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第1章 霧の序章
第005話 沈む町
しおりを挟む走った。
畑の畦道を、月明かりだけを頼りに。土が湿っていて、靴が滑る。何度も転びそうになりながら、それでも足を止めなかった。
背中で鞄が揺れる。腰で巾着が揺れる。
振り返らない。振り返れば、あの機械的な足音が聞こえてしまいそうで。
「……はやく」
巾着の中から、祠の神の声。
「……あっち、やま」
空き地の神の声が続く。
こよいは言われた方向へ足を向けた。小川があった。幅は二メートルほど。飛び石が見える。
靴が濡れた。構わない。冷たさが足首を刺すが、立ち止まる暇はない。
丘が見えた。
草に覆われた、なだらかな丘。町を見下ろす場所だ。子どもの頃、一度だけ登ったことがある。あそこまで行けば、少しは安全かもしれない。
足が重い。息が切れる。それでも、登る。
丘の頂上に着いたとき、こよいは膝から崩れ落ちた。
草が濡れていて、ズボンが湿る。冷たい。でも、もう動けない。
肩で息をしながら、空を見上げた。
星が、まだ瞬いている。夜は終わっていない。
「……だいじょうぶ」
巾着の中から、小さな声。
「……ここ、とおい。あれ、こない」
こよいは、頷くことしかできなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
眠ったのか、気を失ったのか。気づいたとき、空の端が白み始めていた。
夜明けだ。
こよいは、ゆっくりと体を起こした。
草についた夜露が、手のひらを濡らす。鞄の革が、朝の冷気を吸って硬くなっている。
肩が痛い。背中が痛い。鞄の紐が、一晩中食い込んでいたのだ。
「……かあさん」
声に出すと、喉が詰まった。
昨夜のことが、頭の中で繰り返される。
台所で振り返った母の顔。震える肩。
「今日中に出なさい」
「聞かないで」
「……気をつけて」
その声が、まだ耳の奥に残っている。
鞄を開けた。
着替え。干し餅を包んだ布。竹の水筒。小銭を入れた袋。
母が、いつ準備したのだろう。観測者たちが来る前から、この日が来ることを知っていたのだろうか。
鞄の底に、小さな布切れがあった。
母の着物の端切れだ。藍染めの、あの着物。
「……バカ」
こよいは、布切れを握りしめた。
言葉が出ない。泣きたいのか、怒りたいのか、分からない。ただ、胸の奥が、鉛のように重い。
「……きみ」
巾着の中から、祠の神の声。
「……みて」
こよいは、顔を上げた。
祠が指す方向。北東。町のある方向。
息が止まった。
霧原町が、霧に沈んでいた。
昨日までそこにあった町が、白い海の底に消えていく。
霧は、町の中心から広がっている。観測者たちがいた場所だ。放射状に、ゆっくりと、確実に。
商店通りが白く滲む。こよいの家がある方角も、もう見えない。学校の白い壁が、霧の中に溶けていく。
屋根の瓦が、島のように浮いている。それも、すぐに沈む。
「……まち」
こよいの声が震えた。
「……のまれてる」
朝日が昇り始めた。
東の山の稜線が、赤く燃えている。
その光が、霧の表面を照らす。白い霧が、朝焼けの色に染まる。美しい、とさえ思えてしまう光景。でも、あの白の下には、こよいの生まれ育った町がある。母がいる。家がある。学校がある。
霧が、止まった。
動きが、ピタリと止まった。
広がるのをやめたわけではない。もう、広がる場所がないのだ。町全体が、完全に霧に覆われた。
その瞬間。
カチン。
金属的な、乾いた音が響いた。
遠いはずなのに、はっきりと聞こえた。機械が何かを確定させる音。錠前が閉まる音。
空気が、一瞬だけ重くなった。圧力がかかったような、耳が詰まるような感覚。
巾着が、ビクリと震えた。
「……おわった」
祠の神の声。
「……まち、きまった」
空き地の神の声が続いた。
「……もう、もどれない」
こよいは、立ち尽くしていた。
霧に沈んだ町は、もう動かない。風が吹いても、霧は揺れない。固まった白い塊が、そこにある。
町が、固定された。
観測者たちが、「測定完了」したのだ。
「……かあさん」
声が、震える。
母は、あの中にいる。固定された町の中に、取り残されている。
「……いきてる?」
こよいは、巾着に聞いた。
しばらく、沈黙。
「……しらない」
「……でも、きえては、いない」
「……きまった、だけ」
きまった、だけ。
その言葉の意味を、こよいは完全には理解できなかった。でも、消えていないなら、まだ、何かできるかもしれない。
朝日が、丘を照らした。
こよいの影が、西へ長く伸びる。
振り返ると、山道の入口が見えた。古い道標が傾いている。「→境」という文字が、かろうじて読める。
「……いかないと」
こよいは、自分に言い聞かせた。
ここにいても、何も変わらない。町は固定された。母は、あの中にいる。でも、こよいは外にいる。まだ、固定されていない。
それなら、進むしかない。
鞄を背負い直した。
肩紐が食い込む。痛いけど、その痛みが今は心地いい。自分がまだ動けることの証拠だ。
巾着を腰に結び直す。二つの気配が、その中で静かに息をしている。
「……ありがとう」
こよいは、町の方を向いて言った。
母に届くとは思えない。でも、言わずにはいられなかった。
「……いってきます」
山道の入口に向かって、一歩を踏み出した。
背後で、霧に沈んだ町が、朝日に照らされて光っている。
白く、冷たく、動かない光。
こよいは、もう振り返らなかった。
振り返っても、何も見えないことは分かっていた。
あの町は、もう、こよいの知っている町ではない。
前を向いて、歩く。
山道へ。境へ。
母が用意してくれた鞄を背負って。
神々が入った巾着を腰に下げて。
最後の朝が、終わった。
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