「お前の家が見つかったら、写真刷ってやるからな」
「今日のだけじゃなくて、これからのもね」
帰り道、黄金に光る時計の影絵を、鐘の音と合わせて写真を一枚。噴水広場で一枚。撮るたびに溶けていく感覚があった。洗われるようでもあった。こういう時間の永遠を願った。また寝る時間が近づいてきて、また朝がやってくる。明日は何が起きるのかわからない。また今日みたいなことがあるんだと知っていれば、こんな気持ちにはならないのかもしれない。
0
あなたにおすすめの小説
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
忘れ去られた婚約者
かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』
甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。
レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。
恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。
サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!?
※他のサイトにも掲載しています。
毎日更新です。
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた
しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。
すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。
早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。
この案に王太子の返事は?
王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる