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第五十二話 火事と喧嘩は江戸の華
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「さて――そろそろこの不毛な話し合いにも決着をつけるとしましょうか」
ホルペライトはため息を吐き漏らすようにそう告げた。
以前、元の世界で会った時には『墨田区役所 地域活動推進課 狐塚来人』と名乗り、作業着の下には糊のきいたワイシャツを、紺のスラックスの下には安全靴を履きこんで、その偽りの身分にふさわしい姿をしていた。
だが、今は違う。
袴に似た左右にスリットの入った下履きの上はすぼめられ、肩からはボレロのような袖口の広い、大きな涎かけのようなものを纏っている。そして、首元にかけられた長い帯のようなものが足元近くまで伸びていた。そうだ、昔こんな風体の輩を見たことがある。
「いけ好かねえいけ好かねえたぁ思っていたが、その恰好、神父にでもなったおつもりかね?」
「ははは。御冗談を」
ホルペライトは仔細にわたって良く見えるように両手を広げてみせる。
「こんな血のように赤い神父服なぞありませんよ。それに慈悲も愛も持ち合わせがなくてねぇ」
「……そりゃ脅しのおつもりかね?」
「ははは。お好きなように受け取っていただいて構いませんよ」
飄々とした態度と口調で銀次郎の言葉をさらりと受け流すホルペライト。
「先程、そろそろ決着を、と申し上げましたが、狸爺様はご存知でないでしょう。ですよね?」
対する銀次郎のこたえは沈黙だ。
ホルペライトは軽く肩をすくめてみせた。
「わたしどもの姫様は、とても慈悲深いお方です。無駄にこの大地に血が流れることをお望みでない。なぜなら、わたしどもは魔族とは違う。壊して、潰して、削いで、刻んで――そのあとには何も残りません。実に愚かな行為だとは思いませんか? ……だが、わたしどもは違う」
そこで一旦言葉を区切り、ホルペライトはその糸のように細められた目で遠くに見える城塞都市・グレイフォークを見つめた。それからこう続ける。
「わたしどもは、ここにおわす姫様に忠誠を誓うのであれば、人間どもを飼ってやっても良いと思っているのです。尻尾を振り続ける限りは一切の面倒をみましょう。ですが、もし――」
「牙を剥いて噛みついたらどうなる、ってんだ?」
「殺します――すべて」
その衝撃的な言葉の効果が十二分に発揮されるまで、ホルペライトはただ静かに沈黙する。
重苦しい空気に堪え切れずグレイルフォーク一世が身じろぎをして、その身に纏った鎧が、がちゃり、と騒々しい音を立てると、ホルペライトは、きゅうっ、と口端を吊り上げた。
「ははは。ま、それは極端な話ですがね? わたしどもは、ともに歩もうと申し上げているのです。その話し合いの期日が、今日この日なのです、というワケでして。あと、もうひとつ」
ホルペライトは今更ながらに気づいたかのように、銀次郎とグレイルフォーク一世を、いや、そのふたりのまわりをあちこちと見回して、何かを、誰かを探すそぶりをしてから尋ねる。
「おかしいですね……? あの『鬼の子』はどこに隠れてらっしゃるんです? ……ははぁ、そんな稀有なチカラまでお持ちだとは。いやはや、さすがは魔族の、魔王の忘れ形見ですねぇ」
「シオンならここにゃあいねえよ」
「……なんですって?」
ホルペライトの声のトーンが一段階低くなった。
その顔に浮かんでいる笑みも、形ばかりの抜け殻になる。
銀次郎は少しも臆することなく、もう一度繰り返してこう告げた。
「シオンならここにゃあいねえ、俺ぁそう言ったんだぜ」
「それが一体どういうことか、どんなことになるのか……お分かりなんでしょうね、狸爺様?」
「おめえ様が何を言いてぇのかはご存知ねえが、こりゃもう俺らで決めちまったことなんだよ」
「馬鹿な!?」
ホルペライトは、くわっ、と目を見開き、先程までの温厚そうなベールを脱ぎ去って叫んだ。
「ボケて頭がどうかしちまったんですか、この爺様は!? ……決めた? 何を!? その愚かな選択がどんな悲惨な結果を招くか、想像もつかないほど耄碌しちまってるんですか!?」
「はン。正体見たり、ってな」
だが、銀次郎は少しも動じることなく、逆に一歩前に踏み出して、堂々とこう告げる。
「やいやい! こちとら歳は嫌ってほど喰ってるがな!? まだ耄碌するほどの老いぼれでもねえんだよ、べらぼうめ! そちらさんこそ、喧嘩売る相手間違っちゃあいねえかってんだ!」
まるで江戸っ子の喧嘩だ。
なおも銀次郎は胴間声を張り上げて一気にまくしたてた。
「そもそもの話だ! てめえ様たちは、どうしてそこまでしてシオンを、俺の可愛い孫娘を欲しがってやがる!? 伊達や酔狂じゃあねえだろ? そりゃ決まってら、おっかねえからさ!」
「く――っ!」
どうやら図星らしい。
ホルペライトの顔色がみるみる青白くなった。
銀次郎はその威を借りて、さらに一歩踏み込んで堂々たる啖呵を切ってみせる。
「どうして今までこそこそ隠れてやがった? いくらでも出張る機会なんざあったはずだろ? ……言えねえか? じゃあ代わりに言ってやらぁ! そりゃ、魔族相手にゃ到底勝ち目がねえからさ! 連中が勝手にいなくなっちまったってんで、これ幸いと横手から掻っ攫っちまおうと顔出してきた、こす狡い泥棒猫がてめえ様たちだってぇ訳だ! はっ、笑わせるんじゃねえ!」
「言わせておけば――!!」
我慢の限界に達したホルペライトは吊り上がった目をさらに一層吊り上げて、一歩踏み出す。
それでも銀次郎は一歩も退こうとはしなかった。
むしろもう一歩前に出た。
そして言う。
「おう、見当違いのお門違いだってんなら、ひとつご教授いただこうじゃねえか、狐の兄ちゃんよ? ……それとも何か? すっかり図星をつかれて腸煮えくり返っちまって、それどこじゃねえってか? おう、てめえなんざ、この老いぼれひとりで充分だぜ。殴りっこだろうがなんだろうが、てめえの気の済むまでやってやらぁ! あとで泣きべそかいても知らねえぞ!」
ホルペライトはため息を吐き漏らすようにそう告げた。
以前、元の世界で会った時には『墨田区役所 地域活動推進課 狐塚来人』と名乗り、作業着の下には糊のきいたワイシャツを、紺のスラックスの下には安全靴を履きこんで、その偽りの身分にふさわしい姿をしていた。
だが、今は違う。
袴に似た左右にスリットの入った下履きの上はすぼめられ、肩からはボレロのような袖口の広い、大きな涎かけのようなものを纏っている。そして、首元にかけられた長い帯のようなものが足元近くまで伸びていた。そうだ、昔こんな風体の輩を見たことがある。
「いけ好かねえいけ好かねえたぁ思っていたが、その恰好、神父にでもなったおつもりかね?」
「ははは。御冗談を」
ホルペライトは仔細にわたって良く見えるように両手を広げてみせる。
「こんな血のように赤い神父服なぞありませんよ。それに慈悲も愛も持ち合わせがなくてねぇ」
「……そりゃ脅しのおつもりかね?」
「ははは。お好きなように受け取っていただいて構いませんよ」
飄々とした態度と口調で銀次郎の言葉をさらりと受け流すホルペライト。
「先程、そろそろ決着を、と申し上げましたが、狸爺様はご存知でないでしょう。ですよね?」
対する銀次郎のこたえは沈黙だ。
ホルペライトは軽く肩をすくめてみせた。
「わたしどもの姫様は、とても慈悲深いお方です。無駄にこの大地に血が流れることをお望みでない。なぜなら、わたしどもは魔族とは違う。壊して、潰して、削いで、刻んで――そのあとには何も残りません。実に愚かな行為だとは思いませんか? ……だが、わたしどもは違う」
そこで一旦言葉を区切り、ホルペライトはその糸のように細められた目で遠くに見える城塞都市・グレイフォークを見つめた。それからこう続ける。
「わたしどもは、ここにおわす姫様に忠誠を誓うのであれば、人間どもを飼ってやっても良いと思っているのです。尻尾を振り続ける限りは一切の面倒をみましょう。ですが、もし――」
「牙を剥いて噛みついたらどうなる、ってんだ?」
「殺します――すべて」
その衝撃的な言葉の効果が十二分に発揮されるまで、ホルペライトはただ静かに沈黙する。
重苦しい空気に堪え切れずグレイルフォーク一世が身じろぎをして、その身に纏った鎧が、がちゃり、と騒々しい音を立てると、ホルペライトは、きゅうっ、と口端を吊り上げた。
「ははは。ま、それは極端な話ですがね? わたしどもは、ともに歩もうと申し上げているのです。その話し合いの期日が、今日この日なのです、というワケでして。あと、もうひとつ」
ホルペライトは今更ながらに気づいたかのように、銀次郎とグレイルフォーク一世を、いや、そのふたりのまわりをあちこちと見回して、何かを、誰かを探すそぶりをしてから尋ねる。
「おかしいですね……? あの『鬼の子』はどこに隠れてらっしゃるんです? ……ははぁ、そんな稀有なチカラまでお持ちだとは。いやはや、さすがは魔族の、魔王の忘れ形見ですねぇ」
「シオンならここにゃあいねえよ」
「……なんですって?」
ホルペライトの声のトーンが一段階低くなった。
その顔に浮かんでいる笑みも、形ばかりの抜け殻になる。
銀次郎は少しも臆することなく、もう一度繰り返してこう告げた。
「シオンならここにゃあいねえ、俺ぁそう言ったんだぜ」
「それが一体どういうことか、どんなことになるのか……お分かりなんでしょうね、狸爺様?」
「おめえ様が何を言いてぇのかはご存知ねえが、こりゃもう俺らで決めちまったことなんだよ」
「馬鹿な!?」
ホルペライトは、くわっ、と目を見開き、先程までの温厚そうなベールを脱ぎ去って叫んだ。
「ボケて頭がどうかしちまったんですか、この爺様は!? ……決めた? 何を!? その愚かな選択がどんな悲惨な結果を招くか、想像もつかないほど耄碌しちまってるんですか!?」
「はン。正体見たり、ってな」
だが、銀次郎は少しも動じることなく、逆に一歩前に踏み出して、堂々とこう告げる。
「やいやい! こちとら歳は嫌ってほど喰ってるがな!? まだ耄碌するほどの老いぼれでもねえんだよ、べらぼうめ! そちらさんこそ、喧嘩売る相手間違っちゃあいねえかってんだ!」
まるで江戸っ子の喧嘩だ。
なおも銀次郎は胴間声を張り上げて一気にまくしたてた。
「そもそもの話だ! てめえ様たちは、どうしてそこまでしてシオンを、俺の可愛い孫娘を欲しがってやがる!? 伊達や酔狂じゃあねえだろ? そりゃ決まってら、おっかねえからさ!」
「く――っ!」
どうやら図星らしい。
ホルペライトの顔色がみるみる青白くなった。
銀次郎はその威を借りて、さらに一歩踏み込んで堂々たる啖呵を切ってみせる。
「どうして今までこそこそ隠れてやがった? いくらでも出張る機会なんざあったはずだろ? ……言えねえか? じゃあ代わりに言ってやらぁ! そりゃ、魔族相手にゃ到底勝ち目がねえからさ! 連中が勝手にいなくなっちまったってんで、これ幸いと横手から掻っ攫っちまおうと顔出してきた、こす狡い泥棒猫がてめえ様たちだってぇ訳だ! はっ、笑わせるんじゃねえ!」
「言わせておけば――!!」
我慢の限界に達したホルペライトは吊り上がった目をさらに一層吊り上げて、一歩踏み出す。
それでも銀次郎は一歩も退こうとはしなかった。
むしろもう一歩前に出た。
そして言う。
「おう、見当違いのお門違いだってんなら、ひとつご教授いただこうじゃねえか、狐の兄ちゃんよ? ……それとも何か? すっかり図星をつかれて腸煮えくり返っちまって、それどこじゃねえってか? おう、てめえなんざ、この老いぼれひとりで充分だぜ。殴りっこだろうがなんだろうが、てめえの気の済むまでやってやらぁ! あとで泣きべそかいても知らねえぞ!」
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