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第三十一話 竹の子の親勝り

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「お、おう……。さすがにこりゃあ、いよいよ弱ったことになってきたぜ……」

 そんなせわしない日々が一週間も過ぎた頃――。

「うー! じ――じーじ!」

 八十海やそがい紫苑しおんことシオンの成長は、もう目を見張るどころか、見開きすぎて目の玉がこぼれ落ちかねない、そんな大変な事態になっていた。

「見つけた時にゃあ、まだ二つか三つかってぇ年頃だったってぇのに……こいつは参ったなぁ」


 とてとてとて!


「おぅい! やたら走ると危ねぇぞ!」


 がしゃあん!


「ったく……言わんこっちゃねぇ……」
「じーじ! あはー! じーじ、じーじ!」

 よっこらせと腰を上げ、銀次郎は今しがたシオンの無謀な正面からの突撃で、見事に粉微塵みじんになってしまった古い箪笥たんすのところまで歩いていく。そして、その中できゃっきゃと笑いながらしきりに手を打ち鳴らしているシオンを見て、はぁ、と盛大なため息を漏らした。

「……やたら頑丈で、怪我ひとつしねぇからいいんだがね? その調子じゃ店が潰れちまわぁ」
「ぶぶぶー! ……じーじ? っこ!」
「へえへえ。お嬢ちゃんは甘えん坊でございやすね――っと。……腰にくるぜぇ、こりゃあよ」

 体重計なんぞない物だからはかりようはないが、もはや子どもの重さではない。まだ幼児扱いこそしてはいるが、身の丈もすでに銀次郎の腰より高い。この調子では、小柄な銀次郎が抜かれるのは時間の問題であろう。

「じーじ! じーじ! っち! っち!」
「駄・目・だ。店にゃ連れてかねぇ。約束したろ? あっこは遊ぶとこじゃねぇんだってよ」
「ぶぶぶー! ぶー!」

 ただ、見た目に反して頭の方は育ちが遅い。まだまともに喋れないし、言って聞かせたところで素直に理解して従うのも難しいようである。用を足すのもひとりでは難しいし、食事をするにも銀次郎やシリルが手を貸さなければ、じき食べ飽きて遊び始めてしまうような有様だ。


 銀次郎の『先生』でもあるスミルに相談してみたのだが。


「い、いやいやいや。ぼ、僕には子どもの世話はできませんよ! あやすのだって無理です!」


 と、にべもなく断られてしまった。


 先日、ふと気になってシオンを抱っこしたまま町を散歩してみたが、そのあちこちで見かける子どもの姿は、銀次郎が永年そうであろうと思っていた姿とは少し違っているようだった。


 まず、子どもを子どもとして扱っている様子があまりない。

 なんのことやらと思うかもしれないが読んで字のごとくで、町の者たちの大半は彼らを『子ども』ではなく、『まだ小さい大人』として扱っているようなのである。


 たとえばだ。


 今のシオンくらいの背丈の子どもが、大人に混じって店番や物売りをしている姿をしばしば見かける。だから銀次郎はそれを見て『おう、えれぇな』などと目を細めて声をかけるのだが、対する子どもの方はというと不思議そうに首をかしげるのがつねだった。

 また、外で遊んでいる子どもの姿をほとんどと言っていいほど見かけない。これは単に子どもの数が少ないのかと考えたが、軒先に干してある洗濯物を見る限りそうではないようだと分かる。子どもはそこそこの数いるのだが、そういった習慣がないようなのだった。


 では、もっと小さい子ども、赤ん坊ならどうかというと、これもまた銀次郎の思っていたものとは明らかに違っていた。いわゆる『おくるみ』のように大きな一枚布で赤ん坊の身体をぎゅっと包み込むようにきっちりと巻いてしまう。次にどうするかというと、なんとそのままコートを引っかけるような衣紋えもん掛けから蓑虫みのむしよろしく吊るしてしまうのであった。

「ありゃあ、さすがに魂消たまげたねぇ……」
「ぷっぷ! ぷー!」

 この方がどっか行ったりしちまわないし面倒見るのだって楽だよ――怪訝けげんそうな顔つきの銀次郎にその母親はさも当たり前のようにそうこたえた。誰も意を唱えない。当たり前だからだ。


『うーん……あたしの生まれじゃやらないからねぇ……。なんかさ、可哀想じゃないかい?』

 銀次郎に負けず劣らず子どもの面倒見がよいシリルもその風習は知っていたようで、困ったような笑みを浮かべると、少し迷った挙句あげく、そうこたえた。恵まれぬ境遇から子ども時代を教会で共に過ごしたシーノとスミルもまた、ある意味『幸せな子ども時代』を送れたようだった。

 これはつまり、どうやら銀次郎たちは少数派のようだ、ということらしい。


 となると――。

「学校といやぁ魔法学校っきりしかねえ、たしかシーノがそんなことを言ってたっけな……」

 シオンを一人前に教育する方法がない。


 もちろん銀次郎がやったっていいのだろうけれど、その間は店のことができない。手が空いた頃にはもう夜で、幼いシオンはとうに夢の国だ。それに、教材にしたってそこいらで買ってくる、と気軽にはいかないし、なにせ教え役の爺様の頭の中身は相当古い骨董品こっとうひんなのである。


 そして、だ。


「うーむ……。それに加えて……あっちもどうにかしねえとな。店が続けらんなくなるぜ……」


 もうひとつ、店にとって最大の問題もまた迫っていた。


 仕組みはまるで分からないが、源次郎の店、喫茶『銀』には奇妙な仕組みが備わっている。

 それは、電気、ガス、水道といった生活に欠かせない三つのライフラインが、異世界に転移したあとでも普通に機能している、ということだった。これによって銀次郎たちは、夜でも光のともる店を開けることができたし、湯を沸かして珈琲をれることも、清潔でキレイな水をふんだんに使うことだってできた。なんだか魔法のようだが、その『まるで魔法だ』のおかげで、むしろ町の連中も不思議がらなかったのであった。


 ただし、物は無限ではない。


 例の大地震の影響で割れてしまった皿や壊れた箪笥はそのままだ。ガラスも割れたら元には戻らないし、つい先日酒に酔ったトットがひっくり返したテーブルにも傷跡はしっかり残っている。冷蔵庫の中身も喰えばなくなるし、シオンが大きくなればなるほど着られる物は少なくなる。


 そして、


「……っ」

 ――からん。

 銀次郎はカウンターの後ろの棚に並んでいるブリキ缶をひとつ手に取って、中身を確かめるように軽く振る。その表情は険しく、暗い。

「……まだ、畳むわけにゃいかねえんだよ……まだ……」





 そう。
 なにより困ったこととは、珈琲豆がもう間もなく尽きる、ということだったのだ。


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