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第二十六話 はじめてのおつかい(三軒目)

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「どおれ、早速店へ戻ってお前さんのまんまを作ってやろうじゃないか」
「ぶーぅ!」

 物売りのラデクから受け取ったわら袋をズボンのベルトにはさみ、店へと戻ろうとしていた銀次郎だったが、なぜか目の前にあった一軒の店が妙に気になっていた。

「……ちょっといいか、シオン?」

 板看板には、背の低い三角形の上から大きな丸を、どん、と載せた絵柄が描かれている。

「戻りしなに、あそこだけ覗いてみてえんだが」
「……ぶう」

 よし、とシオンの許可も出たようだ。

「邪魔するぜ」

 まだ朝方だというのに店の中は薄暗い。快晴の下から一歩入ると目をふさがれたような闇に銀次郎は戸惑とまどった。が、じきそれに慣れてしまうと、がらんとした室内の様子が見えてきた。

「……おっと。店じゃあなかったのか?」

 そう思うほど何もない。

 あるものと言えば、ふたりが向かい合って座るのが精一杯という狭い木のテーブルと、二脚の簡素な椅子くらいだ。ただ、部屋を囲む四面の壁には、天井近くから床まで丈のある、厚ぼったい黒いタペストリーが掛けられていて、今さっき入ってきた入り口とその真反対の店の奥だけ、人が通れるように束ね留めてあった。

「……?」

 しかし、店主の姿はどこにもない。
 仕方ない、無駄足かときびすを返した時だ。

「……あら? お急ぎでしたか? でなければ、どうぞそちらにおかけ下さいませ」

 銀次郎は声のした方へ振り返り、我が目をこすった。さっきまではたしかに人の気配はなかったように感じたからだ。がしかし、今は質素な黒一色のローブを身にまとった女が立っている。

「……てっきり留守だと」
「いえ、ずっとお待ちしておりましたので」
「? そいつぁ一体――」

 再び、今度は身振りだけで反対側の椅子に座るように、と黒のローブ姿の女は無言で勧める。気づけば女はすでにもう片方の椅子に座っているではないか。思わず銀次郎は、何度か目をしばたたかせて頭を軽く振った。しかし、夢や幻ではないらしい。

「もっぺん聞く。、ってえのはどういう意味だい?」
「言葉のとおりでございますよ」
「ぶーっ! ぶっ! ぶぶっ!」

 ローブのフードを深々とかぶった女の顔は見えず、落ち着いたトーンで囁くように語りかける口元だけが銀次郎には見える。その朱を引いた口元がわずかに微笑むように引き上げられると、銀次郎の腕の中でシオンが怒ったように身をよじって盛んにつばを飛ばしてわめきはじめた。

「あらあら。元気なお嬢様ですこと」
「ぶっ! ぶっ! ぶぶーっ!」
「いえいえこれは、元気、と申し上げるより、ご機嫌斜めの様子でございますね」

 銀次郎の目つきが鋭く細められ、暴れるシオンを両手でなだめつつ、女に向けてこう尋ねる。

「あんた、俺とこの子がここに来ると、そう知っていたような口ぶりだったが――?」
「まじない師やら占い女というものは、いかにももっともらしき言葉を口にするものなのです」
「へえ」

 感心したように軽く二度三度とうなずいてみせる銀次郎だったが、むしろそのけわしい表情には警戒の色がなお濃く浮いていた。シオンを抱え直し、守るように両手を回した銀次郎に向けて、黒いローブ姿の女はこう語りかけた。

「いかがでしょう? ひとつ、占いでも聴いていかれますか?」
ぜにゃあねえんだ」
「では、お代はいただきません。でしたら、いかがでしょう?」
「……いいや、結構だよ。邪魔しちまったな」

 が、銀次郎は頑として首を縦には振らなかった。
 ざわざわとした胸騒ぎがしたからだ。

「ひとつだけ、ご忠告申しあげます――」

 むずかるシオンをなだめながら店を出ようとする銀次郎の背に、女の声が追いすがった。

「その子をどうか大事になされますよう。もはやその子は、こちらとあちらのふたつの世界、そのどちらにおいても欠くことのできない『唯一無二の存在』となってしまったのですから」

 銀次郎は振り返らなかった。
 が、しばし足を止めていた。

「どうかすこやかに育ちますよう。どうか幸せに恵まれますよう。それこそが――」
「……けっ」

 銀次郎は背中越しに吐き捨てた。

「こんな爺様じいさまに押しつけやがって。そんなに大事なモンならてめえらでやりゃあよかったんだ」
「仕方が――なかったのです。このような姿となり果てては」


 はっ、とした銀次郎が振り返ると、女の姿はもうそこにはなかった。


 代わりに黒いローブに身を包んだ女の座っていた場所に、ひどく傷つき、黒い血を流している一羽の漆黒の艶めく羽持つからすが止まっていた。鴉は、カア、と鳴く代わりにこう言いつなぐ、

「呪いもせず、託しも負わせも致しません。ただ我々は、どうか――どうか、と願うのみです」
「……おめえさんたちは勝手だ。この子の気持ちも知らねえで」
「でしょうね」

 かふっ、と黒い血の塊を吐き、鴉はその場に弱々しくうずくまる。
 そうして、大きくひとつ息を吸って吐くと、こう囁くように告げた。

「身勝手だからこそ、このような姿になり果てるほかになかったのでしょう。道をあやまち、踏み外してからでないとなかなか気づけない、運命とは、人生とは、実に皮肉なものです」
「なんにも知らねえで、ひとり残される身になってみろ」
「………………ああ、あなたも……のですね」
「――っ!」

 思わず銀次郎は何かを言いかけたが――気を静めると、代わりにこうこたえた。

「……俺ぁまだマシだよ。この子に比べりゃあな。かみさんの死に水もとってやれた――」

 そう言って、口端に薄い笑みを張りつかせ、腕の中のシオンの頭をでながらこう続けた。

「……だが、この子は違う。親の顔も知らねえ。どこの馬の骨ともつかねえ気難しい爺様の、このおっかねえつらしか知らねえんだ。そりゃいくらなんでもあんまりじゃねえか。なあ?」
「ぶう?」
「まだロクに言葉も知らねえ。この『なんとか』って世界のことだって、これきりも知らねえんだ。それを、それに輪をかけてちんぷんかんぷんな年寄りに任せるなんて、正気じゃねえ」
「う……っ」
「おお! 悪かった悪かった!」

 急にこの場の重苦しい空気を悟ったかのごとく、シオンが顔をくしゃくしゃにして涙ぐむ。それに気づいた銀次郎は、強張こわばった筋肉にかつを入れて、にいっ、とことさら笑ってみせた。

「シオン、俺ぁ何も、おめえさんに腹ぁ立ててる訳じゃねえ。ましてやこの鴉にでもねえんだ。ただよ……? なんていうか……あれだ、俺の中の頑固の虫が言うのさ――気に入らねえ、と」

 そして、うつろな雲ったガラス玉のような黒い瞳で見つめる鴉に向けて銀次郎はうなずいた。

「この子――シオンはだ。これまでも。これからもずっと。……おい、それでいいか?」
「ああ……!」

 鴉は感極まった声を震わせ、何度も、何度もこうつぶやく。

「我らは感謝します……! あなたたちのもとに、幸運が訪れますように……!」



 そして、一陣の風の前に解けるようにさらさらとその漆黒の身体は崩れ去り――。

 もうあとには何も残ってはいなかったのだった。


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