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第四話 盗賊

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 一瞬の静寂。



「……ちょっと待て」
「ん? 何?」

 ぎろり。

「あんた、今何て言った?」
「盗賊、って言ったんだけど?」
「ほう――」

 一度はカップに視線を戻したものの、何故だか持ち前の技能スキルが不穏な空気を感じ取って女が顔を上げると、そこには――。

「ちちちちょーっとストップストップ!!」

 男が今にも自分に向けて振り下ろそうとしている樫ほうきが目に入り、慌てて後退あとずさった。それでも手の中のカップとカップの中身だけは必死で護ろうとしているのが何ともいじらしい。

「ああ!? お前さん、今、自分で盗人だと言ったじゃねえか!? この――!」
「何でよっ!」

 ひょい、器用にその一撃をかわす。

「って言うか、あたし、盗賊だって言ったの! 泥棒じゃないわよ! ちゃんと聴こえてるの!?」
「似たようなモンじゃねえか!」

 男が再び構えた。

「違うわよ!」
「同じだ!」
「違うってば! もう――!」

 すっ。
 目の前から女の姿が掻き消えた。

「ねえ、お願いだってば! 何を怒ってるのか分かんないけど、あたしの話も聞いてってば!」

 やけに静かすぎてふと見ると、一瞬で背後に回り込んだ女の動きにすっかり観念したように男は固く目を閉じていた。

「……やってくれ」

 男は唸るように言った。

「は?」
「やるんだったら、ひと思いにやってくんな、って言ったんだ。俺は痛いのが苦手でな? 店を荒らされるのも見たくねえ。だったらひと思いに――!」
「ねえ、落ち着いてってば」

 男の思いとは別に、女はあっさりと男の身体を解放してしまった。緊張が解けたあまり、男はそのままよろよろと近場にあった椅子に腰かけてしまう。

「何だかすごーく誤解されてるみたい、ってことだけは分かったんだけど? 説明してもいい?」
「………………好きにしろ」

 警戒心丸出しの男の態度に、女は溜息を吐いた。
 あご先に手を当て、少し考え込んでから女は言う。

「まず、何から話したらいいかな?」

 そもそも何が原因なのか、女には心当たりがない。
 うーん、うーん、と頭を抱えている女の様子を見かねて、逆に男の方から質問が飛んだ。

「お前さん、盗賊と言ったな?」
「うん、そうよ?」
「ウチに物盗りに来たんだろ?」
「……なんでそうなるのよ」

 若い女は呆れたように火のように真っ赤な髪をくようにいた。

「盗賊が他人の家に入り込んで何をするってのよ? 盗賊の仕事場って言えば、ダンジョンに決まってるじゃない? 言っちゃ悪いけど、ひとんち忍び込むのとは稼ぎが全然違うんだからね!」
「だ……だんじょん……?」
「そ」

 若い女はうなずく。

「ほら、この街の東にもあるでしょ、地下への入口が? っていうか、ダンジョンを知らないなんて冗談はだけにしてってば!」

 地下への入口――というのは、地下鉄の引き込み線のことだろうか? それならば確かに東の方角だ。


 しかしまた、トゥラ、トゥラ、だ。
 若者の間で流行っている言葉なのかもしれない。


 男は自分なりの解釈を済ませてしまうと、一番気になっていたことを聞くことにする。

「嬢ちゃん、もう一つ聞くぞ?」
「?」
「さっきから俺は気になってんだが……その恰好は何なんだ? こちとら爺さんだが……それにしたって目に毒だ。もう少しばっかりだな――」

 ちらちらと控え目に上や下へと視線を動かすと、女は急に頬を赤く染め、必死で両手で隠そうとする。

「やだっ! やらしー目で見ないでよおっ!」

 言われてみれば、足はお尻の付け根までき出しだし、胸元もばっくり開いている。確かに好き好んでしている格好なのだが、こうしてまじまじと見つめられたことがないので何だか妙に気恥ずかしい。

「ししししようがないでしょっ! あたしは盗賊なんだし、素早さが重要なのっ! がっちり覆い隠すような鎧じゃ、動くたびにごつごつぶつかって大変なんだからっ!」
「つってもなあ……」

 今度は男が白い頭を掻くばかりだった。なんだか店の中にサンバカーニバルの踊り子が迷い込んだようで、やたらと落ち着かない気分になってしまう。

 しばし、ふーっ、ふーっ、と猫のように荒い息を吐いていた女だったが、少しは落ち着いたらしく咳払いを一つして口を開いた。

「今度はあたしよ? ねえ、さっきのこーひーって何なの? それに……」

 そう言いながら女は、カウンターの上のカップを手に取った。

「このカップは何処から手に入れてきたのよ? こんな逸品、お城の中だって滅多にお目にかかれない代物だわ。あなたの方がよっぽど怪しい人物だと思うんだけど?」
「お褒めに預かって光栄だが――」

 男はくすくすと笑い出した。

「そいつはそこまで高くもねえ。もちろん客に出すんだ、それなりの銭を払って買い込んだ品だけどな。あとな、珈琲は珈琲だ。何だと言われても、俺には上手いこと説明はできねえよ。それこそお前さんたちお得意の『インターネット』って奴で調べでもしたらいいんじゃねえのか?」

 学生たちの誰もが持っている『スマホ』とか言う携帯電話なら出来る、といつぞやのお節介な奴が説明してくれたのを男は覚えていたのだ。


 だが、


「い……いんたーねっと?」
「何だ、お前さんも知らんのか?」


 まるで聞き覚えがない、という顔だ。


 こうなるとむしろ呆れてしまうのは、同じくうとい男の方だった。それこそさとい者であれば、今や年寄りだってスマートフォンやら言う物を器用に使いこなしている様をそこかしこで見聞きすることができた。いわんや若者をや、である。

「む」

 男は自分の中にぽこっと湧き出た疑問が次第に黒く濁った猜疑心に変わっていくのに気付き、はっ、と胸をかれたのと全く同じタイミングで、そう思ってしまった自分自身を激しく嫌悪した。

(ったく……歳を喰うってのは嫌なモンだ)

 それからかすみのかかったような頭の中のもやつきを振り払うように首を振ると、済まなそうに笑った。

「ま、お互い様ってところだな、嬢ちゃん」
「ふふ。そうだね」

 そこで若い女がずっと必死に大事そうに抱え、割れも欠けもしていないカップを覗き込んで言う。

「ああ、せっかくの珈琲が冷めちまったな。良かったら、もう一杯、飲むかね?」
「え!? いいの!?」

 しかし、

「で、でも悪いなぁ。あ、あたしお金持ちだ、って言ったけれど、そ、そんなに大金は……」

 それでも、ちら、ちら、と目の前に差し出されたコーヒーメーカーの中身にどうしても目が向いてしまうらしく、実に歯切れの悪い返答をする。

「おいおい。さっきも言ったろ?」

 男には女が気に病む理由がさっぱり分からない。


 たかが珈琲二杯である。
 大金なんぞは必要ない。


「最初の一杯は今朝の一大事を帳消しにするため、今度の一杯はお嬢ちゃんに嫌な思いをさせちまった俺からのびだ。飲んでくれるかね?」

 すると、

「も、もちろん!」

 ようやく女が歯を見せて笑った。

「だって、こんなに美味しい飲み物、あたし、生まれてこの方飲んだことなかったもの! それにさ、お爺ちゃん、むっつりおっかない顔してるけれど、凄く優しいんだってあたしには分かったから」
「まったく、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」

 と不釣り合いな程ふにゃりとだらしなく相好を崩し、出し抜けにことさら厳めしい顔をしてみせる。

「だがな、嬢ちゃん。俺は自分が年寄りだと、嫌ってほど思い知っちゃいるがな? それでも他人様から爺様扱いされるのはまっぴら御免だ」
「………………ごめんなさい」

 しゅん、とする。その様があまりに素直で可愛らしく見えてしまい、一転、くすくす笑い立てながら珈琲を注いでやった。

「馬鹿、こちとらからかってんだよ。ほら、飲め」
「うん!」


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