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第二章 美しきにはメスを
美しきにはメスを(11)
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美弥さんをモデルに迎えて行われた裸婦デッサン会は、結果として美術部員の皆様にかなりの良い刺激を与えたようです。
ある方は白いキャンバスに油絵具で若々しくのびやかな肢体を、ある方は水粘土を使って女性らしく滑らかな起伏と表情を見せる塑像を。彼女たちは、ありとあらゆる方法とさまざまな画材を使って、それぞれの目に映った「一人の名も知らぬ裸婦」を表現しようとしたのです。
しかしもう今は、その誰の姿もありません。
彼女と彼女たちが確かにそこにいた証である「作品たち」が、夕闇が忍び込んでくる美術室の中にぽつぽつと静かに佇んでいるのみです。
わずかな人影は四つきり。
それは――霧島さん、赤坂先生、『動かざる名探偵』こと四十九院安里寿、そしてあたし。
深刻そうな状況をお察ししてお暇しようかと声を掛けたものの、霧島さんご本人の口から、安里寿さんとあたしにも聞いて欲しい、と残るよう言い含められてしまったからです。
「で……話というのは何だ、霧島?」
「……」
あまりに長すぎる沈黙にとうとう痺れを切らした赤坂先生が切り出しましたが、霧島さんはまだ無言のままです。その表情には逡巡と苦悶が色を濃く浮かび上がっています。見ているこちらまで息が詰まるような、そんな緊張感で空気がピンと張り詰めていました。
そうすること、五分。
「あ、あの……。私は美術部を辞めなければなりません」
霧島さんは血を吐くように小さな呟きを漏らしました。
「辞めようと思う、じゃなく、辞めなきゃいけない、と来たか……理由、教えてくれるか?」
「許されないことを……したからです。芸術を志す者として」
「なあ、おい、霧島――?」
赤坂先生は少し笑ったように見えました。
「おいおい。許すも許さないも、俺は見てのとおり教会の神父様じゃない。そんな御大層な人間じゃないんだぞ。けどな? ……懺悔がしたいのなら聞いてやる。正直に話してみろよ」
「……はい」
またしばらくの沈黙。
けれどあたしたちは無言のまま、霧島さんの言葉を待ちます。
「たぶん……嫉妬したのだと思います。私は嫉妬したんです。してしまったんです」
霧島さんはスカートの上で、きゅっ、と二つの拳を関節が白く浮き出るほど握り締めます。
「だから、あんなことをしてしまった……! 決して許されない行為をしてしまった……!」
「それは、あなたと浅川さんの、二つの作品に関係することなのかしら?」
「……はい」
安里寿さんの質問に短く答えた霧島さんの瞳から涙が溢れ出ました。
「私は――私は許せなかったんです……! あんな物で、あんな程度の物で! 尊敬する鷺ノ宮先輩の美しさや素晴らしさが表現できていると思われるのが嫌だったんです! 私がどれほどの時間をかけて……うううっ……!」
ああ、当たらなければ良い、と思っていたあたしの予想が当たってしまった――。
その瞬間は、確かにそう思っていました。
だからこそ、赤坂先生の次の問いかけには何の疑問も抱かなかったのでしょう。
「それで、浅川の作品に手を出したのか」
「……はい、そうです。申し訳ございません……」
それまで止めていた息を吐き出して、赤坂先生は大きく肩を落とします。
「しでかしたことは、もう今となってはどうにもならんだろ。退部した生徒の作品だったのがまだ救いだったな……。しかしだ」
赤坂先生の力ない笑いが引き締まり、いつになく真剣な眼差しで霧島さんを射抜きます。
「霧島、お前の決して振り返らないひたむきさと常に完璧であろうとする強い意志は、間違いなくお前の長所だ。ただそれは同時に短所にもなりうる。それは自覚すべきだ。分かるな?」
こくり、と霧島さんは頷きます。
「お前の芸術的センスはずば抜けている。それは俺が保証してやる。……だがな? それだけじゃ駄目なんだよ。お前のような奴は特にだ。もっと笑え。もっと楽しめ。あの浅川と竹宮のようにだ。そのために俺は、鷺ノ宮に言って、お前たちを組ませるようアドバイスしたんだ」
その一言で、その場にいる誰もが仰天します。
「え――? 赤坂先生のアイディアだったんですか!?」
「何だよ、おかしくないだろ。俺だって教師なんだぞ?」
浅黒い顔を赤黒く染めてむっつりと顔を顰めた赤坂先生はまるで子供みたいです。
「駄目にしちまったものは仕方ない。でも、話せばきっと分かってくれるんじゃないか?」
その瞬間でした。
霧島さんは言われたことが理解できなかったように、心底不思議そうに首を傾げたのです。
「あ、あの……。駄目にした……って、何の話ですか?」
「いや、だから――」
そして続いて語られた霧島さんの次の台詞で、あたしたちはもちろんのこと、赤坂先生が愛想程度に浮かべていた笑顔もまた、たちまち凍りつくことになったのです。
「あの時、あの場所で、皆さんがご覧になったあの絵は、確かに私の作品ですよ?」
「な……に……?」
「どういうこと?」
言葉を失くしたあたしたちの前で、霧島さんは静かに微笑んでいます。
途端、ぶるり、とあたしの背中に冷たいものが駆け抜けました。それほど綺麗で、怖い微笑みを霧島さんは浮かべ、そこにいない誰かを懐かしみ愛しむかのように宙を見つめていたのです。
「そう。私は嫉妬してしまったんです――あの浅川さんの描き上げた鷺ノ宮先輩の肖像画に。入部してまだたった一ヶ月。油絵を描くどころか、真剣に芸術と向き合ったこともない素人の描いた稚拙な絵だ、最初はそう思うことで自分を上手く騙せたつもりになっていたんです。でも……無理でした。完成が近づくにつれ、日に日に私の心は浅川さんの描いたあの絵に、いや、彼女のキャンバスの中にいる鷺ノ宮先輩に囚われてしまったんです。ですから――」
霧島さんは一瞬泣き出しそうに顔を歪めてから、素早くそれを隠し、あたしたちに告白したのでした。
「私は、愚かな私自身の生み出してしまった陳腐な贋作を葬り去ることに決めたのです」
ある方は白いキャンバスに油絵具で若々しくのびやかな肢体を、ある方は水粘土を使って女性らしく滑らかな起伏と表情を見せる塑像を。彼女たちは、ありとあらゆる方法とさまざまな画材を使って、それぞれの目に映った「一人の名も知らぬ裸婦」を表現しようとしたのです。
しかしもう今は、その誰の姿もありません。
彼女と彼女たちが確かにそこにいた証である「作品たち」が、夕闇が忍び込んでくる美術室の中にぽつぽつと静かに佇んでいるのみです。
わずかな人影は四つきり。
それは――霧島さん、赤坂先生、『動かざる名探偵』こと四十九院安里寿、そしてあたし。
深刻そうな状況をお察ししてお暇しようかと声を掛けたものの、霧島さんご本人の口から、安里寿さんとあたしにも聞いて欲しい、と残るよう言い含められてしまったからです。
「で……話というのは何だ、霧島?」
「……」
あまりに長すぎる沈黙にとうとう痺れを切らした赤坂先生が切り出しましたが、霧島さんはまだ無言のままです。その表情には逡巡と苦悶が色を濃く浮かび上がっています。見ているこちらまで息が詰まるような、そんな緊張感で空気がピンと張り詰めていました。
そうすること、五分。
「あ、あの……。私は美術部を辞めなければなりません」
霧島さんは血を吐くように小さな呟きを漏らしました。
「辞めようと思う、じゃなく、辞めなきゃいけない、と来たか……理由、教えてくれるか?」
「許されないことを……したからです。芸術を志す者として」
「なあ、おい、霧島――?」
赤坂先生は少し笑ったように見えました。
「おいおい。許すも許さないも、俺は見てのとおり教会の神父様じゃない。そんな御大層な人間じゃないんだぞ。けどな? ……懺悔がしたいのなら聞いてやる。正直に話してみろよ」
「……はい」
またしばらくの沈黙。
けれどあたしたちは無言のまま、霧島さんの言葉を待ちます。
「たぶん……嫉妬したのだと思います。私は嫉妬したんです。してしまったんです」
霧島さんはスカートの上で、きゅっ、と二つの拳を関節が白く浮き出るほど握り締めます。
「だから、あんなことをしてしまった……! 決して許されない行為をしてしまった……!」
「それは、あなたと浅川さんの、二つの作品に関係することなのかしら?」
「……はい」
安里寿さんの質問に短く答えた霧島さんの瞳から涙が溢れ出ました。
「私は――私は許せなかったんです……! あんな物で、あんな程度の物で! 尊敬する鷺ノ宮先輩の美しさや素晴らしさが表現できていると思われるのが嫌だったんです! 私がどれほどの時間をかけて……うううっ……!」
ああ、当たらなければ良い、と思っていたあたしの予想が当たってしまった――。
その瞬間は、確かにそう思っていました。
だからこそ、赤坂先生の次の問いかけには何の疑問も抱かなかったのでしょう。
「それで、浅川の作品に手を出したのか」
「……はい、そうです。申し訳ございません……」
それまで止めていた息を吐き出して、赤坂先生は大きく肩を落とします。
「しでかしたことは、もう今となってはどうにもならんだろ。退部した生徒の作品だったのがまだ救いだったな……。しかしだ」
赤坂先生の力ない笑いが引き締まり、いつになく真剣な眼差しで霧島さんを射抜きます。
「霧島、お前の決して振り返らないひたむきさと常に完璧であろうとする強い意志は、間違いなくお前の長所だ。ただそれは同時に短所にもなりうる。それは自覚すべきだ。分かるな?」
こくり、と霧島さんは頷きます。
「お前の芸術的センスはずば抜けている。それは俺が保証してやる。……だがな? それだけじゃ駄目なんだよ。お前のような奴は特にだ。もっと笑え。もっと楽しめ。あの浅川と竹宮のようにだ。そのために俺は、鷺ノ宮に言って、お前たちを組ませるようアドバイスしたんだ」
その一言で、その場にいる誰もが仰天します。
「え――? 赤坂先生のアイディアだったんですか!?」
「何だよ、おかしくないだろ。俺だって教師なんだぞ?」
浅黒い顔を赤黒く染めてむっつりと顔を顰めた赤坂先生はまるで子供みたいです。
「駄目にしちまったものは仕方ない。でも、話せばきっと分かってくれるんじゃないか?」
その瞬間でした。
霧島さんは言われたことが理解できなかったように、心底不思議そうに首を傾げたのです。
「あ、あの……。駄目にした……って、何の話ですか?」
「いや、だから――」
そして続いて語られた霧島さんの次の台詞で、あたしたちはもちろんのこと、赤坂先生が愛想程度に浮かべていた笑顔もまた、たちまち凍りつくことになったのです。
「あの時、あの場所で、皆さんがご覧になったあの絵は、確かに私の作品ですよ?」
「な……に……?」
「どういうこと?」
言葉を失くしたあたしたちの前で、霧島さんは静かに微笑んでいます。
途端、ぶるり、とあたしの背中に冷たいものが駆け抜けました。それほど綺麗で、怖い微笑みを霧島さんは浮かべ、そこにいない誰かを懐かしみ愛しむかのように宙を見つめていたのです。
「そう。私は嫉妬してしまったんです――あの浅川さんの描き上げた鷺ノ宮先輩の肖像画に。入部してまだたった一ヶ月。油絵を描くどころか、真剣に芸術と向き合ったこともない素人の描いた稚拙な絵だ、最初はそう思うことで自分を上手く騙せたつもりになっていたんです。でも……無理でした。完成が近づくにつれ、日に日に私の心は浅川さんの描いたあの絵に、いや、彼女のキャンバスの中にいる鷺ノ宮先輩に囚われてしまったんです。ですから――」
霧島さんは一瞬泣き出しそうに顔を歪めてから、素早くそれを隠し、あたしたちに告白したのでした。
「私は、愚かな私自身の生み出してしまった陳腐な贋作を葬り去ることに決めたのです」
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