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第一章 溜息は少女を殺す

溜息は少女を殺す(1)

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 すれ違った一瞬、あの人の溜息が聴こえた――。

 少女が死にたいと思う理由なんて、たったそれだけで十分だったのです。



◆ ◆ ◆



「おはよう」
「おはようございます」

 高校二年生になった四月、朝の教室の中はそんな明るい声に満ちていました。

 県内でも有数のお嬢様学校であるここ私立聖カジミェシュ女子高等学院は、年間を通じてクラスや学年の垣根を越えた催事も多く、礼節と慈愛を象徴する『挨拶』を最も重んじる風潮にあります。クラス替えされてから日は浅いものの、あたりを見回せば何処かで見かけたような顔ぶれが揃っています。

「おはようございます!」

 とりわけこの物語の主人公である「あたし」こと嬉野うれしの祥子しょうこにとっては、良く存じ上げている方ばかり。学年内でも人気上位に選ばれるほどの美少女揃い。神に感謝しかありません。



 ちなみに唐突ですが、皆様『百合』はお好きですか?
 あたしは大好きです。



 百合の花言葉は『純粋』『無垢』。
 これってまさに、ここに集うお年頃の女子高生を示すにふさわしい言葉だと思うのですよ。



 愛でたい。
 いつまでも見ていたい。



 そして可能であれば、くんかくんかもしたい。



 ああ、クラス中が良い香りです。もう嬉野、朝からくらくらと眩暈がするほどです。何で、どうして、女子高生ってこんなにも良い匂いがするのでしょう。

 とは言え、ここは品格を重んじた歴史と伝統あるお嬢様学校です。お化粧や香水などというとってつけたような人工的で無粋なモノの匂いではございません。シャンプーだったり、柔軟剤だったり。日常に必然として存在するあれやこれやと、彼女たち自身が自然と放っている体臭が入り混じったことで、このような芳しい香りを生み出しているのです。

 あ、そこの人、通報しようとする手を今すぐ止めてください!
 あたしは決して不審な者ではございません。

 中学時代に、この現代日本に実在する理想郷である聖カジミェシュ女子高等学院の存在を知ったあたしは、それからというもの、寝食を忘れ、がむしゃらに勉学に打ち込むことでトップレベルの成績を叩き出し、見事奨学金をゲットして入学したのです。そうでもしなければ一般サラリーマン家庭に育ったあたしなんぞ、門をくぐることすら許されなかったでしょう。



 その努力が遂に報われたのです。
 つまりこれ、極めて合法な奴なのです。



「おはよ、うれしょん。いつもに増して機嫌良さそうじゃん?」
「……うれしょんはやめて、って去年も言いましたよね、有海」
「いーじゃん。じゃあ、早速定着しそうな『いいんちょ』でいいの?」
「……やだけど」

 この子はこの学院では割と珍しい部類に入るギャル系JKの木崎きさき有海あみ。去年も同じクラスでしたが、何故か有海だけはあたしのことを『うれしょん』と呼びたがります。親愛を示す愛称であって悪意はないと分かっているものの、聞くたびに愛犬・ごろん太を思い出すのでやめて欲しい。けれど、有海のスキンシップの激しいところがどうしても憎めないあたしなのです。

 ぬおおお!
 これこれ、おっぱいの弾力が背中にぃ……!
 これは……来てます来てますよっ!

 朝イチからのご褒美に内心興奮を隠せませんでしたが、背後からしきりに持たれかかってくる有海をなけなしの理性でもって押し退け、ぶすー、とした表情を浮かべてみせるあたし。

「もう、重いってば。その『いいんちょ』ってのだって、言い出しっぺは有海でしょうが」
「だってー。うれしょんはTHEいいんちょ!って感じじゃん? 超真面目だしさー」
「それ、意味不明。『うれしょん』も『いいんちょ』も禁止、です!」

 頭も中身も悪い子じゃないんですけど、有海はこのとおり仕草も口調もギャルっぽいせいで周囲から少し浮いているように見えてしまいます。そういうあたしもあたしで、大正テイストなおかっぱ頭に丸眼鏡なので、いかにも真面目で暗そうな地味子っていう印象が拭えません。

 しかし、そんなあたしたちにも優しく平等に接してくれるのがお嬢様の凄いところです。

「あら、おはようございます、木崎さんに嬉野さん。ふふふ、ご機嫌よろしいようですね」
「あ。おっはー、あんこ」
「あ、おはようございます。円城寺さん」

 この艶めいた黒髪ロングの美少女が円城寺えんじょうじ杏子きょうこさんです。肌白い。そして、いつも微笑んでいるような切れ長の垂れ目が魅力的です。唇なんて、グロスも何もなくったって白桃ゼリーのようにふっくらぷるんぷるんしています。否が応にも舞台の中心に立たざるを得ない圧倒的な美貌と存在感。さすがは学年TOP5の一角に位置するお嬢様です。

 どうしてこうあたしとは何もかも違うのでしょうか。
 いえいえ、生涯傍観者を決め込んでいるあたしには、こんな役どころは務まりません。

 美少女たちがきゃっきゃうふふしているのを離れたところからそっと静かに見守ること、それがあたしの理想なのです。つい、肩に触れちゃったりして。ついつい、柔らかい頬に触れてしまったりなんかして。ふざけてじゃれついていて、あ、と思った時にお互い見つめ合ってあまりの距離の近さに頬をほのかに染める――そんな光景を限りなく背景と同化しつつひたすら静かに見守っていたい、それがあたしの求めるポジションなのです。

 そういうお仕事、ないでしょうか。
 知ってます、ないんですよね……。

 あたしは現実の虚しさに密かに溜息を吐きつつ、また一人登校してきた生徒を聖母のごとき深き慈愛でもって迎え入れる円城寺さんの笑顔の先に何の気なしに視線を向けた訳です。

「おはようございます、五十嵐さん。……あら、お加減悪そうですわね? 大丈夫ですの?」
「貴女には関係ないでしょ。放っておいて」



 一瞬、空気が凍りました。



 それでも困ったように眉を顰め、あたしたちの方へそっと控えめに目配せをした円城寺さんの顔は微笑みを絶やしていませんでした。反対に、思いつめた表情で窓際にある自分の席へと足を速める五十嵐いがらしかなめさんの顔は、見るからに血の気を失っていました。いつもなら、眩しいばかりの無邪気な笑顔を誰彼問わず見せてくれるあの五十嵐さんだというのに――おかしい。



 そう。
 何だか変だな、それくらいあたしでも気付いたのです。



「あ、あの……っ!」



 思わずそう口走って、席を立とうとしたあたしの目の前で――。

 五十嵐さんは開け放たれた窓を乗り越え、暖かな風吹く世界へ飛び立ってしまったのです。
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