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第二章 美しきにはメスを

美しきにはメスを(8)

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 皆さんは『コペルニクス的転回』という哲学用語をご存知でしょうか。

 ドイツの哲学者、イマヌエル・カントが自身の提唱する『認識論』上の立場を表すのに用いた言葉だそうです。かつて揺るがざる常識と考えられていた『天動説』の認識を一八〇度転回させて『地動説』として主張したポーランドの天文学者、ニコラウス・コペルニクスの名にちなんでそう名付けたんですって。



 先刻あたしたちが浅川あさかわさん、竹宮たけみやさんから伺ったお話も、まさにこの『コペルニクス的転回』と呼ぶにふさわしい内容だったと思うのです。

「あ、あの。安里寿ありすさんは二人の話を聞いてどう思いました?」
「あらら。今回は祥子しょうこちゃんに先手を打たれちゃったみたいね」

 事務所に戻り、今は優雅な仕草でティーカップにそっと口づけしている安里寿さんは言葉とは裏腹に至って平然と言います。

「いろいろと興味深かった、ってところかしら?」
「いろいろ、とは?」

 ふむ? と神妙な顔付きで問い返すあたし。

「いろいろは、いろいろよ」

 適当にあしらわれたていであたしがむくれていると、安里寿さんは音も立てずにティーカップを置いてゆっくりと口を開きました。

「物の見方は一方向からだけではない、ってことね。見る人が違えば、全く別の物が見えてくることもある。物でさえそうなんだもの、まして人の感情や印象なんて尚更なおさらのことよ」
「ですね……。あたしもそんな感じでした」



 一年生の浅川さんと竹宮さんは美術部に入部しました。これは事実。

 しかし、霧島きりしまさんにとって二人は鷺ノ宮さぎのみや先輩に憧れて入部してきたいわば冷やかし部員で、反対に浅川さんと竹宮さんにとっては恩ある鷺ノ宮先輩を慕って真面目に美術に取り組もうと入部したに過ぎません。最初から怒っている風だった、というのはこのズレのせいでしょう。



 霧島さんは鷺ノ宮先輩の依頼で浅川さんと竹宮さんに美術の基礎を教えます。これは事実。

 しかし、霧島さんにとってはごく普通に接していたつもりでも、浅川さんと竹宮さんにとってはあまりに厳しく柔軟性に欠けていた対応が窮屈に感じたのでしょう。そもそも、鷺ノ宮先輩の頼みだからと断れず渋々引き受けていた霧島さんと、その霧島さんとの仲を友好的にしたいと自ら鷺ノ宮先輩に願い出た浅川さんと竹宮さんの思いには大きな開きがあったようです。



 そして――三人は鷺ノ宮先輩の肖像画を描いていた。










 これは……ん?










「ちょっといいでしょうか、安里寿さん。一つ気になったことがあるんです」
「……なあに?」
「浅川さんと竹宮さんのお話を聞く限りでは、お二人が鷺ノ宮先輩の肖像画を描きたいと言った途端、霧島さんが激昂してしまった、ということでしたよね? ……なら結局、お二人は鷺ノ宮先輩の肖像画を描いたのでしょうか? それとも、描かず終いで終わってしまった?」
「ふうん」

 安里寿さんは何故か面白がっているようで栗色の瞳がキラキラしています。

「祥子ちゃんの推理ではどっちかしら? どっちだと思う?」
「どっちかって……ノーヒントじゃないですか、今回も」

 笑顔で頬杖つきながらランチのメニュー決めるみたいなノリで聞き返されても困るのです。

「どうせまた、それでも見えてくるものはあるのよ、とか言う気なんでしょ?」
「言わないわよ。今回は」
「うーん……」

 あたしは記憶をのろのろと遡ります。
 そして、ふと、思い当たりました。

「あ! でもでも、前回霧島さんにお話しを伺った時には、お二人も鷺ノ宮先輩の肖像画を描いていたんだ、ってことになりましたよね? もし実際には描いていなかったのだとしたら、霧島さんのお話しに嘘が含まれていた、ってことになりませんか?」
「ん。そうなるわね。でも、それは霧島さんにとって不利な嘘じゃないかしら?」
「どういう意味です?」



 不利な嘘?
 嘘を吐くのに有利も不利もあるんでしょうか。



 すっかり混乱して眉をしかめ唇をとがらせたあたしの面白顔をじっと見つめて、安里寿さんはこう告げました。

「浅川さんと竹宮さんが言っていたわよね――霧島さんは、彼女たち二人が入部する以前から鷺ノ宮先輩の肖像画を描いていたんだ、って。でもそれが事実なら、妙な勘繰りをする子たちだっているでしょう? だったら、いっそ二人にも描かせた方が言い訳しやすいじゃない」
「確かに……。ですね」

 いやいや、あたしだけじゃありません、みんなで描いているんです、としてしまった方が、たとえそれより以前から描いていたとしても少しは誤魔化しが効きそうです。

 何せ我が校、聖カジミェシュ女子高には当たり前のように純真無垢で見目麗みめうるわしい女子生徒しかおりません。他校の馬の骨――いえ、失礼――男子とのお付き合いを噂されるよりも、校内の同性との『禁じられた恋愛話』の方がはるかにスキャンダラスで盛り上がるのは事実です。



「あの……じゃあ、そのお二人の作品は何処にあるのでしょう?」



 あたしがその台詞を口にしても、しばらく答えは返ってきませんでした。不思議になって見返すと、安里寿さんは驚いたような感心したような表情を束の間浮かべていたのです。

「あれ? あたし、変なこと言いましたっけ?」
「違うわ、逆よ逆。それ、良い着眼点ね。とっても良いわ」
「はぁ。それはどうもです」

 いまいちピンと来ていないあたしをよそに淀みない仕草で立ち上がった安里寿さんは、ヒールの音も高らかにゆっくりとデスクの周りを歩きながら腕を組んで一人思案にふけります。

「……そういうことかもしれないわね。物の見方は一方向からだけではない――まさにそのとおりだわ。ううん、でもまだこれは可能性の段階。だったら、直接確かめるよりないわね」
「えっと……済みませんけど、あたしにも分かるように言ってもらえます?」
「あのね、祥子ちゃん? 明日、美術部の顧問の先生にお会いしたいのだけれど」
「あのう、聞いてました? あたしの話」
「聞・い・て・た・わ・よ」

 ぽすん、とソファーに座るあたしの隣に腰を降ろした安里寿さんは、あたしの大して高くもない鼻先を右の人差指でリズミカルに突きます。刹那、ふわり、と香る清潔で芳醇ほうじゅんなパフューム。しかし何故かあたしには、その指先から・・・・・・煙草の臭いが・・・・・・しない・・・ことへの疑問が生じます。

「……ハロー?」
「あ――は、はい!」

 束の間、意識を心の内に向けて黙り込んでしまったあたしを揶揄やゆするように、安里寿さんはお道化どうけた仕草で顔の前でひらひらと手のひらを振ります。仕方なく現世へと復帰するあたし。

「え、えっと、美術部の顧問、赤坂先生にお会いしてお話を伺いたい、そう仰るんですね?」
「そ」

 安里寿さんは、にひ、と子供っぽく口元を笑みの形に変えます。可愛い。

「でも、祥子ちゃんはお姉さんのお願い、聞いてくれないんだったわよね? 先生が男の人だから、って」
「そ――そういう言い方って卑怯ですよ……。やる気が出ない、そう言ったんですっ」

 あたしの返事を聞くと、安里寿さんは大袈裟にむすりと頬を膨らませ何やら考えます。



「あ! 良い事思いついちゃった! 祥子ちゃんがやる気を出せて、先生に会える方法!」
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