6 / 12
第1章 霧の序章
第006話 見えない道
しおりを挟む道標の文字は、かろうじて読めた。
「→境」
右へ傾いた木の板に、墨で書かれた文字。風雨に晒されて、半分以上が消えかけている。
境。
その言葉の意味を、こよいは知らなかった。けれど、母が「ここにいちゃいけない」と言った。町は霧に沈んだ。後ろには戻れない。
なら、前に進むしかない。
山道は、思っていたより歩きやすかった。
踏み固められた土の道。両脇には楢や栗の木が茂り、朝日が木の間から斜めに差し込んでいる。木漏れ日が、道の上に金色の斑模様を作っている。
鳥が鳴いている。風が葉を揺らしている。
普通の山道だ。
何も、おかしくない。
けれど、足が重い。
昨夜、ほとんど眠れなかった。丘の上で、草の上で、膝を抱えて夜を明かした。体のあちこちが痛い。鞄の肩紐が食い込んで、肩が軋む。
「……だいじょうぶ?」
巾着の中から、空き地の神の声。
「……うん」
声が掠れた。嘘だった。
一時間ほど歩くと、石段が見えた。
苔むした石段が、道の真ん中を横切るように伸びている。二十段ほど。上に行くほど崩れていて、草に埋もれている。
両脇には、石灯籠の台座だけが残っていた。灯籠本体は、どこにもない。
「……なに、これ」
「……むかし、みち」
祠の神の声。
「……だれかが、とおった」
誰かが通った道。
今は、誰も通らない道。
石段を登り切ると、道は再び山の中に続いていた。
木々が鬱蒼と茂り、日差しが遮られる。涼しい。けれど、心細さが増す。
振り返ると、来た道が木々の間に消えている。
前を向く。進むしかない。
昼前に、開けた場所に出た。
大きな岩が、道の脇にあった。平らな上面。座れそうだ。
こよいは、岩の上に腰を下ろした。
足が悲鳴を上げていた。靴の中がじっとりと湿っている。昨夜、小川を渡ったときに濡れたのが、まだ乾いていない。
鞄を下ろす。肩が軽くなる。
「……やすむ」
独り言のように呟いた。
鞄を開けた。
干し餅を取り出す。油紙に包まれた、硬い米の塊。噛むと、じわりと味が出る。
竹の水筒から水を飲む。冷たい。喉が鳴る。
少し、落ち着いた。
鞄の底を探っていると、指に紙の感触があった。
取り出すと、折りたたまれた紙だった。黄ばんでいる。古い。
広げると、地図だった。
墨で描かれた、簡素な地図。山と道と、いくつかの地名。
「霧原町」という文字が、端にあった。その下に、小さく「始まりの地」と書き添えられている。
道が、南西に伸びている。
「石段の遺構」「休憩岩場」と読める場所を過ぎて、その先に。
「境」。
大きな文字で、そう書かれていた。
その下には、「集め手の宿」という言葉。
「……かあさん」
声が震えた。
この地図は、母が入れたのだ。いつ手に入れたのか。なぜ持っていたのか。分からない。
けれど、母は知っていた。この道のことを。「境」という場所のことを。
地図の余白に、走り書きがあった。
「道は見えるものとは限らない」
その意味は、分からなかった。
巾着が、わずかに揺れた。
「……ちず?」
空き地の神の声。
「……うん。かあさんが、入れてた」
「……さかい」
祠の神の声が、ゆっくりと続く。
「……きいた、こと、ある」
「……なに」
「……とおい、ところ」
「……でも、いける」
遠い。けれど、行ける。
こよいは、地図を折りたたんで、鞄に戻した。
目的地ができた。名前のある場所。向かうべき方角。
それだけで、少し、足が軽くなった気がした。
午後、道が変わった。
広葉樹の森が、杉林に変わった。まっすぐに伸びた幹が、等間隔に並んでいる。誰かが植えた林だ。けれど、手入れをする者はもういない。
光が届かない。薄暗い。
足元は、杉の落ち葉で赤茶色に染まっている。踏むと、かさりと乾いた音がする。
空気が冷たい。肌がざわつく。
そのとき、世界が歪んだ。
足元が傾いた。
いや、傾いていない。道は真っ直ぐだ。けれど、斜めになっている。木々が、左に傾いて見える。いや、右か。分からない。
視界の端が、揺らいでいる。
耳鳴りがした。高い音。周囲の音が、遠くなる。
金属のような匂いが、鼻をついた。
「……ゆがんでる」
巾着が、ひやりと冷たくなった。
「……ここ、ゆがんでる」
祠の神の声。
「……とおりすぎて」
空き地の神の声が、急いている。
こよいは、足を止めずに歩いた。
足元がおぼつかない。吐き気がする。けれど、止まってはいけない気がした。
五歩、十歩、十五歩。
突然、感覚が戻った。
振り返ると、杉林は、ただの杉林だった。
何も、おかしくない。
けれど、首筋に汗が流れていた。心臓が、まだ速く打っている。
「……なに、あれ」
「……しらない」
「……でも、ある」
「……ときどき、ある」
その言葉の意味を、こよいは完全には理解できなかった。
けれど、地図に書かれていた言葉を思い出した。
「道は見えるものとは限らない」
夕暮れ前、鳥居の残骸を見つけた。
片方の柱だけが残っている。もう片方は、根元から折れて、道の脇に倒れている。横木は、三つに割れて草に埋もれていた。
かつて、ここに何かがあった。
誰かが、ここを通った。祈った。手を合わせた。
今は、誰もいない。
こよいは、残った柱に手を触れた。冷たい石の感触。長い時間を経てきたものの、静かな重さ。
「……やすまない?」
空き地の神の声。
「……もうすこし、いく」
日が暮れる前に、少しでも先へ。
鳥居を過ぎると、道は再び細くなった。
夕日が、横から差し込んでいる。影が、長く伸びている。
足元の落ち葉を踏む音が、やけに大きく響く。
かさり。かさり。かさり。
そのとき、気づいた。
足音が、一つ多い。
こよいは、立ち止まった。
足音も、止まった。
振り返る。
誰もいない。
木々と、影と、夕日の光。それだけだ。
目を凝らす。耳を澄ます。
風の音。遠くで、鳥が鳴いている。
それだけだ。
「……きこえる」
巾着の中から、祠の神の声。
「……でも、みえない」
空き地の神の声が続く。
「……なにか、いる」
こよいは、前を向いた。
歩き出す。
かさり。かさり。
自分の足音。
そして。
ザッ。ザッ。ザッ。
後ろから、確かに聞こえる。落ち葉を踏む音。規則正しい、歩行のリズム。
振り返る。
誰もいない。
足音は、近づきも、離れもしなかった。
ただ、ついてくる。
見えない何かが、後ろを歩いている。
こよいは、振り返るのをやめた。
前を向いて、歩く。
足音は、ずっと後ろにいた。
0
あなたにおすすめの小説
「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します
スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」
眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。
隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。
エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。
しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。
彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。
「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」
裏切りへのカウントダウンが今、始まる。
スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした
セッシー
ファンタジー
二十年間、王女殿下の護衛騎士として仕えた。その殿下が、私を敵に売った。
牢の中で事実を知り、一分考えて——逃げることにした。殿下の目的を、まだ果たしていないから。
裏切りの真相を確かめるため、一人王都へ戻る護衛騎士の話。
30歳の英雄王は転生勇者を拾い無双に育てます
蒼井青龍
ファンタジー
山奥の小屋でのんびり暮らしていた
かつて英雄王と呼ばれていたライに、現世から転生してきた赤ん坊を立派な無双勇者に。
そして、たくさんの人との出会い、別れをへて成長し世界を魔王族から守る
〜新英雄王譚〜
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
